題名:映画評

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日付:2000/12/23

1800円  | 1080円  | 950円  | 560円  | -1800円  | 題名一覧  |


560円-Part4

ヒューマンネイチャー-Human Nature(2002/12/21)

映画の冒頭3人が語り出す。取り調べを受けている全身に異常に濃い毛がはえる女性。委員会らしきところで証言している自分を類人猿と信じた父親に育てられた男性。それになぜか死んでしまったらしい、異様にテーブルマナーにうるさい研究者(?)何が起こったのだろうと思って画面を見つめる集中力は20分も持たなかった。

特に男性の目からみて身につまされ、笑えるシーンはいくつかある。電気ショックを3回与えられ、壁に突進しなくなった元類人猿の男性は、何度電気ショックを受けてもセクシーな女性の写真に突進する。うんうん。男ってそれぐら馬鹿なものだよねえ。あとは本能のままの行動に走った後妙に気取った英語でお詫びの言葉を述べるところとか。あるいは米国人のフランスに対するコンプレックスが描かれているところとか。

しかし後半テンポはだらけ、しかも「思いつきで作っただろう」というような展開になる。あるいはおもしろい映画に成りうる設定だったのかもしれないし、予告編を観て「ひょっとすると」と思ったのだが、残念ながらはずれだったようだ。


アバウト・ア・ボーイ -ABOUT A BOY(2002/10/6)

男性版「ブリジット・ジョーンズの日記」というから大して期待もせずに見に行った。

情けない男がはまり役のヒューグラント主演だが、今ひとつ「情けない男」という雰囲気が伝わってこない。いや、彼の役柄は十分情けないはずなのに。親の作品の印税のおかげで38になっても仕事もせずに毎日ぶらぶらして、嘘をついてまで女とつきあうことばかり考える男を演じているのだ。何故か、と考えると、映画全般に渡り全てのシチュエーション、人物の気持ちがぺらぺらと台詞で説明されているからではないか、ということに思い当たる。

主人公は学校でいじめれている男の子と関わり合いになる。この男の子は冒頭セリフで

「演技は苦手だ」

とか何とか言うが、不幸にしてこの映画をみる限りその通りだ。最初から最後まで同じ表情で同じように台詞をしゃべるだけ。そこからは何の感情も伝わってこない。他には自己中心的な少年の母親にヒューグラントの恋人役がでてくるが「ただでてきた」というだけの存在。

かくして

Notting Hillで”以前はハンサムだったけど崩れ始めてるし”と言われてたけど、確かにヒューグラント老けたなあ」

とかそんなことを考えながら映画の終わりを待つことになる。

しかしこう考えることもできる。ヒューグラントの役柄は一年前の私にはかなり重なる。(私は定職を持っていたが)とすれば、この映画が今ひとつ感情に響かないものだったのは幸いだったか。


サイン-SIGNS (2002/9/22)

「シックス・センス」、「アンブレイカブル」の監督最新作。やはりというかなんというか一作毎に切れ味が低下し、ついにはつぎはぎだらけの神頼みであるか、というのが見終わった直後の感想。

米国で結構あたったこと、ただのSFではないということ、それに妙に日本での評判が良くないことは知っていた。さてどんな映画か。

カメラはトウモロコシ畑の中の一軒家をほとんど離れない。ミステリーサークルが現れ、円盤が現れ、ほれほれ、というのは全てTVで語られる。ひょっとすると全てはその家のケーブルTVだけに流した嘘で最後に「どっきりカメラ」のヘルメットをかぶったおじさんが出てくるのだろうか、などと考える。

妻の事故死により牧師を辞めた男は最後のシーンで再び牧師になる。彼にそれを決意させた最後のオチ(私が考えたようなくだらないものではない)を最初に決め、それに合うように残りの部分を作ったような印象を受ける。しかし結末を知って振り返れば、をを全てが一本の糸で、とはいかない。話の都合上、宇宙人はバットと水で撃退できることにされてしまっているし。では家族の描かれ方はといえば全編単色で描かれ続け緊迫感というより飽きをおこさせる。

かくしてまじめに受け止めるよりは、「あいつらにわか雨で全滅だ」とか「草野球のチームと対戦して惨敗したらしい」とか酒の肴にするのが適当な映画ができてしまった。ちなみに私は「世の中には偶然など無く、全てはお互いに関連している。そしてその背後には”意志”があるのだ」と信じることができる人は、自分に都合のよい”現実”だけを観ることができる人だと思っている。しかし時としてそれをせざるを得ないのが世の中というものかもしれないが。

余談だが米国映画で描かれる家族には妙に理屈っぽい病気持ちの子供がよく出てくる気がするのは私だけだろうか。


 オースティン・パワーズ ゴールドメンバー-AUSTIN POWERS IN GOLDMEMBER (2002/9/7)

