題名:科学について-相対性理論と疑似科学

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日付:2000/6/30


疑似科学-いくつかの例

さて、ここでいきなり疑似科学の登場である。「疑似」というからには「正統派」であるところの「よい科学理論」があるわけだ。その定義を再掲しよう。[]内は私が説明の為に付け加えた言葉である。また改行を追加した。

 

「次の二つの要件を満たす物はよい理論である。

[条件1]第一に、恣意的な要素を少数しか含まないモデルにもとづいて大量の観察を正確に説明する物でなくてはならない。

[条件2]第2にこれから行う観測の結果について確定的な予測をするものでなくてはならない。」

 

さて、この章を書くため、もうひとつ次の条件を付け加えよう。

条件0:「理論が客観的な議論に耐え得るほど明確に定義がなされていること」 

なんだこの当たり前の話は?と思われるかもしれないが、これを付け加えるのにはちゃんと訳がある。「疑似科学」と呼ばれるものはすべてこれら「良い理論」の条件のすべて、あるいは少なくとも一部に反している。いくつか例をあげてみよう。

 

例1:「新マックスウェル方程式」Nifty Serve FSCI 14番会議室の発言から引用)

この人は「アインシュタインは間違っている」と主張し「絶対静止空間」が存在する、と持論を展開していた。そこで成り立つマックスウェルの方程式はどんな形だ?という問いに対する答えが以下である。

「今、絶対静止空間に対する光源の速度の大きさを v とします。

このとき、その光源から発する電磁波は、新マックスウェル方程式

  F1(ε(v),μ(v),......)= 0

  F2(ε(v),μ(v),......)= 0

  F3(ε(v),μ(v),......)= 0

  F4(ε(v),μ(v),......)= 0 

を、満たします。」

この式だけいきなり出したが、

「これだけでは何もわからない」

と言われても私にはなんともしようがない。この文章を書いた人はこれ以上何も書いていないからだ。数式中のε(v),μ(v)の定義も与えられなかったし、彼がおこなっていた主張にこの式(というかなんというか)がどのように答えを与えてくれるかも不明である。

この人はこれ以前にある式を提示していたが、それに矛盾があることを指摘されていた。そこでこのように「変数の定義もなければ、内容も不定」の式を出してきた、というわけだ。

ちなみに原文には上記の意味不明の式の後に

「これでわからないなら、もはや理解させることは断念せざるをえません。」

と書いてある。こうした論の進め方はこれまた印象的だ。すなわち相手の理解を求めるよりは、理論の断絶した言葉を並べ、相手を混乱させようとしているのである。

 

例2:コンノケンイチ’UFOはこうして飛んでいる)

私がここで揚げた本は、題名に「UFO」とでてくるが、内容をみれば、コンノ氏が長年唱えている重力理論(らしきもの)に、当時はやっていたUFOの話題を強引にくっつけたもの、という感じがする。UFOのところは別として彼の重力理論を要約する。ちなみにこの本には「小学生にもわかるように説明する」というくだりが何度もでてくるが、読んでいるうちにわけがわからなくなり、「俺は小学生以下か」と頭を抱えたものだが。

・空間はエーテルで満たされている

・地球の内部には非常に密度の高い芯がある。そこにはエーテルがはいりこめず、地球があることにより、エーテルは排除されたような形になっている。

・その排除されたエーテルが元の位置に戻ろうとする力(圧力と言ってもいいのかな)。これを人間の体はうけるため「重力」を感じる。これは下からの「引き」ではなく、実は上からの「押し」である。

・二つの物体がエーテル中にあるとき、それぞれの物体はエーテルの圧力を受けるが、物体の間にあるエーテルの圧力は「中和」されて弱くなる。その結果物体の間に引力が生じる。

・宇宙にはいくつかのエーテルの流れがある。地球はそのうち一つのエーテルの流れと同化しているため、エーテルの風による光速の変化は観測されなかった。

さて、上記の「理論」をどのように評するべきだろうか。

まず読んで気がつくことは条件0である。二つの物体の間に引力が働く理由を「エーテルが中和されるから」と説明されているが、この「中和」とは何かよくわからない。

思うにここでは自分の理論を明白な矛盾から救うために、定義があやふやで、かつ自分が望むことをしてくれる性質を導入したのではないかと思える。定義があやふやだから反論のしようもない。

次に条件1と2を考えてみる。「大量の観察を正確に説明できる」とは言い難い。定性的に「このようになる」とは言っているが、定量的な説明はいっさいないからだ。百歩譲って定性論で考えたとしても「光速の変化が観測されない理由」は間違っている。エーテルの流れに同化していれば光行差は観測されないはずだからだ。(これはそれこそ一世紀前に決着がついている論議なのだが)そして何か確定的な予測が生まれるとはとても考えられない。

