題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:1998/5/29

 


10章:その後-英会話教室

さて3回目の出張から日本に帰ってきたのは8月11日である。このあたりはちょうど盆休みの最中であり、私は帰ってきてすぐ東京に遊びに行き、その後北海道に遊びに行っている。おまけに北海道から飛行機で戻ったその日に会社の女の子二人と夜の9時半(これは私にとっては遅い時間だ)まで喫茶店に行って話し込んでいる。-多分米国土産を渡していたのだろう。当時の私は元気でまめであったから、米国に出張に行くというと、女の子の間をまわって「おみやげのご要望は」とわざわざご用聞きのようなことをして回っていたのである。

さてその東京行きと北海道旅行の合間、一日だけ出勤する機会があった。前の章で書いた「今度は2ヶ月位日本にいると思います」と挨拶した日である。

その後課長と係長に呼ばれ、「元やっていた仕事以外やってはいけない。(システムスタディはやってはいけない、ということである)」と大変簡明に言われた。「次の出張を見合わせる」だけではなく、もう米国出張はないということだ。

 

さてシステムスタディの方には私と同じ時期に留学する人間が入り、特に問題もなく進行していった。私の仕事のほうも順調に進んでいった。これこそ管理職の腕の見せ所、「人材の有効活用」というやつだ。

そして私だけは全く不幸だった。結局この会社で起こることはこういうことか。。。初めて「これはおもしろい」と思える仕事がみつかって一生懸命やっていれば、「あっ」というまに再び「配置転換」でおしまいである。おまけに「おお、確かにこれは大変な状況だ。システムスタディなどやっている場合ではない」と思えるような状況なら納得がいくのだが、元のグループに戻ってみたのはいいが、大してすることがあるわけではないことを発見するまでにそう長い時間はかからなかった。要するに「何故スケジュールが遅れるか、どこが問題なのか」考えるよりも、ぽんと人将棋の駒のように移動させれば周りにも「人員を強化して改善に努力しております」というのがわかりやすいということなのだろう。

将棋の駒は別に自分のアサイメントに対して選り好みをしたりしない。しかし私は将棋の駒ではない。そして大変な鬱状態に陥った。おまけにそれまでの数ヶ月異常なほど元気に暮らしていたツケが、気力が萎えると共に一気に回ってきた。残っている記録と記憶から推定すると、当時の私はどうも「泣き顔をして足を引きづって歩いていた」らしい。

ここらへんの鬱状態は「留学気づき事項」に書いたので、繰り返しては書かない。しかしこれを契機に私は留学に大して非常に懐疑的になったことだけは書いておく必要がある。こんなことでのんきに留学など行っていいのだろうか?というわけである。実際これのおかげで英語を勉強しようなどという意欲は全くなくなってしまったし、結果としてTOEFLの点数も頭打ちになったのである。

さて私がやる気に燃えていようが、投げやりになっていようが会社が既に決定していた教育計画は順調に実施されるのである。10月16日から21日までは名古屋で通いの英語の研修であった。

これは名古屋の某場所にある英語教室に、毎日通う、という奴である。正直言って何故自分がこの研修に行く羽目になったのか全く覚えていない。

英語教室の最初は必ず自己紹介である。私は当時とんでもなく鬱の状況だったので、自分が今まで会社にはいってからどれほど「配置転換」を急に食らったか、という話をえんえんとしていた。特に私が働いていた場所では、仕事を頻繁に変わることは少ないので、すべて同じ会社で働いていた観客は「おお」と感心して聞いていた。そこで私は「その仕事を首になった」という表現を"I was fired"と言っていたが、「それでは本当に失業したと思われる」と言われて別の表現に換えた、ことだけを覚えている。

実際この英語教室は全くおもしろくなかったので、何もやった内容を覚えていない。ただ繰り返しになるが「だてに3ヶ月泣いていなかった」ことを確認できたことが収穫だった。もう一つこの研修中は毎日定時で帰れるので、毎日遊び回っていたのである。日記を読むとほとんど毎日誰かと会ったり飲み会に出席したりしている。鬱状態だなんだと言いながら全くいい気な物である。

