題名:私のMacintosh

Quadra700-Part2

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日付:1998/6/22


Quadra700-Part2

さてお金も手に入った私はスキップしながらStanford Book Storeに向かった。注文するのはQuadra700, w/o RAM, w/o HD, w 2MB Video RAMである。RAMとHDはもうもっているから要らない。Videoでは8bitcolorで我慢する手もあったが、私は24bit colorが使いたいと思っていた。

何故24bitColorにこだわったか?Mac World ExpoでQuickTimeをみて感動した私はInternetからいくつかサンプルムービーを落としてIIcx上で鑑賞していたのである。ところがそれはいささか失望させられる物だった。

一つの理由は当時のQuick Time Movieはどれもこれも大変小さいサイズだったことが上げられる(標準と目されるサイズは160×100だったのだ)当時のコンピュータの処理能力は今のものに比べて大変貧弱だったから、これでも精一杯だったのだ。

大きさには目をつぶるとしても画質にはかなり失望させられた。どうみても「動画が動く」というよりは「下手な絵描きが塗った絵が動く」という感じだったのである。

がっかりしたが、その後あれこれ情報を集めてみると、これはどうもQuickTimeが24bit Colorで無くてはきれいに表示されない、というところに問題があるらしい。理由はよくしらないが8bitで表示させるとかえってスピードが下がり、画質も極端に低下するらしい。

私はQuick timeの威力に感動していたので、迷わず24bit colorを表示できるVideo RAMの容量を選択した。結局合計金額は$3000くらいになったと思う。

さて意気揚々と注文を終えると私はご機嫌であった。これで数日内にはQuadraがとどくだろう。ちょっとまて。数日?

私は極めて抜けている。そして大抵の場合重要なことを聞くことを忘れる。注文の際にいつ届くか明確に聞いていなかったのである。それでも一週間はおとなしく待ったが、とうとう絶えきれなくなって文句を言いに行った・一体いつ届くんだ?

答えは「3-4週間」であった。なんということだ。一月もコンピュータ無しの生活を強いられるのか。。。

がびーんとなったがいかんともしがたい。それからの数日間私はもんもんとしてすごすことになる。フラストレーションを解消するためにあちこちのコンピュータショップを回ってみたりした。そしてビデオ入力装置であるところのVideo Spigotが売られていることを発見したのである。フラストレーションで判断能力を失っていた私はそれを何も考えずに購入してしまった。そして16MBのRAMと135MBのHDと、ビデオの入力装置を抱えたまま、ひたすらQuadraの到着を待つことになったのである。

文句を言いに行ったのは1月28日だからそれから3-4週間ってことは2月の末か。。いったい一月もコンピュータ無しでどうやってくらせばいいんだ。。。などともんもんと考えていた。一般論としてAmericaでは店員は結構いいかげんな事を言う、とはそれまでに何ども何ども経験していた。だから「来週来るよ」と言われて、実際に製品を手にするのが一ヶ月後であってもとくに驚きはしない。だいたいにおいてこの国はアバウトなのであるが、このときばかりはそのアバウトさがいい方に働いた。Spigotを購入した翌日BookStore から電話があった。なんと3-4週間かかるといわれていたQuadraは翌日届くという。私は大抵の場合私を失望させてくれるアバウトの神様に感謝の祈りをささげた。

 

さて1992年の2月の4日。私はるんるん気分でRAMをかかえてBookstoreにQuadraを受け取りに行った。荷物の受け取りは何故かしらねど、店ではなく裏の倉庫のようなところで行われるのである。しばらく待たされたあげくに自分の番になった。注文票を渡すとQuadraに加えてKey Boardまで渡された。

?と思ってよくよく注物を見ると、確かにキーボードも注文したことになっているのである。がびーん。元から使っていたキーボードは売り飛ばさずにこのまま使用しようと思っていたのに。。。まあいいや。ささいなことは気にしないことにしよう。

次にRAMの取り付けをやってくれる窓口に向かった。IIcx, IIciは個人でRAMを取り付けるのは簡単だったが、Quadraではちょっと手が届きにくい場所にRAMソケットがあるのである。確か取り付け料は数十ドルだったと思ったが、その金をケチって大切なコンピュータを壊すのもいやである。私はあっさり白旗をかかげてRAMの取り付けを依頼することとした。

さて取り付けには数時間かかる。私はいったんアパートに帰ってお昼寝することとした。Quadraも大切だが、睡眠時間はもっと大切である。

 

