題名:巡り巡って

五郎の入り口に戻る

日付:2002/11/2


鳥居観音:埼玉県(2002/10/5)

家から定期を使い電車を渋谷へ。そこから池袋に行きさらには特急にのって飯能というところまで。電車を4本乗り継ぎ2時間以上もたつというのにまだここにはちゃんとした街がある。首都圏というのは広大なものであるなあと田舎者の私は感嘆する。

しかしまだ先は長い。飯能駅前からバスに乗る。バスの運ちゃんというのは同じ会社のバスやトラックとすれ違うと手をあげて挨拶するものらしい。そのうち道は狭くなりバス同士がすれ違うのは困難になってくる。狭い道ですれ違うときにも律儀に手を挙げて挨拶している。ハンドルの手元は大丈夫であろうかなどと乗客の私が心配してもしょうがないのだが。

そのうち山ばかりになる。そろそろつくはずだが、と思っていると山の上に白い観音像が見えてきた。今日の目的地鳥居観音である。

連慶橋というところでバスを降りて歩き出す。すると山の上に巨大観音、なにやらの建物、それにさらに正体の分からないものが見えてくる。思わず足が速まる。

入り口をくぐるとまずはここを作った平沼弥太郎氏の像がある。

彼は手に持った鎌で山を切り開き建物群を建築したのか。入り口にある説明から引用すれば

「この本堂の仏像は殆ど開祖平沼先生(元埼玉銀行頭取・元参議院大蔵委員長)の謹刻されたものであります。亡母の遺志を継がれて、昭和15年聖観音(脇待像共)を刻彫して以来仏刻を続け、山林を開拓植樹し、諸堂塔を造立して、わが国寺院の歴史に類例のない霊場を残され、昭和60年、93才で逝かれました。」

とのことなのだが。

はいるとすぐ本堂がある。誰でもあがってください。靴は脱いでね、と書いてあるので靴を脱いであがってみる。正面には名前は知らないが神様仏様のたぐいがうじゃうじゃいる。

日頃こうした像にあまり感心をいだかない私でさえ、これだけいればなんか御利益が有りそうにも思う。それはなかなかご機嫌な光景なのだが、本堂側面の窓に描かれている不思議な絵を発見しちょっと不安な気持ちになる。

そこを出ると鳥居文庫なる建物がある。入り口にはなぜか三蔵法師一行をかたどったと思われるトーテムポールがある。

中には入らなかったが、その代わりその文庫の地下というか下にある金網に囲まれた異様な空間を見物する。

他のサイトに書いてある記述を信じれば、平沼氏が作りまくったものの置く場所がなくこうしてこの「地下牢」にまとめてあるとのことだが、その雰囲気はなんとも怪しい。さて、ここから先に進むためにはいくばくかのお金を払わなくてはならない。ゲートと人がいるべき小屋はあるのだが誰もいない。とはいってもタダではいるのは気が引けるしどうしたものだろう。しょうがない。小屋のガラス戸の中にでも置いておこうかと、ガラス戸を開けようとした瞬間後ろから声をかけられた。なんでもゲートのところにある箱にいれておけばいいのだそうな。200円払うと心晴れやかに山道を登り出す。看板を信じれば大観音まで40分。

しかしその道のりはなかなか険しい。先日関東を直撃した台風のせいかあるいはもともとそうなのか道には木やらなにやら落ちているし、そこらじゅうに蜘蛛が巣を張っている。それを払いのけるというかとにかく突っ切って進むのだが道は急な上り坂ですぐに息が上がってしまう。(こうして書いていると運動不足と体重過多が主な原因という気もするが)

そのうち何か見えてきた。仁王門である。しかしそれとは反対の方に「地蔵堂」という看板がある。いっては見たがあったのは何かの土台と地面におかれた瓦だった。

気を取り直して仁王門に向かう。なんでも「大東亜戦争勃発のため」完成までに10年を要したということだがそれ自体はしごくまともな仁王様である。そこを通り過ぎるとなにやた建物が見えてくる。看板によれば昭和15年ここが開かれたときには本堂だったそうな。今日では平沼氏のご両親をまつっている、とある。中を見れば確かにご両親らしき銅像が祭られている。