オースティン・パワーズである。お馬鹿映画である。馬鹿さ加減全開である、と書きたいところだが今ひとつ乗り切れていないように感じたのは映画に原因があるのか私の方に原因があるのか。

冒頭いきなり有名映画俳優がぞろぞろでてくる。最後にも同じ登場シーンがあり、確かに面白い。嗚呼、やっぱりトム・クルーズはどんな格好をしてもトム・クルーズだ。しかしそれがなんとなく他の有名俳優に頼っているかのように見えるのは、やはり映画全体から理屈も何も抜かしたようなパワーが感じられないせいだろうか。途中スモウレスラーがぼろぼろでてきたところとか、怪しげな日本の会社に忍び込んだところは笑えたが前作でも出てきたFat Bastardの太り具合にも張りが無いなあと思ってしまったのも確かである。

かくして映画は割と平和に結末を迎える。もう一作作るかな。どうかな。米国在住でないとわからないギャグは前作以上に多かったと思う。それも今ひとつと思った原因かな。


恋は嵐のように-Forces of Nature(2002/8/16)

だいぶ前に公開された映画だと思う。米国のTVで流れていたCMが結構気に入ったので観たい観たいと思っていた。しかしその割にはいい評判を聞かない。というか全く評判を聞かない。これはいかなることか。

今回100円で借りてきたヴィデオで観てきて、その理由が分かった気がした。Sandra Bullockが全く魅力的に(少なくとも私の目には)描かれていないのだ。彼女は最初ものすごいメークで登場するのだが、そのメークは彼女が本来もっている魅力も塗りつぶしてしまったかのようだ。

結婚式に向かう男がなんやかやのトラブルに巻き込まれる。それに偶然から同行するハメになった女性という設定なのだが、観ていてもなぜその男(ベン・アフレック)が彼女に惹かれるのかさっぱりわからない。彼と彼を待っている婚約者、それぞれが結婚前の心の動揺を見せるのだが、これも薄っぺらい描き方。結果として印象に残るところがほとんどない映画になってしまった。映像というか撮り方は妙に凝っている気がするのだが。

こういう映画を使って見事な予告編(この場合はCM)を作り上げる才能というのは確かに存在するのだろうが、それだけに金を払う訳にはいかない。まあ元手が100円だからあまり腹も立たないのだが。


タイムマシン-The Time Machine(2002/7/28)

予告編の映像はなかなか面白かったしH・G・ウェルズ原作ということでほれほれと見に行ったのだが。

冒頭主人公が登場。黒板に数式を書きまくり袖で消し、約束の時間を忘れそうになり、機械に近寄って見入らずにはいられない。それらがあまりにも「研究のことしか頭にない男」の型どおりの描き方なのでちょっと不安になる。また主人公がいつも口を半開きにしているのも気になる。

そこから先はCG大好きな人か、架空の世界がとにかく好きな人でないと緊張感を持続するのは難しかろう。あれやこれやと描いてくれるが人間の感情はどこにも感じられない。脚本が”グラディエーター”の人だと聞くと妙に納得してしまう。そして最後はアクション映画お約束の

どっかん一発で悪役全滅。主人公は間一髪セーフ」

でハッピーエンド。

原作は有名と聞くからこんな話ではないと思うのだが。6億年後の地球として描かれた風景を見るとこの映画を制作した人たちの想像力、というもの底が知れる気がする。


マジェスティック-THE MAJESTIC (2002/7/4)

多くの国には消してしまいたい狂気の過去があるのではないかと思う。もっともそれは今から考えて狂気と思えるだけなのだが。日本にとっては軍国主義の時代がそれにあたるかもしれない。米国にとってみればベトナム戦争、それとこの映画で扱われている「赤狩りの時代」もそうなのかもしれない。

共産主義者というレッテルを貼られそうになり、自暴自棄になった男は車に乗ったまま橋から落下する。記憶を失った男が流れ着いたのは第2次大戦であまりに多くの若者が死んだ街だった。そして彼は大戦中死んだはずの男に間違えられる。

小さな田舎町で彼が希望の象徴とされながら暮らすところ、記憶がよみがえるとともに過去の追っ手が現れ公聴会にひっぱりだされるところ。感銘を受けてもいいと思う場面だが正直言って退屈する。テンポがのろいのだろうか。他の映画評を観るとここらへん50年代映画が好きな人には涙物の設定が目白押しらしいのだが、不幸にして私はそれらについて何も知らない。何度も時計を観る。そろそろ最後のはずだが。

