題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:1999/4/2


16章:最初の秋休み

さて、英語学校が終わると9月に学期が始まるまでつかのまの休みである。私はこの終業式が終わった直後(その日の午後だが)から英語学校で知り合った人たちとCanadian Rockyに行っていた。この時のことは詳しくは書かない。Canadian Rockyの光景には正直いってぶったまげたが、そのほかは特に何もない平和な旅行であった。おまけにそのぶったまげたCanadian Rockyの光景であるが、これにはあまりうれしからぬニュースが付随していた。私は行く順番を間違えたのである。同じ傾向の「大自然の景観」であれば、その規模の小さい物を最初にみて、その後規模のすごいものを観るべきだったのだ。米国のホームラン争いを観た後では日本のホームラン争いが「へっ」と見えてしまうようなものである。具体的にはまずSan Fransiscoの近くにあるヨセミテにいって、その後Canadian Rockyに行くべきであった。私は米国を去る間際になってヨセミテにいくことになるが、最初のCanadian Rockyの感動が大きかったせいか、「ふーん。こんなもんね」というくらいで終わってしまったのである。

さて、次にはPittsburgにいるMr.Aのところに遊びに行った。まず二人でWashington DCに行った。このとき足を棒にしてあれこれ見回ったことは英語力とは関係ない。関係あるのはミュージカルだ。たまたまやっていたLes Miserableを観たのであるが、それがほとんど理解できなかった。ミュージカルそのものがすばらしく、言葉がわからなくても感動が伝わってきたのは幸いであったが、いずれにしても少なからぬ金をはらっているのだから、「なんでこんなんなんだ」とあれこれ考えてしまっても不思議はない。後から考えればミュージカルなんてのは日本語でやられたところでセリフは理解できないのだが。

さて、それから彼の授業が始まってしまったので私は一人でナイアガラの滝を見に行くことになった。ここから私の「英語でHotelを予約する戦い」というものが始まったのである。

Mr.Aに「どうやって予約すればいいんだ?」と聞いたら「この予約センターに電話すればいいよ。ではがんばって」とあっさり言われた。私は「ぶつぶつ」言いながらその予約センターに電話をした。そしてたぶんつたない英語で「ナイアガラの近くのMotelを予約したいのだけど」と言ったのだろう。

さて、相手はこちらがつたない英語でしゃべろうが、流ちょうな英語でしゃべろうがいっさい関知しなかった。彼女は(今でも覚えているが相手は女性だった)彼女のペースで話し出したのである。そしてそれは当時の私にとって大変なスピードであった。とにかく到着する日と、泊まる日数と名前くらい言えばいいだろう、と思っていたのだが問題が一つあった。この時私はまだ米国でのホテルの予約方法という物を理解していなかったのである。

今でもきちんと理解しているわけではないが、たぶんこんなことではないかと思う。ある一定の時間までに到着しない場合、他の人に部屋を回してしまう場合があるよんと。でもってそれがいやならばカードの番号を教えろ。いざとなったらそれにチャージしてやるから。

このシステムに伴い相手はたとえば"How do you guarantee late arrival"とかなんとか聞くわけだ(実はこれはこれを書いている時に来た出張でホテルを予約するときに聞かれたセリフなのだが。今であってもこの言葉を正確に聞き取ることはできない。)そして不幸にしてこの言葉は,そしてこの文章が意味するところは当時の私の頭の中には存在していなかったのである。そして概念そのものを理解していない事柄に関してつたない言葉を使って理解する、というのはまず不可能に近いのである。

私は彼女を相手に何度か聞き返した。だってどの英語学校でも「解らないときは恥ずかしがらずに聞き返しなさい」というではないか。おまけにこの会話には私のナイアガラでの宿がかかっているのである。しかしそんなことは相手の知ったことではない。彼女は何度か繰り返している間に明らかにいらだってきた。そして小心者の私としては、相手に怒られてしまってはいくばくかの屈辱感と今後への不安感とともに電話を切るしかないのである。

私はMr.Aのところにぶらぶらもどると「イヤー大変だったよぶつぶつぶつ」とか言った。相手は「いやそれは相手が”こいつはしゃべれる”と思ったからだよ。わっつはっつは」とか脳天気な事を言っている。しかしこれは今だから言えることだが仮に今私がMr.Aと同じ立場になったとしても同じ態度をとると思う。こうしたやりとりは確かに苦痛だ。しかし私が知る限りこういう苦痛を通じてしか上達というのはあり得ないようなのである。であれば相手からどんなに恨みがましい視線を受けようが「はっつはっつは」と言うのが正解なのではないかと。

さて、いざナイアガラに行くとなると車を借りなくてはならない。Mr.Aの案内で市内にあるレンタカー屋に行った。そこで「車を借りたいんだけど」と言うときに私はちょっとしたパニックに陥ったのである。