さて時間となってわくわくしながら再度自転車を走らせた。最初うけとってみると、上蓋を止めているはずのネジがないことに気が付いた。おかしい。IIcxでは確かにここにネジがあったはずだし、実際ネジ穴は存在しているのである。

アメリカでは文句は最大限に言わないと馬鹿を見る。Stanford生活も2年近くになっていた私は再び自転車をはしらせて文句を言いに行った。あんたRAMを増設したときにこのネジを忘れたんじゃない?実際のところネジはほとんどかざりのようなもので、無くても大した問題はなかったのであるが。

Bookstoreのお兄さんの対応はこうであった。「いや。これは最初からついていないんだ。確かにIIciまではついていたけどね。何故か知らないが最近はこれ無しで出荷されている」

 

ふーん。と思った私はあっさりひきさがってお家に帰った。ちょっとけちがついたが、これから楽しくも苦しいセットアップが待っているのである。

さてそれからのドタバタはおぼろげにしか覚えていない。日記から引用しよう

 

「それで立ち上がりました。最初は漢字トークが動かなかったけどこれは感動のはやさです。すばらしいラムの容量にくわけてスバラシイカラーがあります。これは大金をはらったかいがありましたねえ。ハイパーカードも素敵に早くなったし。これは感動ものです。調度Gomtalkも都合良く届いて漢字の環境も非常に快適に動いています。で悪い知らせもあります。この前のビデオカードは本当にビルトインサウンドが使え無いんでやんの。これはばかじゃないかなあ。これまで本当に多額の金を使っているからもう一枚カードをかうのは厳しいなあ。本当に。怒りのメールをかいた大坪君です。」

ここから日記は誤変換が極めて少なくなっている。(私の性格のがさつさによるものは当然のことながら存在しているが)私はStanfordのコンピュータユーザーで作っているメーリングリストにも所属していた。あまりのうれしさに私はさっそく次のような投稿をしたことを覚えている

「Quadraを買いました。感激物に早いです。ときどきふっとびます」

いくつかのソフトウェアで私は互換性の問題に遭遇することになった。しかしその早さはまさに「ふっとぶ」くらいのものに感じられたのである。

さて後半Spigotに怒っているが、これは以下のような事情である。Spigotのセットアップマニュアルには「このカードには音声の入力機能はありません。音声を入力したければもう一枚音声入力用の拡張カードを使ってください」と絵入りで書いてあった。

私はそれを見てあごがはずれるほど驚いた。このうえもう一枚カードを買えというのか?そしてユーザー登録カードに怒りのコメントを書き、ユーザーサポート係に「こんなあほな製品があるか!」と怒りのメールを送っていたのである。

ほどなくしてユーザーサポートからメールの返事が来た「Quadraだったら、音声入力機能がついているから、それを使ってもらえばいいよ」

IISiあたりから正確な理由はしらないがMacintoshは音声入力機能を標準で持つようになっていたのである。マニュアルには(もしかすると注意深くすみずみまで読めば書いてあったのかもしれないが)そんなことは一言も書いてなかった。こうやってちょっと怒ると怒りのメールを書くあたり、私も当時アメリカンスタイルにそまっていたのかもしれない。

ちなみに上記の日記に書いてあるとおり、私が初めて遭遇する24bitカラーの美しさは感動物であった。いままでは「写真もどき」としか思えなかった写真データが、本当に写真のように見えるのである。

 

さてこうしてごきげんになった私は、より一層Macintoshに向かう時間を多くとることになる。それにともないいくつかの拡張も行った。

 

まずコンピュータ専用の机を買った。この年は、前の年に比べて自宅でコンピュータに向かうことが多かったからである。今まではできあいの机の上において使っていたが、どうしてもできあいの机では疲労がたまってしまう。

次には多分InternetのNews Group上で見つけた「Apple 16inch Monitor売ります」という広告を見て、さっそく申し込んだことである。これは「固定資産」にもひっかからない20万円以下で購入できる可能性があったからである。前述したとおり私は大きなモニタの効果、というものを認めていたし、この「売ります」の広告は渡りに船だったわけだ。

さて1992年のアカデミー賞の日、私は近くに住むその男のアパートにモニタを取りに行った。彼は自宅に何台もMacintoshを置いているような人だった。多分その道の技術者だったのかもしれない。