 

しかしおそらく著者はこうした私の疑問にもちゃんと答え(あるいは逃げ道か)を用意している。「小学生にもわかる説明」を繰り返したあと、最後にまだ自分の説明はまだ道半ばと断っているからだ。しかしその「道後半」はどこにあるのだろう。コンノ氏の他の著書を立ち読みしてみても(どうしたって金を払って読む気はしない)それらしきものは見つからないのだが。

 

例3:ヴェリコフスキー;衝突する宇宙

私はこの本の原書を読んだことがない。それでもこの本について書かれた文章を3ッツは読んだことがある。それほどその道では有名な書物だ。

それらの内容を信じれば内容は概略以下の通りである。

紀元前1500年頃、木星から生まれた巨大な彗星が地球に接近した。このため地球の自転が止まったかのろくなった。そしてモーセの前にあった紅海をまっふたつに割り、

えくそだすー

と叫んだモーセの後にイスラエルの子たちを安全に渡らせた。つまるところ彼は旧約聖書にある奇跡の数々をこの彗星(最後にはおちついて金星になったそうだが)と火星の接近によって実際に引き起こされたものだ、と説明している。

この本は比較的最近(1950年だが)有名になったこともあり、それに対する批判も徹底して行われているようだ。

この本は新しい物理理論を直接提唱している本ではない。観測事実というか、世界中の民間伝承に残っている神話から過去に起こった天体現象を推定しようとしている。しかし著者が意図すると意図せざるにかかわらず著者は「新しい物理理論」を提唱する羽目になる。

プリンストンの天体物理学者ジョン・スチュアート教授による

「既知のどんな引力と運動の法則を使っても、ヴェリコフスキーの彗星が地球の自転を止めたり、または再び自転をスタートさせたりできることを説明できないし、火星が金星を現在の軌道におしこむことができることも説明できない。」

という批判に対し、ヴェリコフスキーは彼の「理論」を実現してくれる「電磁力」を発明する。この「電磁力」については(例によって)明確な定義はない。しかしはっきりしているのは、ヴェリコフスキーが提唱した運動をもたらす、という効果だけだ。

さて、ある信念のために、その存在がまったく観測されていない物理量を導入すること自体はそれほどおかしなことではない。相対性理論の説明のところで電磁波を伝搬する以外にはいかなる観測にもひっかからない「エーテル」が導入されたことを思い出してほしい。またアインシュタイは「静的宇宙」という自分の信念をを実現するためだけに宇宙項を導入した。それが何故働くかの説明無しにである。

ではアインシュタインの「宇宙項」とヴェリコフスキーの「電磁力」には何の違いがあるのだろうか?何故宇宙項を提案したアインシュタインは疑似科学者よばわりされず、ヴェリコフスキーはもっとも著名な疑似科学者として名前を残しているのか。

私が考えるにそれは条件0、つまり導入された力(のふるまい)に明確な定義が与えられていたかどうかではないかと思う。ヴェリコフスキーの電磁気力のふるまいは、「ヴェリコフスキーの信念を実現する」という曖昧なふるまいの定義しか持たなかった。であるから科学的議論の範疇の外に存在していた。しかしアインシュタインの宇宙項はその性質が数式の中で定義されており、議論の対象となりえた。これが違いではなかろうか。

 

さて、例を挙げるのはこれくらいにしよう。これらの「疑似科学者」の振る舞いについて書いてみる。彼らの主張には「科学的意味」はほとんど認めがたい。しかしそれらを観察することは、あれこれの事について考えさせてくれるからだ。

 

疑似科学者の振る舞いについて

参考文献5には典型的な疑似科学者のふるまい、として以下のようなものが揚げられている。

 

・彼は自分を天才と考える

・彼は自分の仲間達を、例外なしに無学な愚か者とみなす。(中略)もしも敵が彼を無視するなら、それは彼の議論に反論できないからだと思う。もしも敵が同じように悪口で仕返しするなら、それは彼がならず者達と戦っているのだという妄想を強める。

・彼は自分が不当に迫害され、差別待遇を受けていると信じる。(中略)こういう反対の理由が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には全く思いうかばない。それはひとえに、確立されたヒエラルヒー-自分たちの正当思想がひっくり返されることを恐れる科学の高僧たち-の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信する。

・彼はもっとも偉大な科学者やもっともよく確立された理論に攻撃を集中する強い衝動を持っている。

・彼はしばしば複雑な特殊用語を使って書く傾向がある。 

・特徴のうち第一のもっとも重要なものは、奇人達が仲間からほとんど完全に隔絶して仕事をすることである。

 

