題名:何故英語をしゃべらざるを得なくなったか

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日付:1998/5/22


5章:一ヶ月の出張-初め

さて。 恒例の「急な配置転換」により、私にとってのこのプロジェクトに終止符が打たれるまで、1ヶ月の出張が一ヶ月おきに3回あった。それらの出張が終わった後で、私は「海外での仕事」みたいな特集で社内報に文章を書いた。以下がその文章である。

-(引用ここから)-

 平成元年3月から8月の間に、「腰巻き小物入れ」作業のため、1箇月づつ3回渡米しましたので、その様子について書いてみたいと思います。

 訪問先は、米国取り纒め会社であるSAICで、アラバマ州ハンツビルにあります。「出張で米国に行くんだよ」と言うと大抵の人は「いーなー」と言います。しかしその実体は国内出張とあまり変わるところはないのであります。ハンツビルという町は、はっきり言って田舎で、日本で言えば筑波(筑波に行ったことのない人は、小牧を想像してもよい)みたいなとこです。近くには、何遍も行ってもう飽きてる航空宇宙博物館位しか遊びに行くところはないし。毎日、朝SAICに出社して夕方モーテルに戻る。全く国内出張そのままです。

こちらで働く時は、資料のタイプアップは秘書のお姉ちゃん達がやってくれます。かといってあんまり大量に頼むと、お姉ちゃんたちの機嫌が悪くなります。向こうの実質的なとりまとめ役はヒルドレスという元陸軍大佐なのですが、(ちなみにこの人は、ブッシュ大統領そっくり)いつも大量にタイプを依頼する私達とヒステリーを起こす秘書の間に立って苦悩しています。

他にもSAICには色々個性豊かな面々がいますが、皆気のいい人達ばかりです。なかでも私達に一番人気があるのが、名前からして冗談のようなMr. ロッシャでしょう。堂々たる体格をしており、またその体を維持するためだかどうだか、相当な食いしんぼう。各社の技術者が集まった会議でも、ランチタイムが近くなるとキッチンのあたりをうろつきだし、皆が個々にディスカッションしていると、「昼飯が来てるぞー」と大声で呼びかけます。

 昼食で思いだしましたが、米国での作業と、国内出張の一番大きな相違点は3度の食事の量が異様に多いことです。幼いころから「出されたものは全部食べなさい」と仕付けられたおかげで自分の前にあるものは、大抵全部食べます。この習性のおかげで最初の2回は、見事に太りました。

3回目に渡米したときは前回までの失敗を繰り返さないようにと、私は早々とダイエットを宣言しました。しかし結果的にこれは失敗でした。同行した社員達が、私が食べ終わったころをみはからって、ステーキやらイモやら人の皿の上にのせるのです。太ってしまうとわかっていても、幼いころの両親の教えがふと頭に蘇る。ぱくぱくと食べると、みんな腹をかかえて笑うのです。SAICのエンジニアの家に招待されたときも、事のなりゆきから気が遠くなるほど甘いケーキを4つも食べて(食べさせられて)しまいました。同行した人達はその話を笑い話にして、SAICの面々にも話すのです。

 最後にSAICを去る時にヒルドレスに挨拶にいきました。彼が私の手を握りながら言ったセリフは、煎じ詰めれば次のような意味でした。「ケーキ食いすぎんなよ」

-(引用ここまで)-

周りからは変わり者と見られ物をネガティブに言う傾向があると思われていた私だが、社内報に"My miserable Life Contest"の模様を書いたところでだれも読まないことぐらい知っている。ただ私は嘘は書かないので、米国出張にここに書いたような楽しい側面があったことはもちろん事実だ。しかしながら、その「楽しさ」は「苦痛」を伴わずには来なかったのである。

 

時差ボケの頭を抱えながら、初めてSAICに行ったことをなんとなく覚えている。会議室に入ると、SAICの面々が入ってきていきなり握手をたくさんさせられた。こちらは引きつりながら笑おうとは努めたのだが、なんといっても「言葉が通じない」という強迫観念があるのだから腰が引けている。