お堂の中に人間の銅像が二つというのはあまり見たことが無いような気がするが気にせず先に進む。藪と戦い蜘蛛の巣と戦い。これだけ蜘蛛の巣が張っているということは滅多に通る人がいないということであろうか。などと考えているうちにまた別のものが見えてきた。地球愛護平和観音である。

地球を足蹴にしているなどと考えてはいけない。ありがたい観音様なのだ。なんでも

「化学文明の急速な進歩革新により、自然を征服する思想が芽生え、山川草木ことごとく汚染破かいを見るに至った。これは神仏を恐れない行為であり、洪大な天地の思想を無視するもので(中略)

こうした現状に鑑み、地球愛護平和観音を建立し、天地自然と共に人類の繁栄を祈念するものである。」

のだそうな。実際この観音様は自然と一体化しており、周りは藪だららけでこの角度でしか写真をとることができない。足下が展望台のようになっているがそれ自体はどうということもない。そもそもこの観音様の全貌はどうなっているのか知りたいと思いそこからしばらく歩いたらそのお姿は藪の中に消えてしまう。まもなく道が二股に分かれており、左側を40分登れば琴比羅神社があるそうだが、その先は藪に包まれており、どうみても道があるようには見えない。

ぜいぜいいいながら歩くことしばらく。人の声がする。見れば車道を歩いて登ってくる家族連れのようだ。人が私以外にもいることをしりなんとなくうれしくなるのはここまでの道が孤独でどこか異様なものであったせいか。

そのうち広けた場所に出る。大鐘楼である。

日本で普通に見る鐘楼とはなんとも異なった様式だ。周りをぐるっと回ってここからなら平和観音が正面から見えることに気がついた(逆に言うとここからしかまともに見えないのだが)

どうやら羽かなにかが生えているようだが遠くてよくわからない。今まで愛用しているデジカメのズーム能力に不足を感じたことはなかったのだが、あの観音をちゃんと眺めるためには望遠鏡が必要であろう。ええい、と思いながら先に進む。車も何台か止まり写真など撮っている人たちもいる。昭和35年建造の玄奘三蔵塔である。

なんでも玄奘三蔵の遺骨を分けてもらって安置してあるのだそうな。下から順番に日本、中国、印度と三蔵法師ゆかりの様式で作られているとのこと(日本に何のゆかりがあるというのだ)。その意図は明快だができたものはなんとも言えぬ雰囲気をまとっている。おまけに入り口付近には怪しげな動物の彫刻がうようよいる。

ぐるりと回って一階があるのに気がついた。そこは休憩所のようになっている。やれうれしや、少し休もうと思い入っていくとぎょっとする。そこには顔だけが浮き上がった何かがあるのだ。

なにやら文字が書いてあるのだがよく読めない。このレリーフの迫力に押されここで休憩しようという考えを捨てる。しかしふと考えた。千と千尋にでてきた「廃墟化したテーマパーク」はこんなところかもしれない。とても静かでそしてどこか異様である。

さて、そこからは比較的まともな道を進むことになるが勾配は相変わらず急で登るのがつらい。そのうち坂をジグザグに上ろうとかと考える。それでも足が進まなくなると後ろ向きに歩いてみたりする。つかう筋肉が違うらしくしばらくは楽に歩ける。とはいっても長続きしない。

苦闘すること数分。ようやく下りとなった。その先にあるのが下からも見えていた納経堂である。

説明によれば印度にあるやつを模したとのことだがその看板自体が松の枝で覆われており読みづらい。あとは観音まで歩くだけと思ったが道の脇になにやら石碑が見えてくる。読めば「満蒙開拓青少年義勇軍 昭和十六年度 埼玉郷土舞台第一中隊之碑」であった。出発の時彼らはどんな気持ちだったのだろうか、その後彼らはどうなったのだろうか。そんなことを考えしばし立ち止まる。しかしいつまでもそうしてはいられない。大観音はすぐそこにある。

(続く)

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注釈