この本は元々かなり以前に書かれたものであるが、これらの記述は今日の疑似科学者(前述した3人も含む)にも等しく当てはまる。

彼らの主張を目にし、あるいは科学を理解する者と議論をしているのを見るとき、私はいくつかの類似した光景を思い出す。たとえばある特定の宗教への信仰に凝り固まってしまった人はどうだろう。彼らの行動が反対されれば、それはその行動によって他人が迷惑を被っているせいではなく「真理を発見した者に対する不当なしうち」と反論したりはしないだろうか。実際オウム事件はなやかなりしころにはそうしたコメントをいくつも目にした。

 

こうした行動はどこからくるのだろうか。そのうちの一つの要素と思えるものについて書いてみたい。

 

人間が程度の差こそあれ、等しく心の中にもっている感情という物があると思う。その中で最大とは言わないが、大きなものに、自尊心、他人にできないことをしてやりたい、という衝動、というのがありはしないだろうか。あるいはそれらに関連した他人の成功をねたむ心。

ある漫画家が年をとった高僧にインタビューしたとき

「この年になると性欲に乾くこともなく、金に対する欲も対してなくなった。しかし他人が成功したという話を聞くと、激しい嫉妬心が心にわきおこる」

と答えたとか。他人の成功をねたみ、自分を尊いものとしたい、という願望は理由はしらねど遺伝子の中に刻みこまれた感情なのだろうか。

 

その願望を達成するにはいくつかの方法がある。「身を立て名をあげ」という手もあるだろう。この「身を立て名をあげ」は科学の場合にはどのようになされるだろうか。

 

たとえば新しい理論を構築し、それに自分の名前を付ける、というのはどうだろう。相対性理論という言葉が何を意味しているか知らない人でもアインシュタインという名前は知っている。そこまでいかなくても電磁気学を学べばローレンツだのマックスウェルだのという名前を知っている。彼らはまさしく名をあげたのだ。それにはこれまで何度か述べたような「よい理論」をうちたて、それが認められる必要がある。

さて、この「新理論をうち立て、それが認められる」過程には一つ大きな要素がある。すなわち「客観性」だ。理論は客観的な論議に耐えられるほどよく定義されていなくてはならない。そして最終的には「客観的な観測データ」によってその理論の正否が評価される。

この客観性無しには、科学のまな板にのることはない。一人頭の中で思いを巡らせるのは個人の自由だが、それだけでは科学理論とはなりえない。

 

しかしこの分野で名をあげてやろうという人間にとっては大変な話だ。理論をちゃんと他の人間に理解できるように明確に定義したあげく、あれやこれやの批判にうち勝つ必要がある。そんなのはあたりまえだ、と言われるかもしれないが、実際これは結構大変なことだ。まず自分がうちたてようとしている分野に精通する必要がある。何かの幸運に従い新しい着想を得てそれをサポートする実験結果も得られた。、世の中には合理的な思考をする人ばかりがいるわけではない。正しい指摘の他に、それこそ「非合理的、感情的な反論」にも山ほどあうだろう。それに対して、あくまでも冷静に、事実を元にうち勝っていく必要がある。

 

さて、自尊心を満足させるためにはも一つ正反対の方向がある。それは客観性と反対の方向に閉じこもることだ。

客観性を持つとは、複数の人間にとって共有できるということ。つまり多くの人が一定のルールに従って往来できる通りのようなものだ。

逆に誰もはいってこれない-あるいは関心を持たない-領域に自分だけの線引きをし

「この中で私は天下無敵だ。」

と宣言する。

ここで先ほど揚げた「疑似科学者のふるまい」を思い返してみよう。彼はしばしば複雑な特殊用語を使って書く傾向がある。自分だけの世界を構築するためだ。他人にとってわかりやすい言葉で語りかけ、客観的な評価を求めるのではなく、自分だけの世界に閉じこもるため。そして彼は仲間からほとんど隔絶して仕事をする。隔絶された自分だけの世界のなかで彼は確かに天才だ。それへの批判は、仮に第3者にとって妥当なものであると思えても、彼が線引きをした、彼だけに通用するルールの中では不当な差別、非論理的な反感、個人攻撃でしかない。

そしてこの閉じた自分だけにとって意味を持つ世界をつくりあげることは、自尊心を満足させるもう一つの方法であり、外界に対して目と耳を閉じることが可能であればずっと容易な方法なのである。

ここで「容易」と書いたが、それは疑似科学者であることが必ずしもさぼりながらできるということを意味しない。それどころか、疑似科学者は時として自分の命まで縮めて自分の主張の正しさを主張し続ける。しかしそうしたエネルギーは所詮自分が作り上げた世界のなかでまわるだけだ。であるからそこで彼がいかに革命的な理論をうち立てようが、エネルギーをつぎ込もうがそれが、客観性を持たない限り科学の範疇にはいることはない。アシモフ(参考文献13)は次のように述べている。