さてさっそく会議が始まった。名前くらいはなんとなく理解できたものの(一応事前になんという奴がいるかは聞いていたから)会話の内容はさっぱりである。少なくともなんとか聞き取ってみようと努力はしてみるのだが、わからないものはわからない。実のところわからない会話を聞いているほど退屈な物はそうたくさんないのであるが、いかんせんなんともならない。

しょうがないから相手の観察ばかりしていた。Mr. Hildresは確かにジョージブッシュに似ているなあ、とかロッシャはなんであんなに太っているんだろう、とか。

それからもしばらくの間この訳の分からない会議は続くのである。このときにはまだまじめだった私は会議の間メモをとっていた。内容は「誰かが何かをいう、次に誰かが何かをいう」だけである。

さてこの日だったか覚えていないのだが、私は彼ら相手に最初の言葉を発した。相手は米男ことDr. Riceである。後から気がついたことだが、彼の英語というのは極端に分かりづらい(らしい。少なくとも他の人はそういっていた)ので、最初の会話の相手としてはあまり適当でなかったかもしれない。

彼は地図の上にいくつか半径を指定して○を書くプログラムの出力結果を見せて何か説明していた。これはずいぶん有益なプログラムだと思ったので、会議が終わって部屋の中でみなで立ち話をしている時に、私はこう聞いたのである。(会議中に発言するなんていう恐ろしいことができるはずもない)

"Does this program run on PC ?"(このプログラムPCの上で動きますか?)

最初こう発音したら、相手は「?」という顔をした。私はこの言葉を通じさせるまでに何度発音したかよく覚えていない。そして最終的にこの文章を独力で相手につたえることができたのか、あるいは誰かが手伝ってくれたのかも正確には覚えていない。

覚えているのは「こんな短い文章すらしゃべることができないとは」という失望感である。

 

ということで最初の会話はひどい落ち込みを引き起こした。そしてその事態が一朝一夕に解消されるわけもなかったのである。

さてそうは言ってもとりあえず「何をするか」をはっきりさせなくてはならない。実のところこの仕事に於いては「何をするか」がはっきりさせるまでが一仕事だったのである。

私が担当しているシステムの検討はまだほとんど進んでいなかった。最初の会議でSAICの担当がなんだかわからない資料を配ったので、日本にいる間にその資料を一生懸命解読しようと努めてはみたのである。実はSAICの担当はその資料を配るだけ配ったのであって、中身について全く理解していないことを発見したのは大分あとのことだった。

まずその男-Freemanという名前だった-に会って話を聞くこととした。先輩にも同席してもらって最初の打ち合わせを行ったのであるが。。

例によってFreemanが何を言っているか全く理解できなかった。ただ断片的な言葉と後で先輩に確認してこの男もどうやってこれから仕事を進めればいいか分かっていないことだけはわかった。要するに仮にこの男が完璧な日本語で話していたとしても、「どうやって進めればよいか」わかるはずもなかったのだ。こうなれば自分でなにか考えて進めるしかないではないか。

同じに、後輩のBig EとFreemanの打ち合わせもあり、それにも出席した。打ち合わせの前にBig Eが先輩に「これからよろしくってどうやって言うんですか?」と聞いたのに対して「そんな言い方はない」とI先輩が答えていたことを覚えている。

 

さて本来の仕事分担から行くと、私が担当していた分野はSAICがリードして、私が努めていた会社がサポートするということになっていた。最初は"Freemanにおんぶにだっこでいいや"とも思ってみたが、どうもそういうわけにもいかなそうである。それでなくても当時の私は結構仕事への意欲に燃えていた。そしてこの事態は長い目で見れば私の英語能力向上に役立ったかもしれないが、短期的にはひどい負担を意味したのである。

 

