題名:オウム v.s. TBS

五郎の入り口に戻る

日付:1998/1/11

修正:1998/3/20


これまたちょっと古い話になる。オウム真理教の犯罪が世間を騒がせていたころ、TBSとオウムの結びつきが問題になったことがあった。

一言で言えばTBSが取材の便宜を図ってもらうために明らかにオウム真理教側に有利な行動をしていたというものである。

放映前にオウムの幹部にビデオテープを見せて「放映に関するご意見」を伺った。それが坂本弁護士一家殺害の引き金になった可能性が高い。またその事実が広まった後も必死になって事実を隠蔽しようとした。。。

確か国会にまでこの問題は持ち込まれ、一時は大きな話題となった。。。そしてこれまた当たり前の話だが皆この問題は忘れてしまった。

この問題に関する感想は次に示す誰かの感想に集約されると思う。「オウムにテープを見せたのは悪い。しかし隠そうとしたことはもっと悪い」

実際このことが明るみにでたときのTBSの対応は非常に興味深かった。いかに人間が恥知らずに、かつ自分が言ったことをきれいさっぱりと忘れることができるか、という見本のようなものであった。

 

さて時を前後してオウム真理教に破防法を適応しよう、と公安調査庁が調査を行っていた。私がインターネットでオウム真理教がサイトを持っていることを知ったのはそのころであった。

URLはhttp://aum-net.com/、題名は「オウム破防法適用で民主主義が危ない」である。正直に書こう。私は未だに破防法が正確にどういうものか知らない。しかしながらこの題名をみたときに私は反射的に怒りを覚えた。すなわち「盗人猛々しいとは貴様らのことだ」という感じである。そしてきわめて感情的なメールをこのアドレスに向けて送信した。

幸か不幸はこのメールの記録は残っていない。しかし要旨はだいたい以下の通りである。犯罪を犯せば処罰を受けるのが社会のルールである。従って犯罪集団である貴様らには文句を言う権利はない。

このメールは幾分このホームページのタイトルに対する反感にも影響されていたかもしれない。つまり、自分たちの危機を「民主主義の危機」にすりかえるとは何事だ、というわけである。

さてこのメールを送った後まさか返事が来るとは思っていなかった。。ところが数日後に丁寧な返事が来たのである。

「 破防法反対のホームページにお便りをお寄せいただきまして、ありがとうございます。「信者の声」に関する貴方のコメントは、最大公約数的(マイナス的な意味ではありません)な世論と相通ずるものと認識し、拝見させていただきました。」

という出だしで始まるメールは実に丁寧でしかも的を得ていた。論旨は「刑法と破防法を混同しないでほしい。刑法は刑法でちゃんと裁判が進行している。破防法の適応はそれとは別の話である」というものであった。

それを読んでいて私はなんとなく恥ずかしくなるのを感じた。確かにこの人の書いているとおりだ。というか少なくとも私の貧弱な知識ではこの人のメールに反論するのは難しい。。またメールを返してくれたことに多少なりともありがたく感じた。彼らは自分の立場を主張しなくてはならない立場にあるとはいえ、ちゃんと「感情的な反論のメール」に返事を返してくれたのである。

 

さて私はこの問題のもう片方にもメールを出していた。オウムと仲良しであったTBSのほうである。彼らの今のホームページにはもちろんオウムのオの字もでてこない。しかしこの問題が大きく取り上げられている間はTBSのホームページに「彼らのその時点での最新の弁解」が載せられていたのである。(ここでわざわざ「最新の見解」と書いたのは、彼らは過去の弁解を載せておくようなへまはしなかったからである。もし載せていれば彼らがその時々で矛盾していることを述べていることや、事実の隠蔽を使用していることが一目瞭然だっただろうから)

さてホームページの常として、「ご意見はこちらへ」というこで、電子メールのアドレスが記載されていた。そして私は以下のようなメールを送った。(私はこのメールとオウムへのメールのどちらが先だったか覚えていない)

--------引用開始

今回のオウム事件に関して貴社社長の国会での発言が貴社のホームページに掲載されていたのに関し、私見を書いてみます。何らかの参考としていただければ幸いです。

社長の発言を読んでの感想は「いけしゃあしゃあとまた嘘をついている」でした。彼は組織的な事実隠蔽がなかったことを強調しています。また全ての罪を嘘をついていた社員に押しつけているようです。