 

「科学のアマチュアの中できわめて支配的な見解は、科学に革命をおこすには、”理論”を持つだけで足りるというものである。現実を言えば、”理論”それ自身は知的な遊びにすぎず、それ以上のものになるためには、観測、それもなるべくなら、その理論を支持するだけでなく、対立する理論を粉砕するような観測によって支持されなければならないのである。」 

 

こうした「(自分は少なくともあっと言うような)理論」を構築することは、一種

「探偵小説のなぞとき」

にも通じるものがあるかもしれない。名うての「その道の専門家」がお手上げ状態。難しい理屈をひねりまわしてはみるが、どうにも犯人がわからない。そこに現れた名探偵(これは犯罪捜査の素人だったり少年だったりしたほうが何故か効果が高いようだ)。あっとおどろくような「理論」をうちたて、見事に犯行のすべてをあばきだして見せる。専門家の面目はまるつぶれ。

 こうした話はフィクションとして楽しんで読むこともできるが、世の中には「本当にそんな推理はなりたつのか?」と検証してみる人もいる。するとそれら「見事な理論」が実に非現実的な物であることに気がつく。しかしそんな「興ざめな」態度をとるよりは、見事な理論に感心したほうがいいではないか。しかしフィクションはあくまでもフィクションだ。

 

そうした爽快さは面目をつぶされる「専門家」が高名であればあるほど高まるだろう。従って疑似科学者は基本的に

「攻撃しやすい理論」

ではなく

「有名な(そして大抵の場合確固たる実験事実にささえられた)理論」

を攻撃する。もともと正面からうち勝つつもりはない。どうせ相対性理論を否定するなら特殊ではなく一般の方を攻撃すればとも思うのだが、いかにしても一般相対性理論は難しすぎてそれが何を言っているか理解するのも大変だ。

 

さて彼らのこうした性質-客観性を否定し、自分だけに意味を持つ世界に閉じこもること-は疑似科学のもう一つの性質を説明する。すなわち

「進歩がない」

という性質を。

「奇妙な論理」は1952年に刊行された本である。第2次大戦が終了してから7年後。インターネットなどは影も形もなかったころ、「宇宙が膨張しつつあるという理論」は「作業仮説として提案されているものの、データが不足しているため、賛否両論のかしましい理論」の一例として揚げられているころだ。

この時点から「科学」は進歩した。宇宙が膨張しつつあるという理論は、もはや「賛否両論のかしましい理論」の例として上げるには確固すぎる地位を築いている。

これらは先ほど述べた「科学」のもつ性質。特にそれが持つ「客観性」により可能となったと私は考えている。主張、それにそれを裏付けたり否定したりするデータはすべて個人ではなく、大勢の間で共有することが可能となり、そして研究者を越え、世代を越えて、評価、分析、改良されていくことが可能となったのである。

しかしこの本に上げられている「疑似科学」は、今日「新刊」として刊行されている疑似科学の理論とほとんどかわるところはない。

これが客観性を重んじる正統派の科学であれば考えがたいところである。しかし「疑似」が頭につけば話は別だ。事実と実験により照合されることはないから、それらの理論はいかなる実験的な事実、発見も乗り越えてその正当性を主張できる。そして彼らは先人の知恵から学ぶよりも目を閉じ耳をふさぎ自分の世界を構築する。従って先人の知恵に積み重なってより進歩するということをしない。

 

さて、科学と疑似科学の違いに関してはこれくらいにしておこう。しかしここで私はふと考えるのである。科学の方法論と疑似科学は確かに相容れない。「疑似」の2文字はだてではないのだ。しかし科学という文字から頭を離した時には何が見えるだろうか?正気と狂気の境目はそれほど明確ではない。連続体の両端にある領域を除けばそれは所詮多数決で決まることなのだ。

 

次の章 


注釈

条件0:この条件は http://www.kek.jp/kek/WWWLIB/ESSAY/nekomata-4.txt を参照して付け加えた。本文に戻る

 

えくそだすー:この言葉はKeith中村氏作、「それだけは聞かんとってくれ」の「第133回 西瓜割り補遺」からの盗用である。本文に戻る

 

中和参考文献6にはこの説明に対する反論が乗っている。曰く

「深海に2個のボールを投げ入れたところを想像すればいい。深く沈むにつれて、ボールはしだいに圧力によって圧縮されている-しかし、決してボール同士がくっつこうとする力は働かない。圧力は2個の離れた物体を近づけるわけではないのだ。」本文に戻る 

 

一つの要素:ここでは、疑似科学を提唱する者の動機を考えている。提唱された疑似科学を信奉する者の動機について書いてみたのが「理由を我らに」である。お暇でしたらごらんくださいな。本文に戻る