現代の魔女狩りとも言うべき公聴会で主人公は合衆国憲法修正第一条-表現の自由-をふりかざし大見得を切る。それだけでは弱いと思ったのか、米国人が無条件に愛するもう一つのキーワード-自由の、アメリカのために命をなげうったHeroも持ち出して反撃だ。かくして話はHappy Endを迎えるのだが、これは「狂気の時代」に今の価値観からみたヒーローを登場させただけではないかと思える。史記の時代にヒューマニストの刺客を登場させた「始皇帝暗殺」、あるいはローマ時代に「奴隷制反対。非民主的皇帝制度反対」を叫ばせたGladiatorのように。

えんえんと続くだるい場面の後にご都合主義のHappy End。これでは感動のしようがない。ただ「赤狩りの時代について少し勉強してみようか」という意欲がわいたのはもうけ物というところか。


愛しのローズマリー -SHALLOW HAL(2002/6/17)

原題は「底の浅いHal」とでも訳そうか。父の遺言がトラウマとなり、女性を外見だけで判断する男-HAL。それがあるきっかけからInner beauty-内面の美しさだけが見えるようになる。

グウィネス・パルトロウがヒロイン。自分に自信がもてないがために言い寄られることを警戒する心、反面それをうれしく思う心がいりまじった演技がすばらしい。この映画での彼女の美しさはその演技からでてくるものだろう。しかし話自体はこれ以上はない、というほど予想通り。であるからして途中からかなり退屈する。

最後のシーンも予想通りなのだが、そこでの「本当のヒロインの姿」をYou are beautifulと観客にも思わせてしまうところがちょっといいなと思う。逆に言うとこの映画にはその「ヒロインの美しさ」以外みるべきところがない。そこにいくら払う価値があるか?あるサイトの映画評では「初めてパルトロウをかわいいと思った」という女性の言葉が書かれていたが、確かにそれくらいの良さはあると思うのだけど,この退屈さはなんなんだ。と思ったら、私が途中で帰った数少ない映画「メリーに首ったけ」と同じ監督、脚本であったか。


光の旅人-K-PAX(2002/4/21)

観る前に券売り場の前を何度か往復する。どうしよう。宣伝文句には「あなたにあえてよかった。たとえK-PAX星人でも」とか書いてある。ああ、きっと宇宙からきた人とかがいろんなことをして、地球人の心の傷をいやし、そして去って行くに違いない。

そして映画でも実際その通りのことが起こる。いつもなら「患者」を分析するはずの医師は逆に彼に半ばからかわれているような、諭されているような。ケビン・スペイシーの異星人としてのしゃべり方はどこかHAL9000のようで、そうした会話にぴったり。そして最後までこの「男」がトラウマを抱えた地球人だったのか、あるいはK-PAX人だったのかは不明のまま。そこらへんななかなか考えてあるなあと思う。

それなのに見終わった後のこの平静な気持ちはなんだろう。彼を担当する医師は(予想通りというべきだが)家庭に少し問題を抱えている。そして(これまた)予想通り「彼」によって「よい方向」に向かうきっかけを与えられるのだが、どうもそこらへんの書き方が浅いように思える。だから

「彼は消えてしまったけど後には少し幸せになった人々が残りました」

ということは頭で理解できても「それがどうした」という気分になる。

結果として観た後まで頭に残るのはケビン・スペイシーの見事な演技だけ。まあそれでもよいとせねばなんのだろうが。

アメリカン・スィートハート-America's Sweethearts(2002/3/11)

今までに何度か書いたことだが、私はJulia Robertsを大変愛してる。しかしその彼女への愛をもってしてもこの映画にこれ以上の価値は認めがたい。

現代と邦題で微妙にsの付き方が異なっているが、意味としては「Americaの恋人達」という感じだろうか。(無理矢理意訳すると「国民的カップル」)映画の冒頭、そう呼ばれる女優と男優のカップルが出演する映画の予告編がいくつか映し出される。そこだけでこの映画の基調が解る気がする。つまり軽いラブコメというやつだ。であれば気楽に観ればよいか。

しかし映画が進んで行くうちに

「お気楽なラブコメであってももう少し人間をちゃんと描いてほしいものだ」

などと考え出す。女優の妹であるところのJulia Robertsと男優ができてしまうのだが、その二人がなぜ結ばれるのか。話の都合上必要なのはわかるけど、ちゃんと観客をだましてくれなくては。映画が終わりに近づくにつれ話はさらにめちゃくちゃになっていく。そして最後のシーンはどうにも落ちが付かない話に無理矢理落ちをつけてみました、という感じである意味この映画にふさわしい。

Julia Robertsはいくつかのシーンで息をのむような美しさを見せる。そしてアカデミー賞の司会でいつも見事な芸を見せるBilly Crystalが出演。なのに結果はこの通り。今は無きCNN.CO.JPの映画評によると

「ハリウッドの業界関係者にしかわからないジョークが多すぎる」

のだそうだが。

 