にこにこ笑ってお金を払って、さて持ち帰ろうと思った瞬間に異常な困難に気が付いた。16inch Monitorというのは考えられないほど重いのである。なんとか箱に放り込んで車まで持ってきた。ところが次に気が付いたのは、箱にいれた状態では車にどうやっても乗らない、という衝撃的な事実だった。(私が乗っていた車は、角目4灯のアコードである)

しばらく途方に暮れたあげくに、箱を分解して、モニタを裸で乗せることでなんとかアパートの前まで運んできた。ところがそこから2階にある自分の部屋に引きずり込むまでの苦闘は筆舌に尽くしがたい物だった。私のモニタに関する長期計画「液晶がでるまで待つ」というのはこのときの苦闘が効いているのかもしれない。それからの私は心のどこかで、非常に奥行きのスペースをとり、かつ重いコンピュータのモニタを嫌悪するようになる。

次にはハードディスクを交換することになる。なんのついでだったか忘れたが、いきつけのMacintosh屋に行って何か話していたら「ハードディスクはどうだ?」といわれた。容量は240MBで値段は多分$400前後だったと思う。一年前に交換した135MBのHDも同じ値段だったことを考えれば、これは結構なお買い得、というやつだ。おまけに例のハードディスクの法則に従い、私のQuadraの内蔵HDの残り容量は限りなく少なくなってきていた。

日記を読むと例によって注文してから届くまで、いろいろトラブルがあったらしい。しかし状況を再現できるほど覚えていない。覚えているのは交換の劇的な効果だ。

今までQuadraはCPUが68040に替わったから早くなった、と思っていた。ところがHDとかビデオ回路も馬鹿にしては行けない、ということを思い知った。まるで別のコンピュータに乗り換えたでは、と思うほど速くなったのである。HDのベンチマークととってみると、以前のHDに比べ、3倍の早さがあることが分かった。今まではHD自体の性能がボトルネックだったのだが、今度のハードディスクはSCSIの性能そのものの限界に近付きつつあることがわかった。

私は大きなモニタと、速いハードディスクでご機嫌になった。さて、哀れお役ごめんとなった135MBのHDはどこへ行ったか?これもちゃんと活用されていたのである。何がどうなったかは細かく書かないが、私が帰国した後にある人間の机の上に乗っているMacintoshにこのHDは取り付けられていたのである。

 

こうして私のコンピュータ環境は極めて快適なものになった。そしてちょっと話は前後するが1991年の10月にはさらにそれを快適にするような変化があったのである。それは今から考えれば信じられないほどの快適な環境であった。

米国の電話線というのは何故か4線式である。そのうち電話で使用しているのは2本だけだ。残りの使用しない2本が何故いつも配線されるかはしらないがとにかく4線式なのである。

1991年の10月ごろに案内がまわってきた。曰く「アパートからStanfordのネットワークに接続できるようにするけど、希望者は言ってね」というやつである。

ふーんと思った私は何気なく申し込みをした。しかしこれは実はとんでもないことだったのである。今の言葉で言えば「インターネット234kBPSの専用線でつなぎ放題。月額無料」という話なのだ。

StanfordはMITと全世界で2箇所だけのクラスA のIPが使用できる場所である。そしてStanfordのネットワークに接続できる、というこはそのまま世界中に開かれているインターネットに自分の部屋から常時接続ができる、ということだったのだ。

それから私はますますMacintoshに向かう時間が長くなった。部屋から学内にあるワークステーションにログインして、宿題を片づけたり、友達のMacintoshのハードディスクにデータを転送したり、NewsGroupを猿のように読みふけってみたり、メールをやりとりしたり、、と当時はあまりありがたみも感じずに使っていたのだが、今から考えればとんでもない贅沢な環境であった。これでWWWなどあった日には外に一歩も出ずに1年くらい暮らしてしまったかもしれない。幸か不幸かWWWはこのとき世の中に存在はしていたらしいのだが、普及するまでにはまだ数年が必要だったのである。

 

StanfordでのMacintoshの話のしめくくりとして、本体には直接関係ない話-授業でやったコンサルティングの話を書いておこう。

Stanfordでは私は公式にはOperations ResearchのMasterを取るということになっていた。そしてこれはあまり会社には言っていなかった話なのだが、そのMaster courseは普通の米国人学生が1年で取得するように設計されていたのである。