何故か知らないが"Rent"という言葉を「借りる」ではなくて「貸す」という意味だと思い始めたのだ(実は「貸す」はlendである)そうだとすると"Can I rent a car"では「車を貸そうか?」ではないか。これはとてもレンタカー屋に行って言うせりふとは思えない。

では「借りる」ってのは、、そこでぽっと頭に浮かんだ"Borrow"を使って"Can I borrow a car ?"と言った。しかし後から考えればこれはやはりおかしかったのである。しかし相手は妙に調子のいい男でそんなことは一向気にしないようだった。彼は私との会話が終わる間での間に少なくとも10回以上は"No Problem"と言った。その調子はあまり"No Problem"とは思えないようなものだったが、私としてはとりあえず言葉が通じて予約ができたので一安心である。もっともそれから何度かの痛い経験を経て、「相手が"No Problem"と繰り返す場合は"No Problem"ではない」という悟りを得るに至ったのであるが。

さて、Mr.Aの行く大学には他にも日本人が何人かいる。そして彼はすでにその日本人同士でお友達を作っているようだった。一人某大手の電機会社から派遣されてきている女性がいた。彼女は確か海外居住経験があり、その英語の能力は当時の私からみれば「とんでもない」ところにあった。たとえばこうだ。私が当時大変気に入っていたPaula Abdoulというすばらしい歌手がいた。彼女のどこを愛していたかといえば、歌ではなくその踊りである。(もともと彼女は最初に振り付け師として名をあげたのだ)

さて、踊りが好きなわけだからCDを買っても今ひとつ感動がわかない。私はPittsburghであれこれさがしまわったあげく、ようやく彼女のビデオをみつけた。Mr.Aの家に帰るとさっそく観てみる。これが私の好きなビデオクリップがすべて含まれていて大坪君大変満足である。そのビデオクリップの間には彼女へのインタビューがはさまれている。そして当然のことながら当時の私にとってそのインタビューはほとんど宇宙語と同義語である。ところがその某大手電機会社からきた彼女はそれを聞いてけらけら笑ったり、あるいは「ふーん」と感心しているのだ。

彼女は海外居住経験があるとはいえ、日本語のほうも私よりも上手にしゃべっている。しかるにこの英語力の差はなんなんだ。。。と私は愕然とした。そして2年立った後に私はどの程度彼女に近づいているのであろうか、、と不安に襲われるのである。Hotelの予約もできないし、車を借りるときだって妙な言葉を使っているじゃないか。もう数ヶ月はたとうというのに。

さて、そんなことをしながら旅行は終わった。帰る間際にそれまで熱かったPittsburghはいきなり寒くなったが帰ってきてみればStanfordはまだ快適な気候だ。それから一週間ほどは何もせずにぶらぶらとしてすごした。そうしてこうしてぶらぶらしている間は特に英語にも困らず適当に暮らせる。しかしそうした平和な-そして退屈な時期はもうすぐ終わろうとしていた。秋学期の始まりはそこまで来ていたのである。

日記を読み返してみると9月10日に引っ越しをしている。Stanfordの学内にある寮というのはいくつか種類がある。そして人気のあるところ、ないところが存在する。ではどこにはいるのか?基本的には希望をとった上での抽選で決まる。そして抽選は秋学期からの3学期間と夏学期でそれぞれ行われる。

私は夏学期の間は(学校全体が空いていることもあって)きわめて数が少ない一人部屋に当選していたが、秋学期からはそうはいかない。どういう希望を出したが忘れたが結局あたったのは一番怖れていた1ベッドルーム,2 Studentsの部屋であった。つまりこれからの3学期、これまで一人で楽々占拠していたスペースに二人で住むことになるのである。しかし贅沢は言えない物で学内に住めるだけでも幸せだったのである。すべて希望を出した人間が学内にすめるとは限らない、と知ったのは翌年の秋の事だったが。

さて、引っ越しの手続きをしようと事務所に行けば例によって「おまえの名前はない」とか言われる。そろそろこういう事がすんなりいかないのにも慣れてきた。その日の夕方には荷物を移したが、とりあえず同室の人間はいない。私が当選したのは1bed room, 2 studentsなのだから、このまま私が2部屋を使えるなんてことはあるまい。従って誰かが私のRoom mateになるわけだ。この「誰か」は(さすがのStanfordであっても少なくともこのとき男と女のRoom mateは一般的ではなかった)どんな男であろうか?私としては期待半分、不安半分である。それまで私はこのRoom mateなるものについていろいろの伝説を聞いていた。

たとえばこんな話だ。I先輩は結婚してから留学に行ったからもちろん奥さんと住んでいた。しかしI先輩の日本人の友達には独身の人も居たようで、その中の一人のルームメートがユダヤ人だったらしい。そしてそのルームメートたるや、頑固でわがままでとにかく妥協という物をしらない人だったそうだ。そうして(これはたぶん偏見とよぶものであろうが)「ユダヤ人が何故世界中であれほど話題になるか理由の一端が解る気がする」と感想をもらしていたそうである。

