題名:私のMacintosh

Duo280c-part2

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日付:1999/2/11


Duo280C-part2

さてQuadra700を売り飛ばすことを考えた私はさっそく、交渉相手先を探すことにした。当時Macintoshは我々の職場で標準機となっていたし、会社は前述したようにいつまでも買おうとはしなかったから個人で買うしかない。多少デビューから時間がたっているとはいえ、まだまだQuadra700は十分な力をもっていたから、売却の話をちょっともらしたところ、何人かから好意的な反応を得た。

さてとりあえず条件を明確にした上で、購入希望者をきちんと募らなくてはならない。私は以下に示すような紙をあちこちに配ることにした。

 

大坪君のQuadra700購入エントリーカード

 

さて首記の件、以下に示す条件で応札される方は、必要事項を記入の上、○設大坪まで送り返してください。

 条件:

1。物件

(1)Quadar700 20MRAM, HD 240MB, (マウス、キーボードナシ)256kByteCashつき。

(2)Apple 13inch color monitor + Cable

2。値段17万円(分割払い可。分割方法に関しては相談に応じます)

3。引き渡し時期方法は相談による。

4。引き渡し時の機能点検は実施、それ以降は保証無し。

名前

所属

内線

いずれかに○をうってください。   ぐう ちょき ぱあ

 

さて一番下の欄に「ぐう ちょき ぱあ」があるのは、もし購入希望者が複数いた場合にはじゃんけんで決めようと思っていたからである。あいことなる可能性も考えて、同じ選択肢はいくつか書いて置いた。

さてこのスペックと値段であるが、まず私はIIcxの頃から使っているキーボードとマウスは大変気に入っていたので、そのまま自分で持っておくことにした。だから売却システムからは除いてある。値段が17万円というのは当時としてはかなりのディスカウントだったと思う。多分この値段は同じような性能を持っているLC475よりもちょっと安かったと思う。Quadra700にはFPU,それにキャッシュがついていることを考えれば、経年変化による故障の可能性さえ除けばお買い得だったと思う。

さて多分この応札の締め切りまでは一週間くらいみておいたのではないか。3人が応募してくれ、めでたくじゃんけんによる候補者決定となった。結果通知は以下の通りだ。

 

大坪君のQuadra700購入入札結果のお知らせ。

 さて皆様。大坪君のQuadra700購入に多数の(3名)入札ありがとうございます。

9月14日(水曜日)午前8時でうけつけを締めきり、厳正なじゃんけんを実施しました。結果を以下に示します。

 

Bun  KN  Jazzie.Y  結果

1 ちょき ちょき ちょき あいこ

2 ちょき ぱあ ぐう あいこ

3 ぐー ぐう ちょき Jazzie.Y君残念でした。

4 ちょき ちょき ちょき あいこ

5 ぐー ぱあ ぱあ KNの勝ち!

というわけでめでたくQuadra700はKNのものとなりました。BunとJazzie.Y君残念でした。。。。どーもどーも

 

このKNというのは職場の後輩というか友達というか、そういう相手である。彼は支払いを分割払いにしてくれ、と言ったが、そんなことは何の問題もない。さて売却相手が決まれば、これで心おきなくDuo280の購入ができるというものだ。

例によって例のごとく大須に行った。そしてあちこちで値段をくらべてみると、ある店がちょっとだけ他の店より安かった。おまけに在庫がちゃんと置いてある。私は「あれいくらになりますか」と言って訊いてみたが、店員の態度は最低だった。「そんなに書いたきゃ売ってやるよ」的な態度で、とても人に物をうるような態度ではなかった。私はすぐにそこをでた。そして次に安かった店に行った。店員の態度の悪さを考えれば数千円の差等はないも同然だ。

さて次の店ではちょっとおたくっぽくはあったが店員が親切に応対してくれた。もっとも迷う点は一つしかない。RAMの容量である。「RAMは最大限に装備すること」という原則は未だに生きているが、私としては財布のほうと相談しなくてはならない。ずいぶんとまよったあげくにTotalで18MBになるようにした。今までQuadraの20MBで何の問題もなく使ってきたから、18MBあればまあ当面問題は無かろう。