私は連中に比べて言葉のハンデがある。しかし純粋な数学の能力から言えばかなり平均より上だったのである(これは日本の学校を卒業した人間なら誰でもそうだ)というわけでプラスマイナス相殺して最初の一年であらかたの単位を取り終えてしまい2年目は自分が好きな講義をとることに専念した。曰くComputer Science 関係、曰くEconimics関係、、そのなかにStanfordの学生向けコンピュータ相談窓口に座って単位をもらおう、という講義があったのである。

Stanfordの中はコンピュータとネットワークで満ちている。特に私が卒業するころにこの傾向は強くなったのだが、そのうち取得講座の届け出から、なにから全部オンラインでやるようになっていた。それでなくても通常のレポートもコンピュータでタイプアップして提出することを要求される。従ってコンピュータが使えないということは極めて深刻な事態をもたらすわけだ。

さてそうなれば必ず対策を講じるのがStanfordのうまくできているところである。ある建物の中にConsultation Deskがあり、そこに直接行って質問もできるし、いざとなれば電話で質問もできるというわけである。

しかし、、、ある人は問うかもしれない。そのコンサルテーションを行う人間の人件費はどうするのか?答えはこうだ。学校が学生をやとってコンサルテーションをさせているのである。Stanfordは私が日本で卒業した大学に比べ、学生を雇うということを非常に広範囲に行う。各講義にはTeaching Assistantなる連中がついていて、補講を行ったり、学生の質問に答えたりする。あるいは実験があればその準備をする。特にDoctor Courseにいる人間は金がない奴が多いので、こうした仕事は彼らの貴重な収入源になっている。

そしてコンピュータ関係にくわしい人間は学内のコンピュータシステムの維持をやって金をもらっているわけだ。

さて私がとった講義だが、週に一回講義を聴く。そして週に一定時間以上コンサルテーションデスクに座る。これだけで単位がもらえる、という大変結構なものだった。。。。もし私が米国人であれば。

講義のほうは楽勝だ。ただ座っていればいいのだ。そしてたまには結構おもしろい話も聞ける。問題は実際に無料コンサルタントとして働く時間である。

ここに座って初めて分かったことであるが、実はこのコンサルテーションデスクに座っているのは2種類の人間に大別される。一番前の列で苦情をうけつけるのは、我々のような素人+素人に毛が生えたような連中である。本当に詳しいことに答えられる連中というのは後ろのほうに座っている。おそらく連中はその技量で学校から金をもらっているのだろう。

従って前列に座る我々の仕事というのは、

1)我々でも答えられるような簡単な仕事を片づける。「たとえばMacintoshでどうやってフロッピーにファイルをコピーするの?」とかいうような類の質問である。こういった質問は日本なら私でも猫の手をひねるように片づけられるのだが、ここではそうはいかない。このことは後述する。

2)問題が我々の手に余る場合には後ろを向いて「誰かこの問題わかる人いる?」と叫ぶ。反応がないようだと「すんまへんな。今わかる人間がいませんのや」と言ってにっこり笑う。

の2種類となる。

さてこの説明だけでは前列の人間はえらく楽な立場のような気がする。しかし世の中そう簡単にはいかない。ここは米国であり公用語は英語なのである。

それでも直接デスクにくる人間をさばくことはなんとかできた。問題は電話での問い合わせである。デスクの電話がリンリンとなる。その瞬間ぎょっとして周りをみまわす。誰か電話をとってくれそうな人がいないか、、、と懇願する視線を周りに振りまきながらである。

誰もいないとなれば意を決して電話を取るしかない。この時点で私はStanfordに来ておよそ一年以上経過したところであったが、まだ電話で話すのはとても苦手であったのだ。

しかしそのデスクに座っている人間のなかで一番英語が下手なのは私ではなかった。多分中国人系の女性もそこで働いていて(彼女は学生ではなかったと思う)彼女は私よりも英語が下手だった。ある日彼女が「電話をかわってくれ」というそぶりをみせたので変わって「なんでございましょ?」というと相手はちょっとしたため息とともに「いや。英語がしゃべれるやつに替わってほしかったんだけどね」と言った。

Sorry, I am the only person availableと言ったかどうか覚えていない。とにかく彼が不満を抱いようがいまいがとりあえず質問を片づけてしまったことだけ覚えている。

さてこうした問題はあったものの今から考えればこのコンサルタントは結構楽しい経験だった。電話で「どうやってフロッピにファイルをコピーするか」教えて、うまくいったときの相手の"Cool!"という叫び声は今でも耳に残っている。別に道徳の教科書に書いてあることをここに繰り返すつもりはないが、人の役にたてると何故か人間はご機嫌になるようである。この特性が人間の進化の上でどういう役割を果たしたか定かではないが。