さて本来この英語教室は土曜日まであり、土曜日には二つのグループに分かれてディベートが行われるはずであった。ところが土曜日は知り合いの女子大の学園祭に行くことが決まっていたのである。というわけであっさりとサボってそちらに出席した。そしてサボったことを、全く後悔する事もなかったのである。

さて次に行われた研修が最後の英語の研修となった。1990年の2月15日から23日、場所は例によって富士の裾野の研修場である。

この研修は非常に念が入った作りであった。1月19日に神戸でまず事前に打ち合わせのようなものがあった。例によってあった自己紹介では「Computer Aided Instruction Systemをやっていて、新しいシステムへのChallengeにExciteしている」としゃべって「英語だと何故こう前向きな表現が簡単にできるだろう」と自分でも不思議に思ったことを思い出す。

もうひとつあったのは、インストラクター相手の「部下に休日に出勤してくれと説得する。あなたが代わりにオファーできる物は一日の有給休暇だけだ」という設定でのRoll Playであった。後で分かった話だが、この設定は多くの参加者にとってあまりにも身につまされるものだったので、「出勤してくれ」と言う上司の役を演じることに抵抗を感じる人が多かったとのこと。

私はなんとか彼女の説得に成功した(と思う)「君の不満はもっともだ。実際こんな人数でやれというのが間違いなんだ」とかなんとか言って説得した。彼女は「今回は出席するけど、仕事が終わったら上役に直談判するわよ」と言った。私は"I will convey your opinion to my boss"と言った。これはハワイでのプレゼンで、隣の課の課長がちょっと困った質問に答えるのに使った表現である。何事も経験というのは重要だ。

この日はその他にも「今までどれくらい仕事で英語を使ったことがあるか?」とか細かい質問もあり、結構疲れた。この日は金曜日だったので、今であれば土日に関西方面を旅行して帰るところだったのかもしれないが、鬱病の五郎ちゃんはそんなことは考えなかった。しっぽを巻いて名古屋に帰り、土曜日は廃人のように眠っていたのである。

実際このころから日記をみるとやたら「廃人」という言葉が増えてくる。大坪家では、かんぜんにくたばって、呼ばれても応答しなくなることを「廃人」と称する。そして鬱状態に陥った私はやたらと廃人して休みは家で寝ていることが多くなった。

体力が気力と結びついているのは本当だな、、とこのとき実感した。確かに当初体調が悪かったのは、それまでの半年異常に元気に動き回っていたことにも原因があろうが、それから数ヶ月たってさらに体調が悪化したことを考えれば「病は気から」の要因のほうが大きかったのだろう。日記に時々「昨日は一日仕事をしませんでした」という記述がでてくる。それでも私が「人手がたりないから緊急に移動した」プロジェクトの仕事は大した遅延をもたらさなかったのだ。

今から考えて言えることであるが、おそらくこのとき私は危機のように見えるが実は幻想の終わりに過ぎないという言葉をよくかみしめるべきだったのだろう。別に会社の体質や、上司の人の使い方が一夜にして変わったわけではない。会社からみれば「ファッション」でしかないシステムスタディ等に「幻想」を持ったほうが馬鹿だったのだ。それにこの10ヶ月あまりの経験は後になって考えれば決して無駄ではなかった。「後になって」というのは就職先を探すときになってから、という意味である。しかしまたまた考えてみればどんな経験も無駄にはなっていないような気がする。。。というか少なくともそう考えることにしている。どう考えたところで過去が変えられるわけではないから、こう考えるのが一番健康によろしい。

と本題を離れてうだうだ考えると、なんとなく元の問題を忘れることができることもある。しかし当時はそこまで頭はまわらなかった。そして気分、体調、どんぞこの状態で最後の英会話講座に臨むことになる。

 

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注釈

配置転換:トピック一覧)またまたという奴である。本文に戻る

 

廃人:姪たちが小さいときはこのことばを「あいじん」と発音していた。私が姉の家にいっても、「ごよぴー、今廃人だから遊べないの」というと、あとで姉に向かって「ごよぴー、あいじんであそんでくれなかったの」と言いつけていたようである。本文に戻る