題名:巡り巡って

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日付:2003/11/29


大谷観音-平和観音:栃木県(2003/11/1)

さて、大谷資料館からてくてくあるくことしばらく、「大谷観音、平和観音」なる矢印が見えてくる。ここにもこんな立派な倉つきの廃屋がある。

おうちが崩れても大谷石でできた倉は大丈夫でした。などと考えているうちに大谷観音に着く。300円払い中に入るといきなりこんな光景にでくわす。

つまるところ洞窟というか岩のへこんだところに建物がはさまっているのである。建物だけ観ているとなんでもないのだが、上を見上げると巨大なオーバーハングがあり、なんとなく圧迫感を感じる。こんな環境でも毎日観ていればなれてしまうものかもしれないが。

さっそく中にはいるといきなり千手観音というか手がたくさんある観音が岩にへばりついている。磨崖仏ならぬ 磨崖観音である。手の数は42本。なんでも元々は岩の上にしっかりと造形がなされ金箔まではってあったそうなのだが、江戸初期の火災でそれらは全てなくなってしまった。そこら中に撮影禁止の札がやたらはってあるので、寺の前にあった案内板にあった写真を載せておく。

その先にいくと別の岩壁に仏像がいくつも彫られている。遠い昔大分に磨崖仏を見に行った事があるが記憶の中にあるそれらよりもずいぶん立派な造形がなされている気がする。仏像によって彫られた時期が異なるらしい。もちろん誰が彫ったかはわからない。こちらも撮影禁止なので案内板の写真をどうぞ。

そこを出ると宝物館のようなものがある。なんでもあの磨崖仏やら磨崖観音があった洞窟には縄文時代の石器やら人骨やらがあったとのこと。縄文時代の平均寿命は30歳。私は当時だったら長老と呼ばれる年頃なのだが、そのころに産まれていればこの年まで生きてはいなかっただろうな。発掘された20代前半の男性の遺骨を観ながらそう考える。

そこを出ると来た道を更に奥に進む。大きな岩のトンネルのようなところをくぐるとその先は広場のようになっている。さて、あれはどこか、と思いながら振り返ればいきなりぬーっと立っている。

平和観音建立発願文に言う

「..第二次世界大戦により、敵味方共に戦傷死するもの幾百万と云う其数計り知らず、今日、日本国独立の日を迎うるに当たり、永く彼我の霊を弔う為...
昭和26年4月8日」

高さ29m。下から大谷石で作られたとおぼしきそのお姿はなんだか平べったいし、なんとも言えぬお顔をしている。脇には階段があり、肩の当たりまで上れる。その階段登り口脇に「宇都宮観光案内」なるブースがあるのは何故だろう。階段がなんだか崩れかかっているなあ、と思いながらてくてく登る。観音様の姿を近くで見るとますますその薄さが実感される。まあ作る方にもいろいろ理由はあったのだろうなあ。

その先には金網で囲まれ「立ち入り禁止」とされたエリアがある。近くに説明を書かれていたとおぼしき板があるのだが、文字は全て消えてしまっており(もし何か書かれていたとすればだが)後ろにある丸い岩の正体もなぜここが立ち入り禁止になっているのかもわからない。人が歩くための階段のようなものは左右にあるのだが。。

といったところで、大谷見物はおしまい。巨大観音あり、磨崖仏あり、地下の広大な洞窟あり、廃墟あり、と観音マニア、珍スポットマニア、廃墟マニア、誰にとっても楽しいエリアだと思うのだが、その事実はあまり商売の足しにはならぬかな。

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注釈