このコンサルタント経験はもう一つの私の疑問に対する答えをもたらすものでもあった。世の中にはコンピュータと言っても実に様々な種類のものがある。MacintoshありIBM-PC系統あり、W/Sあり、それにともないその上で稼働するOSも実にいろいろである。

日本にいたときは「きっと世の中には全てのコンピュータに精通している人がどこかにいるのだろう。Stanfordはコンピュータ関係で世界に名をとどろかせているところだから、きっとそういう人がいるに違いない」と思っていたのである。ところが少なくとも私が見た範囲では、Stanfordにもこういう人はいなかった。具体的にはたまにIBM-PCの質問を持ち込まれたとする。すると私が前を向こうが横を向こうが後ろを向こうが誰も答えてはくれないのである。そういう場合には「ごめんね、今答えられる人がいないんだ」と解答するが、実のところ解答できる人間はいないのではないかと常日頃私は考えていた。

これはその後もいろいろと経験したことであるが、コンピュータ関係の技術を学ぶ早さというのは確かに人によって差がある。覚えの早い人間は、遅い人間よりも対数規模で速度差を付けて早く上達するし、細かいツールなどにも精通することになる。しかし如何に才能に恵まれた人間であっても、一つのシステムに精通するためにはどうしてもある程度の時間を必要とするのだ。またコンピュータの上で利用できるツール、アプリケーションなどは結構早く変化していくから、それに付いていくための修練の時間も必要となる。するとますます複数システムについて深く精通する、ということは難しくなる。

従ってこのときの経験からえた経験則というのは以下の通りである。「全てのコンピュータシステムについて蘊蓄をたれているやつがいれば、そいつは詐欺師だと思って間違いない。」コンピュータ関連技術というのは、特殊用語が多い、興味の有り無しがはっきり分かれることもあり、分かる人には分かるが、分からない人には全く分からないものらしい。従って相手がくわしくないのを良いことにあたかも自分が全てのことに精通しているかのごとく蘊蓄をたれる人間を見つけることは極めて容易である。しかし私が長年の研究の末、「仮に一つのシステムについてであっても、拝聴に値する蘊蓄をたれる人間は極めて少ない」という結論に達した。

 

さてこのStanfordで勉強したことは他にもいろいろあるのだが、このへんにしておこう。いくら私が楽しいと思おうが、得るところがあった、と考えようが必ずくるのが帰国の日である。最後の半年あまり私は留学のしあげとして、自分が考えたデータベース+線形計画法をつかった最適化プログラム+シミュレーションのシステムをSmaltalkの上で構築していた。たまたまStanfordを訪れた私の上司にそれを見せたところ「ふーん。(ここで3秒の沈黙)ところでQuicktime のムービーはないの?」といわれた。社員を二年海外に派遣して1000万円も投資したのだったら、一言くらい言ったら良いと思うのだが、まあ留学なんて物は会社にとってみればそんなものだ。

私は日本で何がまっているか知っていた。日本でのオフィスのコンピュータ状況がどのようなものであるかも薄々聞いて知っていた。だから帰国するに当たって私が幸せであったはずはない。しかしいささか米国生活に疲れていたのも確かである。私が日本を発つ時には「帰るときには奥様と子供と3人で」とさんざん言われたものだが、結局つれていったのはMacintosh-IIcxであり、帰るときはMacintosh Quadra700と一緒に帰ることになった。

 

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注釈

 アバウトの神様:(トピック一覧へ)この神様は日本にはあまりたくさん住んでいない。大抵の場合人をいらだたせることをやってくれる。本文に戻る

 

アメリカでは文句は最大限に言わないと馬鹿を見る:(トピック一覧)日本ではあまり文句をいいすぎると、周りのひんしゅくをかうこともある。私は日本のほうが性に合っている。世の中の「おばさん」達はこういった面からも大変アメリカンスタイルだ。本文に戻る

 

角目4灯のアコード:Stanfordの日本人社会では、米国車にのるのは、よほどの変わり者と思われていた。反対にブランド名が高かったのは本田である。この車は日本人から$3000で購入した。そのあと結構メンテナンスに金もかかったが、2年後に$2000で売却できた。2年間使いまくってたったの$1000である。このときほど本田の神様に感謝の念をささげたことはない。本文に戻る