題名:巡り巡って

五郎の入り口に戻る

日付:2002/11/2


鳥居観音-続き(2002/10/5)

そこから歩くことしばらくようやく大観音に到着である。観音自体は3体一セットになっていることを除けばそれほど変わったことはない。

しかしその足下にある建物は異様だ。まず入り口はどことなくギリシャ風味であり、その柱の周りには6頭のライオンらしきものがぐるりといる。

門はステンレスでできた頑丈そうなものでその両脇に仁王像がいる。説明を信じれば徳川時代の名作とのことなのだが、どうみても顔が変だ。目が怖い。

200円払って中に入る。うけつけにいるおじいさんに「展望台の扉が閉まっていても簡単に開きますから。帰るときは閉めて置いてください」といわれるがそのときすでに私の心は内部の異様な光景で占められていた。正面には阿弥陀如来がおり、左右には吉祥天、不動明王がいる。

ちなみに頭に上にあるミラーボールのようなものは「アラビアンナイトで有名なイラン国」で買ってきたのだそうな。

上を見れば壁から8体の天女がつきでており、ステンドグラスがある。仏教の絵柄とステンドグラスが合体するとかくも異様な雰囲気をかもしだすものか。

やたらと展示されている仏像にはなぜか一円玉やら十円玉が置かれているがこれはなんであろう。

一通り感嘆すると私は中央にある階段を登り始める。しかし途中まで登ったところで思い出した。私は大変な高所恐怖症で高いところは大の苦手であった。何とも言えぬ強迫観念に襲われ足を進めるのがつらくなってくる。しかしここで負けてなるもんか。さらに登るにつれ階段はとても狭くそのうち観音の外側らしき壁がすぐ近くに見えてくる。ここで壁の一部が崩れれば私は転落して死ぬことになるのだろうか。そしてスポーツ新聞に

「観音に殺された男」

とかいう見出しとともに紹介されるのだろうな。ええい、今日私がここで見た異様な光景をサイトにアップするまでは死んでも死にきれない。登るのだ、と文字にしてみると錯乱しているとしか思えないのだが、ともかくそのときはそう考えていた。

最後のまっすぐなはしごを登るとようやく外に出る。ここは観音の後頭部辺り。幸いにも周りは金網でしっかり囲まれており私はさして恐怖を覚えない。周りの風景は美しく気持ちがいいがそれ自体はどうということはい。階段を下りる。そこで気がつく。展望台の扉を閉めるのを忘れてしまった。まあすぐ次に別の人が登っていったから大丈夫。

中を見終わると建物の周りをぐるっとまわる。なにやら宗教的な場面を描いたレリーフがあり、屋根の上には四天王がいる。

中にある説明に言う。

「この建築様式は、中近東およびインド等の古代様式を日本の寺院の様式にミックスして現代式とし、何とか調和するように苦心して設計したもので、現代では日本の寺院建築とは大分異なって居るが、将来は昭和時代の建築物として認められるのではないかと思う。」

同様の説明が外部にもある。想像だが中にある説明は制作者が書いた物であり、外の説明は他の人間が書いた物ではないか。外の説明の該当部分はこうなっている。

「...ミックスし、更に新しい試みを加えて調和せしめた昭和現代様式ともいける平沼先生苦心の設計である。」

読み比べてみると、中にある文章の方が自画自賛と、認めてもらえないのではないか、という不安がいりまじっていて楽しく読めるのだが。

帰りは車道を通った。下りだから楽だろうなどと考えたのは甘かった。あまりに勾配が急であるため下りにも筋肉を酷使することになる。そのうち行く手に何かが見えてきた。支那門こと玉華門である。

内側にこの門を建築するまでに経緯が書かれている。よく読めなかったが平沼氏がいきなりここに支那門が必要だと言いだし、蛇の目ミシンの社長がどうとやら。あれこれ支那門の様式を調査し建築を始めたところで平沼氏が告訴され5年の裁判の後に無罪となったとか書いてあったように思う。(嘘だったらごめんなさい)しかしそもそもなぜこの場所に支那門なのだ、という疑問に対する答えは見つからない。

さらに急な坂を下る。そのうち見えてくるのが「白雲山観音パラダイス」と書かれた「トーテンポール」であるのだが、その意匠は例によって異様だ。

更に坂を下ると緑に半ば埋もれかけた橋があり、その先に何かがある。もう私は蜘蛛の巣とも藪とも戦う気力がないのでいかなかった。地図によれば「埴輪型四阿」とのことだがそれはいったいなのだ。

ここでようやく出発点に戻る。「拝観ありがとうございました」の文字が迎えてくれる。足はよれよれ。気持ちのいい日にハイキングをした、と言えなくもないの今の気持ちは歌を歌いながら歩いてヤッホーと叫ぶ物とはほど遠い。鳥居観音のWeb Siteに言う。

「宗教法人白雲山鳥居観音はどなたからもお詣りいただけますようにわざとどの宗派にも属さない(とらわれない)宗派を超えた単立寺院と言って、鳥居観音独自の宗教活動を行っております。」

私はずっと考えていた。宗派だ宗教の区別だなどというのは実にくだらないことだ。祈る気持ちが必要なら細かい事を言わずに「神様仏様メリークリスマス」でいいではないか。ここにあるいろいろな様式をごったまぜにした建物は意味のない区別にこだわる人たちへのパロディのようにも思える。

私が宝くじに300回くらい当たったら、ここをもっとすごい場所にしてみたいと思う。一神教も含めて全ての神様を平和にごちゃまぜにして並べたような。

おまけ:地下牢の三蔵法師一行

前の章 | 次の章   | 一覧に戻る


注釈