さて、その日のうちに持って帰ったのか、あるいは数日後に取りに行ったのかは覚えていない。とにかく9月17日はQuadraからローカルトーク経由で全てのファイルをコピーした。ハードディスク容量は320MBであり、Quadraよりも大きいから問題はない。理屈からいけば、インストールは簡単なはずなのだが、システムフォルダ内の設定ファイルを移動したり、と何かと手間がかかる。しかしMacintoshでこうなのだから、Windowsで機械を乗り換えるときに環境設定ファイルを移行する、というのはどれほどの手間なのであろうか。

さて次の週、1994年9月25日の日曜日は2年半使ったQuadara700をKNに売却する日であった。彼は彼女と一緒に寮まで取りに来てくれた。今まで使ってきたコンピュータとお別れするわけだから、多少は感傷があってよさそうなものなのだが、特にそうしたことはない。だから特に何も覚えていない。

 

さて前述したようにDuoは極限まで外部とのインターフェースを省いてあるから、必ずなんらかのDockをあわせて使用しなくてはならない。このDockで何を選ぶかで、しばらくいろいろ考えた。

まず一番でかいのがDuo Dockである。これは基本的にはDuoの蓋をとじて、丸ごと放り込む形式なのである。インターフェースとしては一番多いし、かつ拡張カードも使える。Niftyserveのフォーラムをいろいろ見ていたら、元開発者という人のコメントで「実はDuo Dockに放り込んだあとも、Duoの画面は生きている。従って上蓋を外して放り込めばそのままDUoを使うこともできる。」というコメントを読んだ私は、しばらく「これや!」と思っていた。実はそれから一週間ほどして「画面は死んでますよ」というコメントがつき、元の開発者から「ごめんなさい。多分ROMが変更されたんですね」という解答が出るに至って私はその考えをあっさり捨てたのであるが。

次に考えたのはMini-DOckという、DUoの後端にくっつけるタイプのものである。これでも大抵の外部インターフェースは手にはいることになる。しかし一つだけ私がほしくて欠けている物があった。Ethernetである。何故私がEhternetに固執したか?ここで話はまた私の当時の仕事に戻る。

私が受注したシミュレーションプログラムの開発に従事していたことは前述した。建前上は別の課が仕様を作ってきて、こちらがコードを書く、ということになっていたが、実際別の課は部分部分のモデルをもってくるだけで、あとは全部こちらで考えて作ったのである。(もっとも会社はそうは思っていなかったようだが)前回見事な計算部を作り上げた男は、別のプロジェクトにまわったから、今回私は全ての部分を思い通りに作れる立場になった。計算部分についてもいくつかアイディアを持っていたのでごりごりと作り始めた。そしてだんだんとそれらが形を整えるにつれ、PB-100+Telnetでの作業が窮屈になってきたのである。

速度は全く問題がない。しかしこの環境ではどうがんばっても2画面以上画面を開くことはできないのである。おまけにMotifで作った画面から起動するようになるにつれ、テキストベースの画面ではデバッグが大変難しくなってきた。

さてここに登場するのがMac用のX Server, MacXである。なんだかごろがいいプログラムだが、このプログラムはStanfordにいるときに少し使ったことがある。家のコンピューターにいきなりSunで計算しているグラフィックスが表示されるので感動した覚えがある。このように機能は実に偉大なものだったのだが、いかんせんLocaltalk接続したLAN上で使うには少し重すぎる。これまたNiftyserveのフォーラムを覗いてみると、Ehternet接続した環境であれば結構使えるようだ。このことに思い当たったときから私は自分のDUoをEthernet接続することに固執しだしたのである。

さて世の中にはありがたいことにEtherDockなるMini-Dockに10base-TのEthernetインタフェースをつけた製品が存在していた。これはApple純正ではないのだが、元のMini-Dockはこの会社のOEMだそうだから問題はあるまい。私はこの製品を通販で買ったような気がする。当時そろそろこの製品が無くなるのではないか、という噂を聞いて泡食って注文したような覚えがあるが定かではない。