彼は自分が3月11日の発表で「結果として間違ったことを述べた」ことについてくどくど述べていますが、同じ時に「社内調査はこれで打ち切る」と発言し、臭いものに蓋を式の「隠蔽」をはかったことについては一言もふれていません。

もし「組織的事実隠蔽が無かった」と主張したいのであれば、自分が何故「これで社内調査はうちきり」と発言したかについて当然説明を行うべきです。

最近の国会での発言をみると、全ての質問に対し、「現在のところ無いと思う。しかし調査継続中」として逃げています。しかし3月11日の時点では確かに貴社社長は「調査は打ち切り」と「もう言ってくれるな」式の発言をしていたはずです。

この疑問に全てクリアーに答えようとしない限り、御社の発表する内容がすべて世間から嘘と思われても仕方がないところと思います。しかしそういったことを無視して、厚顔無恥にも嘘をつき続ける貴社の幹部の姿勢には疑問をいだかざるをえません。

幹部が同じ様な嘘をつき続けるというのは、すなわち貴社の体質が「報道してしまえばこちらのもの。あとの責任は負わない」といったものなのではないかと疑わせます。

オウムの幹部にビデオを見せたという事は、当時の情勢からしてそんなにおかしなことではなかったと思います。(もちろん許されることではないですが、誰も報道機関に公正な態度など期待していません)

しかし許されないのはその後のひらきなおり、隠蔽等の態度です。どのような組織でも個人でもあやまりを犯すことはあります。しかしもし誤りが起こってしまったのであればそれを認め、再発防止策を採ることが大事であり、それができない組織はますます悪い方向に向かって進んでいきます。

誠に遺憾ながら貴社にはそういった自己浄化の機能は全くないようです。今のところ貴社の内部から聞こえてくるのは、「幹部は困ったものだ」「別の部署がやったことだ」式の「自分は関係ない」式の言い訳ばかりです。貴社の全てのレベル、全ての部署に同じ様な考え方、行動をとっていた人間はいくらでもいるはずです。それを幹部は、担当者の責任にし、社員は、他の部署の社員や、幹部の責任に押しつけているようで、誰一人として、自分の責任を認めるような態度はありません。

個人的には報道機関は、自分の行動に責任をとらなくていい数少ない組織の一つだと思っています。どんなに卑劣な方法であっても、人に迷惑がかかろうと、視聴率さえあげてしまえば、勝ち。根底にはこういった図式があると思っています。

この根底にある問題について書いてみます。

報道機関は営利企業で有る以上、謝罪や社員の解雇などは毛ほども痛みとなりません。

早いはなし、利益を生み出せなくなることだけが、本質的な懲罰です。

例えばメーカが不良品を納入したとすれば、当然取引打ち切りなどにつながり、企業の存続に係わります。だからこそ彼らは品質保持、あるいは不具合発生後の処置に一生懸命になります。

報道機関が誤報をしたり、今回のような事をしたからといって、何がおこるのでしょうか?

何もおこりません。謝罪広告をだそうが、社員の首が2ー3個飛ぼうが、会社には関係ないことです。

従って何の反省もなされず、同じことが何度も繰り替えされます。

従って個人的には御社には犠牲となってつぶれてもらうのが一番良いと思っています。

他の会社が同じ様な殺人事件に関与したようなことを組織ぐるみで行えば、間違いなく倒産します。しかし報道関係だけは今まで倒産したところを聞いたことがありません。従って本質的な反省はいつまでもされません。

自己浄化作用を持たない組織であるならば、つぶれるという「痛み」で判らせるより他にないのではないかと思っています。

もちろん御社だけが悪いわけではありません。報道機関全てに同じ問題は根ざしています。

しかし、ここは一つ代表となっていただきたい。自由のみを主張し、義務を忘れた物の末路を日本に、世界に示し、しばらくの間の教訓として生きていただくのが一番良い方法と思います。

まあこう書いてみても、結局今回もうやむやのまま終わるとは思っていますが。

一つ具体的な提案ですが、貴社のホームページに今回の事件に関する全ての貴社の発言、発表を掲示してはいかがですか?ああやって謝罪文だけを掲載するのはフェアではないでしょう。あの謝罪文にいたるまで如何に多くの嘘をついたか。それも併せて掲載してこそ御社の姿勢を示すことになるとは思いませんか?