さて、日常の仕事はだいたい次のような感じで進んでいくことになった。

SAICでの作業は、通常一つの部屋で行わる。SAICの社員だったら、一人で占領するであろう部屋を3人で使用するのである。しかし日本での一人あたりのスペースに比べればまるで天国のような広さだったが。まわりは静かだし、偉い人間は別の部屋で働いているので気楽な物だ。仕事はそれなりにするものの一日中仕事ばかりしてるわけでもない。結構馬鹿な話をしていることも多いのである。I社員とBig Eの話は端で聞いていて腹をかかえたくなるようなものが多かった。そうしていても日本で働いているよりずっと仕事ははかどるのである。じゃまが入らないと言うことはありがたいことだ。

 

我々が使えるコンピュータは最初は無かった。そういう仕事はSecretaryのお姉さん達がやってくれる、というふれこみだったからである。しかしそのうち我々が発見したのはこのお姉さん達は「自己主張をきちんとできる」人達であり、仕事をたくさん頼むと必ず反撃が来ることであった。私は幸か不幸か英語がしゃべれないので、彼女たちの攻撃を受けることはなかったが先輩のI社員は不満たらたらであった。ある日お姉さん達が二人来て何か言っている。後でI社員が言うにはこういうことであった。

お姉さん達:「これくらいあんたたち自分でできるでしょう?Macintosh使えるんでしょ?」

I社員:"I don't know. What is Macintosh?"

このI先輩は当時私が働いていた部で数少ないMacintoshの個人所有者だったのだが。

また最初はコピーすらSecretaryに頼めば良いと言うことだった。しかし彼女たちの感情を考えればちょっと腰が引けるという物だし、だいたい頼む方が面倒だ。というわけで私はある日意を決してお姉さんに聞いてみた。

"Can we copy by ourselves ?"(自分達でコピーして良いの?)

それに対してお姉さんは何事か早口でたくさんしゃべった。私には"can't" という言葉しか聞き取れなかった。だから部屋にいた同僚に対して「だめみたいですよ」と言った。すると同じ部屋にいたA社員は「違うよ。勝手にコピーして良いけど、秘密の指定のある資料はだめだと言ってるんだよ」と解説してくれた。この会話がまた私の落ち込みを激しくしたことは言うまでもない。

このSecretの資料というのが難物で、我々は閲覧する権利はあるのであるが、それを書庫から出したりしまったりすることはできない。誰かを捕まえなくてはならないのである。

Mr. HildresがSecretaryのお姉ちゃんにつっつかれて悩んでいる最中に私は数冊の資料を返しに行った。他にだれもいなかったからである。そうすると彼は"Oh , Thank you very much"ととてもうれしくなさそうな声-日本語で言えば「おーおー。ありがたいねえー」みたいな感じだろうか-で言った。こっちは何か悪いようなことをした気がして落ち込むが、これまた他に選択肢はないのである。

 

そして時々はFreemanその他と打ち合わせをする。このときだけは英語でなんとかしなくてはならない。さてこのFreemanはいきなり弟子というかアシスタントをつれてきた。この男はFreemanよりは親しげな感じだったが、いかんせん何もわかっていないのである。このプロジェクトの前に、ヨーロッパを対象にした同様のスタディがあった。そのスタディでも同じ分野をやった経験がある、と彼は言ったが、その直後に重要なコンポーネントの名称でかつ半ば「常識」とも言える略語を彼は「これはなんだ?」と聞いた。

さてそうした仕事の日々にもいくつかキーとなる出来事があった。SAIC側の親分はDr. Pastrickという一見派手な外見を持ったこれまた一見仕事ができそうなおっさんである。この男は詐欺師同然であることが数ヶ月後に判明するが、当時我々はそのことを知っていたわけではなかった。彼はある日我々全員を自宅に招待した。そしてそのパーテーには秘書のお姉さん達も招待されていたのである。