さて首尾良くEtherdockは手に入ったが、これからがまだ出費の道は続いた。私が働いていた場所にはEthernetとLocaltalkがはいずりまわっていたが、Ehternetは10base-5である。10base-Tを接続しようと思えば、ハブをどっかからもってくる必要がある。そんなものが余っているわけがないから、私はこれまた自費で購入することとなった。(当時まだハブは結構高かったのだ)いまこうして書いていてもよくもこうあれこれつぎ込んだ物だと思うが、当時の私にはこうした出費は全く気にならなかったのである。

さてようやく環境がそろって、私の会社の机の上には、Etherent接続されたDuo+EtherDockが、キーボードとマウスをつけて鎮座することとなった。そしてDuoは会社では資料とプログラムの作成、自宅では通信にと活躍することになったのである。

さて自宅の環境であるが、最初は「インタフェースは会社にだけおいておけばいいや」と思い、またしばらくはそれで問題なく動いていたのである。ところがそのうち、自宅でもSCSIが必要だ、ということに気が付き始めた。バックアップ用に使用していたMOはやはり家に置いて置いたほうがいいような気がするし、それよりもCD-ROMのゲームでもやろう、と思えばやはり家でやったほうが調子がいいのである。こうつれつれと考えた私はもう一個、SCSI Micro Dockというインタフェースを購入することにした。これは結構安かったし、小さいし、つけたままスリープができる(EtherDockではこれができなかった)など、結構メリットがある製品だった。唯一の難点は着脱に結構な力を要し「これでは壊れてしまうのではないか」という強迫観念に襲われることくらいだったが。

さて、それからしばらくはその環境で満足して使っていた。そのうち外付けモニタがほしくなった。なんといっても画面は広くて広すぎる、ということはないのである。昔大画面がほしくて16インチのモニタを購入し腰が抜けそうになった話は前述した。ところがこのころから14inchのモニタでも高い解像度をもったものが出回り始めていたのである。よほど細かくしてしまわない限り、必要なのは絶対的な画面の大きさではなく、画素数なのだからこれでもいいわけだ。年があけて1995年、私は急にこの考えにとりつかれはじめた。そして3月の27日にソニーのディスプレイを衝動買いしたのである。(これまた当時大変評判がよかったやつだ)会社に持っていって接続してみると大変ぐあいがよろしい(当時のPowerBookはDual Monitorが可能だったのだ)これでMacXでMotif画面の開発も実に快調にできるわけだ。それでなくても開発が佳境にはいるにつれ、絶対的なコンピューターの数は足りなくなってきたところだったのである。この状態でのMacXは実にありがたかった。

さて、それからしばらくは私はひたすらそのプログラムの開発にいそしんでいた。そしてDuoには全く何の不満も感じずに平和に暮らしていたのであるが、一点だけ問題があった。Duoの画面は標準で640×480@256color,32000色にしようと思えば画面サイズが640×400になってしまったのである。

何故これが問題か?普段はなんの問題もない。しかしいったん家に持って帰ってCD-ROMなど眺めよう、とすると途端にこの誓約が窮屈に思えてくる。CD-ROMに納められている写真や動画は32000色以上のカラーを前提としているものが多い、特にもとが32000色のQuickTime Movieを256色でみると、そのQualityの低下は著しい。しょうがねえなと思って640×400に変更すると今度は画面の下端がきれてしまって、ろくに操作ができない、とそんな感じである。まあ仕事の方が忙しくなるにつれてとても家でCD-ROM など見る余裕はなくなったからこの仕様は気にならなくなったのだが。