仮にこの文章を読んでいるユダヤ人あるいはあらゆる差別に反対する人が居ても私にメールをおくらないでほしい。第一に私はその人の意見に賛同しているわけではない。(ユダヤ人の知り合いは一人もいないから「ユダヤ人はどうだこうだ」と私に言えるはずがないではないか)第2に所詮こうした「過度の一般化による偏見」というのは人間がくまなく持っている物だとおもうからだ。たとえば私がある人とルームメートになって、その人が私に対して大変悪い印象を持ったとすると「日本人ってのは。。。」と考えるであろうし、他の国の人間であっても同様である。「おれはそうした考えはいっさい持たない」と心から言える人は私に石を投げてもらって結構だが、たぶんそうした事を本当に言いきれる人は別の意味でちょっと変わっている可能性もある(変わっている、とは言っていない)

また私が一人部屋でのんびりとすごしていた夏学期の間にもいろいろな伝説が生まれていた。(人によってはルームメートが存在するアパートに住んでいたりしたのだ)一番強烈だったのが「ゲイ」のルームメートを持った男の物語である。

もっともこの「ゲイ」のルームメートは大変礼儀正しかったらしい。まず最初に「僕はゲイなんだ。しかし無理矢理君をおそったりすることはないから安心してくれ」と宣言したそうである。そして「その男」は実際襲われることはなかったのだが、一度こういうことがあったそうだ。

かのルームメートは「今晩この部屋でゲイパーティーをやるよ」といったのだそうである。よろしかったらご参加ください、ということだったらしいのだが、当然その男はその晩別の友達の家に泊めてもらった。さて翌日帰るとそのゲイのルームメート曰く「昨日は楽しかったよ。くればよかったのに」

その男がその言葉に対してどのように反応したかまでは伝わっていない。そしてその伝説を伝え聞いた人間の誰一人としてその「ゲイパーティー」なるものが具体的に何を意味しているのか知りはしない。しかし(これまた)誰一人として「その男は参加すればよかったのに」とも言わないのである。

 

さて、そんな極端な話はおいておいて、もっと一般的な伝説も流布されていたのである。曰く「Native Speaker of Englishのルームメートを持つと英語力が向上するぞ」というやつだ。これは「伝説」と呼ぶのはちょっと問題があるほど説得力があるかもしれない。確かに日常会話がすべて(日本人の友達と会っているとき以外は)英語になるのだから、いやがおうでも英語力が向上するであろう。しかし実は(これは今だから言えることだが)この説には一つ大きな落とし穴があるのである。ルームメートがNative Speaker of Englishになると、確かに「日常会話」は英語になる。しかしその「日常会話」が消滅してしまう可能性もあるのだ。となれば結果として英語力向上には役立たないことになる。これについてはいつの日か私が書くであろう2年目のところで述べる。

さて、当時の私にはそんな考えは浮かばない。おまけに当時は今のように「とにかく苦労はしたくない」という怠惰な中年ではなく「ちょっと苦労があっても、英語力が向上する方を選ぼう」という前向きな青年であったから、ひたすら「ルームメートがNative Speaker of Englishでありますように」と真摯な祈りをささげていたのである。

さて、その期待のルームメートであるが、待てど暮らせど現れない。その間に私はUCSDに留学していた先輩の所に遊びに行った。数日間を楽しくすごして帰ってくると確かにルームメートのものとおぼしき荷物は存在している。しかしルームメート本人の姿はどこにもない。なんだこれは?と思ってみたが何ができるわけでもない。結局その男と初めて顔を合わせるのは翌日になった。

たぶん私が部屋に居るときにその男が入ってきたのだと思う。お互い挨拶を交わした。彼の名前はマットという。実によく太った丸い体型のアメリカ人だった。聞けば彼はUndergraduate-日本語で言うところの学部生-らしい。なんだかわからないが忙しいらしく、その日はほとんど話もしないで別れた。しかし私はとりあえずご機嫌だったのだ。大当たりだ。ルームメートはアメリカ人ではないか。これで私の英語力向上にも望みがでてきたというものだ。しかし結局この男との共同生活は10日も続かなかったのである。

続く(執筆中)

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ここで話はいきなり帰国後に飛ぶ。留学中の事を書き出すといつまでたっても先に進まないと判断したからだ。とはいっても私の記憶の中に残っている間に書いてしまいたい、という思いが消えたわけではないのだが。


注釈

一般的ではなかった:一般的ではなかったが、存在はしていたようである。学内の新聞にいつかどうした男女のRoom Mateの話がでていた。本文に戻る