題名:巡り巡って

五郎の入り口に戻る

日付:2002/10/2


佐和山遊園-彦根駅東口:滋賀県(2002/9/14)

国宝彦根城に行くには、JR彦根駅で降りる。駅の観光案内所で配布されている「彦根観光地図」は九割方駅の西側で占められており、東側にあるのは

「佐和山:三成が五層の天守を持つ立派な城を構えていたと伝えられる。」

といった記述とハイキングコースを示す点線だけである。

しかし観光地図がどうなっていようとそこにはあるのだ。1998年、彦根城を訪ねた後ふと駅の東側に目をやった。するとそこには異様な光景が広がっていた。朽ち果てかけた電車の群れと寂れた工場である。

1998年に撮った写真

当時は「廃墟」だの「珍スポット」だのという言葉があることすら知らなかったから写真を撮っただけでそこを立ち去ってしまった。それから4年、インターネットをあさり無用な知識を頭に詰め込んだ私は再び彦根駅に降り立ったのである。国宝彦根城ではなくその駅の東側を探訪するために。

電車に乗っている時からそれは見えていた。はやる心をおさえ改札をくぐり抜けてふと考える。駅の東側にはどうやったら出られるのだ。あちこちあるいたあげく判明したことは彦根駅に東口はない、ということ。こうなればとにかく歩くしかない。

てくてくと歩き続けることいくばくか。ちらちらと見えていたそれは国道8号の下をくぐった後はっきりとした姿を見せた。

金閣寺だ仏像だと景気よく立っている。手前に人家らしきものがあるが、庭に茶室があり、なぜか高床式である。(写真で分かるとおり塀の上にとびでている)どうも変だなと思い見渡せば少し先に「佐和山歴史館」なる看板がある。そのすぐ近くに「佐和山美術館」という看板もあるがこの関係はよくわからない。ついでに言えばその隣に「彦根歴史公園」という立派な石碑もある。あまり気にしないことにしよう。

名前はともかくとして、すでにそこは閉鎖されており、入場料だの開館時間をしめした看板にもガムテープで×が打たれている。おまけに駐車場とおぼしき場所には工事用のトイレだの小屋だのが設置され、何人かの作業服を着たお兄さん達が話をしている。ひょっとするとここは取り壊されてしまうのだろうか。確かに中を覗いても雑然としているだけで営業しているようには見えないのだが。

ひとしきり写真を撮ると佐和山遊園の門をくぐる。入り口にはこう書かれた看板がある

「佐和山遊園 彦根市八号線沿 トンネル入り口

ただよふ 歴史のロマン 自然の中のレジャーランド 佐和山観音 石田三成絵巻 ○○(判読できず)資料館 子供遊園地等」

全部見終わっても子供がどこで遊べるのかはわからなかった。想像するにかつて存在したであろう遊園地は仏像、鐘楼、金閣寺に姿を変えてしまったのだろうか。

遊園地の入り口によくあるくるくる一方向だけに回るしかけがあるのだが完全にさび付いており回るとも思えない。入るといきなり植物が満載である。トイレはおよそ立ち入れるとは思えず、休憩所らしき場所の入り口には「休憩所」という看板が立ちはだかっている。いきなり顔に蜘蛛の巣がかかる。ええい、と気を取り直して前に進む。私は極端な毛虫恐怖症であり、今が毛虫の季節がどうかにかかわりなく虫が食ったとおぼしき葉っぱには恐怖を覚えるのだ。なのに行く手はほぼサクラの枝葉にふさがれている。いや、ここで引き下がるわけにはいかない。

佐和山城の天守とおぼしき建物の前には馬に乗った三成の像が建っている。(それとは別に馬が2匹ほどいるがこれがなにかはわからない)しかしその顔が妙に平面的なのが気にかかる。

裏を観ると昭和59年4月に建造されたと書いてある。破れた城の窓から中を覗いてみるが内部は荒れ果てており、何があったのかすら想像できない。あるいはもともと何もなかったのかもしれない。

そこから城の横の坂を上る。坂の脇には三成の生涯を描いた絵が立派なコンクリートの箱に収められている。

秀吉の薦めで結婚、朝鮮に出兵、などのイベントが描かれ、関ヶ原の合戦始まるという絵は他の絵の2倍の大きさ。次にあるのが小早川秀秋裏切りという題がついた絵なのだが、そこに描かれた小早川秀秋の顔はとんでもない間抜け面。おそらく石田三成への愛と小早川への憎しみがこの顔に表されているのだろう。

そこがほぼ天守の最上段であり、そこから先は藪の中に道が消えている。しかし絵とコンクリートの箱はまだ続いているのだ。そこから後数枚の絵は三成の最後をどう描いているのだろう。私は唯それを遠くから眺める。だって藪が深いんだもん。一息入れて振り返れば国宝彦根城が遠くに見える。