さて私が担当していたプログラムの納入期限は6月末であった。その日に向けて私がひたすらごりごりと働いていた。今から考えれば、あのように自分で設計図を書いて、それを思い通りに作れる、という経験は実に得難いものであったということに気が付くのだが。そして一緒に働いてくれた仲間は実に見事な働きをしてくれた。私は適当に「こんなの作って頂戴」と頼むのだが、彼らはたいていの場合私が当初考えていたものよりもいいプログラムを作ってくるのである。おそらく4月だったが5月だったが覚えていないが、ようやく世間が暖かくなったころ、私はふとこうした考えにとりつかれた。

「今回は私が自由にプログラムを作らせてもらっている。一緒に働いてくれる仲間はみな私が予想した以上にいいものを作ってくる。これでちゃんとした製品に仕上がらなければそれは私がとんでもない間抜けであることの証明である」

これは恐ろしい考えであった。世の中うまくいかない原因が他にある、とわかっている場合は結構フラストレーションがたまるが気楽な時期でもある。あいつがいけないのだ、あるいは部下が使えないからだ、と思っていれば少なくとも自分のせいではない、などと考えることができる。

そうやって文句を言っていられる間はいいのだが「では自由にやってみろ」とばかりに仕事をまかされ優秀な人間と一緒に働けることになるとそのいいわけは使えない。

文句を言うのと”じゃあおまえがやってみろ”と言われてびびらないのはワンセット

というのは私の昔からの信条だ。その信条に従うとすれば今私はびびるわけにはいかない。データの入力画面、そのデータをコンパイルするプログラム、シミュレーションの計算部、表示部、それに結果の解析プログラムが一本の細い糸でつながったのがいつであったかは覚えていない。橋はかかったが、まだまだバグの山は残っている。バグがマイナーなものであれば問題はないが、時々根本から考え直すことを迫られることもある。一つバグをつぶすと3っつぐらいに増殖するのではないかと思えたこともある。しかしみんなの見事な働きのおかげで確実に作成は収束に向かいつつあった。

さてこうやってプログラムを作りながらも私は個人的に別の問題に直面していた。こうしてプログラムを一生懸命作れば作るほど「○設課は決められた範囲の仕事を言われたとおりにやっている部署」という○○重工の評価とのギャップが大きくなっていくのを感じていたのである。

前述の台詞をはいた人間の信念はゆらぐどころか、ますます強固になっていくようだった。このプログラムの仕様書なるものは最後までみたことがなかったが、それでもこのプログラムは彼に言わせれば「仕様書を書く部署が作った」ものなのだそうだ。

これは後のことだが、このプログラムは客先に大変高い評価をうけ、表彰状がでることになった。当初その受賞者の名前には私がいた部署の人間の名前は一人ものっていなく、○○重工がいうところの「プログラムを作った」部署の人間だけがリストアップされていたそうである。言われたことを言われた通りやった人間などには表彰は不要ということか。ところで彼らは何をいってくれたんだね?

このプログラムの最終審査の後の宴会で、例のエキセントリックな客先の方は「いやー、さすが○○さんですな。あんなすごいプログラムがあんなに短い期間できるなんて」と大変ご機嫌だったようだ。会社に戻って、このプログラムを部のNo2にデモすれば開口一番「これは購入したものか」だそうである。

 

このギャップは日が経つにつれて私は耐えきれないものとなっていった。そして「これ以上この会社でソフトの仕事をしていてもしょうがない」と思うようになっていったのである。しかしすでに○○重工のこの事業所の私に対する評価は「君はソフトの分野で言われたことだけやってなさい」に固まっている。ソフトでなければ今度は蛍光灯などの備品を管理している部署に回るくらいしか選択肢はなかろう。ではどうすればよいか?