前述したとおり秘書のお姉さん達はとても自己主張がちゃんとできる方々である。しかし仕事さえからまなければ、結構気のいい人達なのである。私はそのうちの一人と話をしていた。今から考えればあの英語力でよくはなせたものだと思うのだが。数年後にStanfordの英語学校でInstructorがこう言ったとき私はなるほどと思った物である

「アルコールは全ての言語の能力を向上させる。英語だけじゃなくて、フランス語でもスワヒリ語でも」

何で普段あんまりしゃべらないの?と聞かれて、日本人はだいたい英語をしゃべるのを恐れている、と答えた。何で?と聞かれたので、こういい加減な理論を構築した。

「日本人は12歳の頃からみな英語を教えられている。従って出来が悪いと教師にしかられる。従って日本人は英語を使うことに大変な心理的プレッシャを感じざるを得ないんだ」

その時に彼女から米国では全ての生徒が外国語を学ばなくてはいけないわけではない、という事実を聞いて"That is not fair"と言ったのも覚えている。考えてみれば自分が苦労したことのない事柄について他人の苦労を察することは結構難しい。連中にも全く構造の違う言語を学ばせて、その苦労を経験させたほうがお互いの理解に役立つと思う、などという妙な意見を言いだしたのは最近のことであるが。

さてやはり洋の東西を問わず、女性にしゃべる内容といえば、ほめ言葉である(考えてみればこれは相手が女性に限ったことではないのかもしれないが)当時の私の貧弱なボキャブラリーでどうやってほめ言葉を並べたのか定かではない。しかし"you are attractive"と言った時に相手が"Thank you"と言ったことだけは覚えている。そこで単純に私は「そうかAttracitveは効果がある」と信じ込んだ。次には"You are pretty"と言った。後でI先輩にこのことを言ったら「馬鹿。おまえprettyってのは、子供をほめるときに使う言葉で、大人の女に使っちゃいけないんだぞ」と言われた。これまた当時の私は「そうか」と素直に信じていたのだが、その後あれこれの会話を耳にするにつけ、先輩の理論は間違っている、と最近確信するにいたった。

 

その日私はごきげんだった「へへん。結構しゃべれるじゃないか」

ところが翌日アルコールが抜けた私は、私の英語会話能力がまた元のレベルに戻っていることを発見した。そうしてこうした類の「Hey!俺はしゃべれるじゃねえか」と"Oh my,,,"の繰り返しはこれからずーっと続くことになる。今にいたるまで。

 

だいたい毎日はそんな様子で進んでいった。そして特に最初の一ヶ月は先ほどの社内報にのせた文章からはほど遠い雰囲気だったのである。

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注釈

「腰巻き小物入れ」:(トピック一覧)原文はもちろんプロジェクトの正式名称が記載されている。本文に戻る

 

周りからは変わり者と見られ:(トピック一覧)理由は知らないがこう言われることが多い。誰か理由を知っている人がいたら教えてください。実はこの問題に対しては一度ある理論をうちたてたことがあるのだが、あまり本人が気に入っているわけではない。本文に戻る

 

物をネガティブに言う傾向がある:私は常に自分が考える「事実」及びそれに基づく「合理的な予想」を口にしているだけなのだが、世の中には「目をそらせば問題は消える」と思っている人が大変多いようだ。状況が良ければ楽観的な発言が増え、悪ければネガティブな発言が増えるだけだが、組織で長生きしようと思えば、真実を知っていても語らないことが重要だ(トピック一覧)、と気がついた。本で読んだあちこちの組織での「真実を語る者」のエピソードと自分の経験から言えることであるが。本文に戻る

 

これからよろしく:関連する話題が「習わないがよく聞く英単語-英訳できない日本語」に書いてある。本文に戻る

 

自己主張をきちんとできる:(トピック一覧)私が米国の会社での極めて狭い範囲の経験から言うと、女性の方にこの傾向が強い気がする。本文に戻る