大坪五郎

-----------引用終了

さて今読み返してみればこれも結構「浅い」意見かもしれない。しかしながら少なくともオウムに出したメールよりはいくつかの事実をふまえた上での意見であったことは間違いない。

TBSにはこの後にもメールを出している。そして(あたりまえのことかもしれないが)返事は一通もこなかった。そして今日この文章を書くに当たってTBSのホームページを再び見てみたが、、そこにあったのは「楽しくなければTVじゃない」式の平和な楽しい内容であった。そうだ。もう十分あやまったじゃないか。これからは楽しく生きよう。 

あるホームページ作成を生業の一部としている人に、この話をしたところ「返事を返す気がないならば、電子メールのアドレスなど書いておかなければよい」と言った。全くもっともな話である。

仮に「オウムのような丁寧なメールの返事を書くのは困難だ。」というのならば、せめて「貴重なご意見ありがとうございます。今後の番組づくりに生かして行く所存です」という定型文書でも送り返したらどうなのだ?電子メールに対して定型文書を自動的に送り返すのはそう難しいことではないはずである。それすれもやらないとは。。。TV局などに抗議の電話がかける人は我々が思っているよりもはるかに多い、という話を聞いたことがある。電子メールという形でのフィードバックに彼らがこれほどまでの無反応であるとすれば、少なくとも相手の声が聞こえる「電話」という方法でフィードバックを与える人が多いのもうなずける気がする。どっちにしても彼らはなにも聞かないが、少なくとも人間相手に文句を言ってやった、という満足感は得られるわけだ。

さて「オウム真理教が攻撃された日」に書いたように、私はオウム真理教は古今東西比類のない極悪非道な犯罪者集団であったと思っている。しかしながらホームページへのフィードバックをちゃんと受け止めるという点においては、、、TBSよりもオウムのほうにより高いポイントを与えるのにやぶさかではない。

さてTBSは自ら「コマーシャル抜きで」1時間の特別番組を組んで放映した。その内容は弁解に満ちた物だった。自分達が何をしたか、何を言いたいか、だけを放送し、自分たちにどのような批判が向けられているか、それに対して何をしたかについては、自分たちの都合の良い言い訳だけを並べていた。

彼らの言い分によれば「コマーシャル抜きでこのような番組を造ると言うことはXX億円の費用がかかり。。。」だそうである。なるほど彼らにとって命より大事なコマーシャルの収入を無にした番組を造ったのだから誠意を観てくれ、というわけか。

こういう話を聞く度に私はいつも「羊達の沈黙」という本の中の「自分の最良の物を主にささげよう」という一節を思い出す。これは小説のなかでは、教会で募金皿に自分の母親の首をのせた男の話がでてくる。それが何を意味する物であれ、自分の母親の首が彼が持っていた最良のものを神にささげたわけだ。

TBSがやったことはこの男とあまりかわりはない。それが「捧げる相手に」とってどんな意味を持つかよく考えもせず、自分たちにとっての最良のもの-CMの収入-をささげたわけだ。それが神に対する「誠意」のあかしだ、と言わんばかりに。

そしてこの男は精神病院に放り込まれ、TBSは今日も傲慢に反映し続ける。義務、責任を無視して「自由」を主張する彼らには敵はないのだ。


注釈

オウム真理教トピック一覧参照(戻る

 

自分たちの危機を「民主主義の危機」にすりかえるとは何事だ:話題のすり替えほど私が嫌悪するものはない。そしてやたら嫌悪するということは、自分がしょっちゅうやっているということなのである。(トピック一覧へ戻る

 

彼らは過去の弁解を載せておくようなへまはしなかったからである:彼らの矛盾する答弁をみようと思えば、個人のホームページに頼るほかない。坂本弁護士一家殺害事件 5年10ヶ月の軌跡参照のこと。

 

楽しくなければTVじゃない:ちなみにこれは1980年代のフジTVのスローガンである。戻る

 

彼らはなにも聞かない:彼らも「畏れを知らず、人に頭を下げることを知らず」の人たちである、というのが私の偏見である。先生という人種(トピック一覧)と同じく。戻る

 

自分の最良の物を主にささげよう:(トピック一覧 大蔵省が問題をおこすと、闇雲に事務次官を辞職させるのと同じようなことだ。彼らにとって「事務次官」の椅子というのは「世の中で一番大事な物」である。その大事なものを捧げたのだから許してくれ、という論理である。 本文に戻る

 

義務、責任を無視して「自由」を主張する彼ら:トピック一覧参照)私の偏見によれば、宗教法人の中にも彼らの仲間は多い。本文に戻る