 

そのとき社内報に「人材公募」の案内が乗っていた。同じ名古屋にある別の事業所で「次世代住宅用発電システム」なるものを開発するから来ませんか?というやつである。私は特にその「新しい製品の開発」というところに惹かれた。なぜかは知らないが私は「新しい」という言葉に妙に弱いようだ。誰もがやったことがないこと、世の中にないもの、などと言われると私はふらふらとついていってしまう。そしてその公募に応募し、面接の末にその部署に異動することになった。

移動すると決まったあともプログラムの改良は続いた。当初このプログラムは戦闘機対戦闘機の戦闘はシミュレートしていなかったが、「デモに必要だ」ということで、そちらの方面のミサイル担当の人間と相談してその機能を追加した。今回のプログラムはC++を採用したのもさることながら、徹底的にオブジェクト指向で貫いていたから(戦闘シミュレーションだから登場ユニットをすべてオブジェクトと定義するのはきわめて自然なことだ。また継承機能も利用して、粗いモデルから詳細モデルまで自由に選択できるようにしてあった)そうした機能拡張は実に簡単だ。前のバージョンで登場ユニット数をふやしたり、新しいタイプを追加するだけでプログラムがお亡くなりになっていたのとは偉い違いだ。

さて彼と相談して作り上げたシナリオで動かして見るとこれが実に愉快だ。旋回しているAWACSと護衛戦闘機に対して、新型の長射程ミサイルが雨霰と放たれ、たちまちのうちに姿を消していく。○○重工の新型ミサイル万歳の図柄である。そこに通りかかったのが例の上司だ。彼はこのプログラムを見るなり「これは○○(私と相談した男である)が作ったのか!」と大変ご機嫌そうに叫んだ。例によって例のごとく私などは数に入らないということか。私は無駄だと思っていたが「○○と相談して私が作ったんです」と言った。

考えればこれが彼と交わした最後の言葉になった。転勤の辞令は部長が手渡すことになっているらしい。しかしこの男は私の課の課長にこれを渡した。その前の週の土曜日にすでにモニタは片づけてあった。あとはハブをはずし、Duoとその他周辺機器を袋に詰めれば私の引っ越しはおしまいだ。すべてを片づけてぞうきんがけまでした私の机は光り輝いて見えた。

 

1995年の10月1日から私は別の事業所に転勤することになった。ここは本来エアコンを作るところだが、今回「新しく」取り組むという製品はエアコンではない。もともと私は機械工学科の出身で熱力学というのは避けて通れない道ではあった。私はエンタルピーだのエントロピーだのが大嫌いだったが、不思議と熱力学の点数はよかった。とはいってもエアコンに何の魅力を感じていたわけではない。

さて出勤して初日。まずこの事業所ではとっくの昔に廃棄になっていたと思っていたIDEA(先進IDEAですらない。N5200という例のゴミのようなコンピュータだ)がまだ現役で使われているのを見て驚いた。次に驚いたのはMacintoshも導入されているのであるが、誰も使わずIDEAのほうを使っている人間が多いのに驚いた。さらに驚いたのは、私がさっそくDuoを持ち込んでLANに接続しようとしたら「主任以上でないと接続してはいけません」といわれたことだ。何だそれは?この部では主任以上になると机の上にパワーブックがのることになっていた。けちな○○重工のことだから、乗るのは一番安かったPowerBook150である。(後にPowerBook190に替わったが)しかし一番働いているヒラには数人に一台LC475があるだけである。おまけにヒラの連中も圧倒的な文書作成効率の差をしってからしらずか、DOSの上の一太郎とかN5200上LANDESKとか使って文書を作って平然としている。私は一気に10年前に戻ったような気がした。世の中windowsが席巻しようとしているこのご時世にDOSで文章を作るとは。。

さらに驚愕したのは「新しい取り組み」と言われた製品だ。転勤して二日目にでた会議で私は小規模な組織といかんともしがたい官僚的な根性が両立しうることを知った。我々が取り組もうとしていた製品はどの点をとっても競合他社よりは5年くらい遅れた水準にあった。それなのにそれぞれの部門を担当してる部署同士はお互いの揚げ足取りと、メンツの保持に一生懸命になっていた。その有様は大戦が負け戦となってからの陸軍と海軍のいがみあいもかくのごときであったかと思わせるような代物だった。