そこから道を右に折れると観音がある。

台座にあったであろう文字ははがれており、顔の奇妙さと胸部のリアルさが気になるが先に進む。すると木の間からでてくるのは金閣寺だ。

この金閣寺遠くから観ると結構立派に見えるのだが近くから観るとその金色の正体が分かる。金色の箔の上から透明なアクリル板を張った物なのだ。一階部分ではそれがはがれつつあるが、修理された様子もない。

金閣の中には真ん中になんかの仏像、両脇に別の何かがいるのだが、3体とも顔が妙である。

そこから道はわかりにくくなる。鐘楼のようなものがあり、確かに2階に鐘があるがそこについている奇妙な動物はなんなのだろうか。中央に鼻とも角ともつかないものが突き出てはいるのだが。

そこから仏像だのなんだのが並ぶ通りがある。しかし仏像は全て裏からワイヤーで支えられており、その下にあるのは外から見ると石垣だが裏から見えるのは鉄骨の骨組み。

どうやらそこは資材置き場として使われているらしい。仏像の顔自体はまともであり却って面白くもなんともない。しかし油断するのはまだ早い。この道は造りかけの何かに突き当たっており行き止まりとなっている。そしてそこからは金槌の音が響いてくる。

みれば60−70代とおぼしき男性が一人でひたすら金槌をふるっている。私は近くにたってぼんやりとたっていたが向こうはこちらを気にする様子もない。話かける気も起こらず私はそこを後にする。

金槌の音が響いているということはまだここが全面的に取り壊されるわけではないのだろう。新しい物を作る力があれば今ある城をなんとかしてほしい、などというのも部外者の勝手な戯言に過ぎない。門の脇にある五重塔は確かに5層重なっているが妙に小さく細い。「珍寺道場」でこの場所は「造りまくれ〜!オノレのその脳内世界を!」と紹介されているが、ここを巡っている間その言葉が私の頭の中で響き続ける。

この場所の将来についていろいろな事を考えながらも足は前に進む。ここの隣にあるはずの廃墟と化した工場を目指す。

とはいってもどっから接近したらいいかもわからない。ずいぶんふらふら歩いたあげく、国道8号沿いにちゃんと門があることが判明した。

住友大阪セメントの彦根工場。関係者以外立ち入り禁止の文字があり、社会人になってすぐ立ち入り制限のとても厳しい会社に勤務した身で有ればこうした看板を観るとたちまち足が止まる。しかしそこから見える範囲は荒れ果てており、「ご用のあるかたは守衛所まで」と書いてあるのだが守衛所にも誰もいない。

どうしたものかと思い脇の坂を少し上る。すると敷地内に綺麗な車がたくさん駐車されていることに気がつく。荒れ果てたとしか見えない工場とその車の対比はなんとも奇妙だ。まだ工場は稼働しており、そこで働いている人たちの車だろうかなどと考えたが、後で調べたら工場は平成8年3月に閉鎖されていた。ではあの車はなんなのだろう。

そんなことを考えながら歩き続ける。駅の裏に見えた電車の群れとおぼしき方向に歩いていく。するといきなり目にはいるのはこの光景だ。

左側の車両はそれなりに動きそうにも見えるが右の車両は完全な残骸と化している。そこから線路にそって歩く。いろいろな塗装をされた車両が数珠繋ぎになっているが塗装がはげていたり扉が開けっ放しになっていたり。「保管」されているのが「破棄」されているのか私には区別が付かない。一番前に停車している車両だけは現在も使われていると確信することができたが。

後で調べたところではここは近江鉄道彦根車庫と呼ばれ、様々な形式の電気機関車がそろっていることで有名らしい。しかしそれが意図的に保存・展示しているものとはとうてい思えないのだが。

異様な光景の連続に圧倒されながら歩き続ける。彦根駅東側開発なんとかという事務所があるのだが、そこの駐車場は工事現場にある柵のような物でしっかりと閉鎖されている。ああ、東側を開発すること能わず、返り討ちにあって廃墟化してしまったか。駅に戻り今来たエリアを振り返る。工場の手前には結婚式場とおぼしき巨大な教会のような建物があり、その建物だけは「生きている」という気がする。しかしうち捨てられたとしか見えない工場とてかてか光る金閣寺に囲まれて永遠の愛を誓うというのは一部の人間には歓迎されるだろうが大抵の人は敬遠するだろう。彦根駅東の開発計画やいかに。そのとき佐和山遊園はどうなるのだろう。

駅、それに列車の中はまともな世界でありほっとする。そんなことを考えるほどこの2時間の経験は異様なものだったのだ。

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注釈