幸いであったのは私と同じ時に公募で移動してきた人間、それにもとからその事業所にいた人間ではあったが一緒に働いてくれることになった人間が両方とも意欲に満ちて優秀な人たちであったことだ。上司は通称「紫外線」と呼ばれる部下からは「大変好かれ」る人であった。私ともう一人の歓迎会の席上で「君たちこんな事業所によくもきたねえ」とまるでわれわれがとんでもない阿呆のように扱う台詞を平然と言い放つ人であったが、彼は慎重だから上司にはこんなことは口が裂けても言わない。実際彼の上司の彼に対する評価と、部下の彼に対する評価は180°異なっていて、会社で出世するために必要なのは部下に嫌われることだ、という私の信条の開発に一役買ってくれた恩人でもあるのだが。

まあそんなことはどうでもよい。さて10月1日からこのプロジェクトは新しく公募で参加した人間2名、転勤してきた人間1名、元からいた人間2名の総計5名の体制でスタートすることになった。ところがとても不思議だったのだが、これが2ヶ月たつといきなり3名に減り、さらに3ヶ月経つと2名に減ったのである。人が足りないから、ということで公募までして他の事業所から人間をかきあつめたはずなのに、半年もしない内に人数が半減するとはこれはいかがな理由であったろうか。

話は簡単である。このプロジェクトは二つの事業部が「共同して」実施する、となっていた。ところがちょうど我々が転勤したあたりから、「どうもこのプロジェクトは見込みがない」ということにようやく気がつき始めたらしいのである。従って腰が抜けた、というわけだ。元からこの事業所にいた優秀な人材は他のプロジェクトに逃がし、公募できてしまった二人はしょうがないからやらせておく、と言ったところだったか。

さて公募できたもう一人の人間は、この事業所の標準で言えば3人分くらいの仕事をこなしつつあった。従って私はほとんどやることがなくなってしまった。本当に製品かを目指すのであればやることはたくさんあったのだろうが、私が担当していた分野はすべてストップがかかっていた。やっても無駄になるからやるな、というわけだ。

実際このときほど暇だったことはない。毎日会社に行っては暇をつぶすのに苦心惨憺していたものである。窓際のつらさというものがこのとき少しわかった気がした。ある時など3m四方くらいの木造の模型を一週間ばかりかけてのこぎりで壊し、せっせと焼却場に運ぶ、という仕事をしていたことがある。実際それしかやることがなかったのだ。

 

さて話をMacintoshに戻そう。最初は「主任以上でないとつないじゃだめ」というお達しに驚愕した私だが、そのうちあほらしくなって隣の男(公募できたもう一人のおとこで、かれはPB550を持っていたのである)と一緒にLANにつないで使うようにした。しばらくのあいだフロッピー経由でプリントアウトしていたことをかんがえると夢のような環境である。EtherDocは会社で使っていたが、今回はキーボードとマウスを接続するようなことはしなかった。Duoについているキーボードとトラックボールを使っていたのである。こうして使ってみると確かにキーボードはぐにゃぐにゃしているし、トラックボールは使いづらくはないのだが、ゴミがつまる、という事実に気がついた。Duoのキーボードに関しては悪評がたかかったが、それまでは対して気にもしていなかったのである。しかしこうして使用頻度が高くなってみると確かに指が必要以上に疲れる気がする。まだ疲れているだけならばいいのだが、そのうち左下の沈み込みが大きくなり、Zキーが反応しなくなった。最初はなんどかひっぱたいていれば入力できたのだが、そのうちうんともすんとも言わなくなった。こうなると修理に持って行くしか手はない。

そのときちょうど(このころはとにかくNiftyservveのお世話になっていたわけだが)ある会議室で「修理なら日本NCRが大変よい。目の前ですぐに修理をしてくれる」という情報を得た私はさっそく名古屋のNCRを探しててけてけと修理にでかけた。朝何時開店だったか覚えていないが、いつもの癖で異常に早くついてしまった。中を覗いてみると誰もいない。倉庫のような感じだったが、そこに一人で入って行くわけにもいかない。しょうがないから駐車場でぽつねんとまっていた。もう開店時間になっただろう、、と思ってはいっていくと一人おじさんが座っていた(少なくとも私よりは年上だったと思う)そして大変愛想良く応対しくれた。

Niftyserveの情報によると、当時タイプEなる新型のキーボードが出回るようになっていたようである。症状を言うと、ちょっと確認した後に彼は手際よく分解を始めた。そしてあっというまにキーボードを交換してしまった。いくら費用がかかったか知らないが、一日たりともMacintoshをてばなしたくない私にとってこの迅速な修理はとてもありがたかった。かくしてDuoはまた快調に動き始めたのである。

さてDuoの本体は快調になったが、会社での使用にはちょっと「ご注文」がはいった。ある日見慣れないところから封筒が来たな、と思って中をあけてみればなんと「管理部門」からのお達しである。この文面は今にいたるもだいたい覚えている。

「私物のMacintoshはネットワークに接続禁止となっています。業務上Macintoshが必要であれば、所属長を通じて申請をしてください。必要性が認められれば、部からMacintoshを支給します」

なんと、これほどまでにお役所的な名文にはあまりお目にかかれないのではなかろうか。「所属長を通じて申請」が必要だときた。若い頃だったら、この文面を見て激怒したかもしれないが、大分私も人間としてまるくなってきたようだ。怒ったりせずに大変喜んだのである。この事業所に転勤してからというもの、こういった類のお役所的名文にはあまりお目にかかっていなかったのである。従って馬鹿げたお役所主義に対して、怒鳴り返すこともできなかったわけだ。この場合全ての理は私の方にある。私のMacintoshをネットワークにつないだからと言って、何の問題があるというのだ?私のMacintoshからあやしげなパケットでも送出されたというのか?実に楽しいではないか。しばらくぶりに大騒ぎができるというものである。私はにこにこして、ちょっとボクシングのグローブでもはめて、サンドバックでもたたいてみようか、という気分だった。この大坪君にこういう文章を送ってくるとはいい度胸じゃないか。ちょっと「教訓」というものでも教えて挙げよう、Young man,という感じだった。

さて、次の手は何かな?と思って楽しみにしていれば、私の席に現れたのは、技術部所属の「開発Gr」なるところのGr長である。そしてこの人はおよそ3年前に私のところに「設計部署でのMacintoshの活用について」聞きに来た人でもあるのだ。この開発Grというのは技術部のなかで、CAEだのパソコンだのの面倒を集中的に見ているグループだった。そしてこの日は当時はそこの主任だったのだが、(正確に言えば、このGrができる前のことだが)今や堂々たる主務(つまり課長だ)となっていたのである。なるほど、君は私が誰か知ってこれを送りつけてきたわけだね。

私はにっこりと笑って「おもしろいものをくれましたね」と言った。といって彼の反応を待った。すると彼は「とにかく私物にはノータッチにするから、とりあえずあまり表にださないでくれ」とかなんとか、言って去っていった。私としてはがっかりである。あまりに物わかりがよすぎるではなないか。アングラで使うことにはなんの異存もないが、ひさしぶりに「官僚的な管理部門」とけんかができると思って喜んでいた私としては拍子抜けの感じだ。まあとりあえず表だって文句は言わないようだからかまわないか。

 

さてそうこうしているうちに、私はまたMacintoshを購入することになる。とはいっても自分の物ではないのだが。

 

次の章

 


注釈

文句を言うのと”じゃあおまえがやってみろ”と言われてびびらないのはワンセット:(トピック一覧)この言葉を自分で飲み込む羽目になったのは、大学4年の時の学園祭のときだったが。しかしワンセットでない人しか見たことがないような気がする。本文に戻る

 

会社で出世するために必要なのは部下に嫌われることだ:(トピック一覧)この信条に反対の意見がある人はメールでもなんでもください。しかし私としては事実を尊重するのが主義である以上、この結論を曲げるつもりは毛頭ない。元私の上司は大変部長に気に入られているようだからそのうち次の部長になるだろう。本文に戻る