グリーン・デスティニー-CROUCHING TIGER, HIDDEN DRAGON(2002/3/4)

今日の教訓:頭のおかしい小娘と関わり合いになるのはやめましょう。

アカデミー賞堂々4部門受賞。その割には公開されたことすら知らなかった。私がぼけていただけではなく、日本では公開当時ほとんど話題にならなかったと思う。

全編小娘の後先考えない行動に周りの人間が振り回され続ける。この女優最初は

「かわいい」

と思えたのだが、最後には実に小憎たらしい顔に見えてくるのが不思議だ。DVDで観たので、全編を見終わった後に、メイキングを少し観た。監督が「大衆娯楽小説の世界を作りたかった」とかなんとか言っていたから、ストーリーがどうのこうの言うのはお門違いというものなのだろう。

では格闘シーンはどうか、というとこれがやたらと空を飛ぶのである。ピンチに陥っても壁でもなんでもすいすいだから妙にふわふわして印象に残らない。最後にくだんの小娘は身を投げたようなのだが、なんせそれまで数10mの滝を軽々と飛びおり、滝壺でばちゃばちゃやったりしていた人だから、死んだのか空を飛びたかっただけなのかもわからない。

かくして映画の後半は早送りの連続となってしまった。この映画のどこがアカデミー賞に投票する人間たちに評価されたのか理解に苦しむところ。人間が飛び回るところか、あるいは時々まじる東洋的(と彼らが思うであろう)な意味の分からない台詞か。これがノミネートされるなら、燃えよドラゴンが作品賞をとったっておかしくない。

 

プリティ・プリンセス-the princess diaries(2002/2/10)

映画が後半にさしかかったところで、なにやら光が。私の横の方に座った女性が携帯電話を使ってメールをチェックしているらしい。クレジットが流れると同時に席を立つ。振り返ると後ろに座った女性もメールをチェックしていた。映画館でそんなことをするとは、マナー違反だ、などとは全く考えなかった。私だって携帯をもっていたら同じことをしたと思う。

平凡でさえない女の子がいきなりPrincessに。さまざまな苦労を乗り越え、あれこれドジもふみながら最後はHappy end。こうした大筋は映画の宣伝文句を聞いたときから誰もが思うところだが、これほど起伏も何もなしにそのパターンをなぞられるとあくびしかでない。渋い脇役の従者。いじわるな女達。かっこいいけど薄っぺらな男。そばにいてくれる親友。そしていつも愛してくれる母と祖母。そこでおこるエピソードもありきたりで、おまけに相互に何の脈絡もない。まるでこうしたストーリーの練習作品かパロディのよう。

主人公の女の子はちょっとくずれた感じだがチャーミング、をねらったのだろう。スチール写真はなかなかかわいいが映画の中の彼女は全くいただけない。映画での美しさというのは顔の骨格からではなく演技から生まれる物だと再確認させられる。ただドジを踏んでひっくり返り続ける。ただ目をくりっとかわいい顔をつくる。2種類の演技だけで2時間もたせるのは無理という物。

原題はともかく日本では「プリティ」シリーズ第3段として宣伝がなされている。しかしこの女性と私が愛するジュリア・ロバーツを並べるなど言語道断、まったくけしからんなどと考えながら映画館を後にしたのだが。唯一の救いは王女様&祖母を演じているジュリー・アンドリュースか。

 

アトランティス-ATLANTIS(2002/1/7)

この映画を観た人に感想を聞いたら

「最後のドリカムの歌が印象的だった」

との答え。なんだそれは、と思いさらに聞くと、日本のアニメの影響を異常なまでに受けているとも。

私はその元のアニメを知らないから影響云々についてはわからない。しかし彼その感想には全く同感だ。ひ弱で夢をおいかける主人公が大冒険。最初は窮地に陥り、そこから大活躍をして最後は大団円。

これはこの映画に唯一存在している「理屈」である。あれ、さっきまで変わり者だけどいい人達だと思っていたのに急に悪者になった。それは主人公が困窮するフェーズだからさ。あら、こんどはいきなり改心しちゃった。それは主人公が反撃にでる場面だからさ。

説明も理屈も何もかもすっとばし、とにかくテンポだけはよい。もっと長い物語の総集編を早送りで見せられているよう。見終わった後はすがすがしい気持ちになれる。頭の中には何ものこらないからだ。これだけご都合主義的な設定に満ちた映画でも2時間弱人間を退屈させずにいられる、ということはある意味驚くことかもしれない。しかし結局印象に残ったのは最後のドリカムの歌だったのだが。

 

バニラ・スカイ-VANILLA SKY (2001/12/23)

チケットと一緒に小さな茶封筒を渡された。中を観ると主役3人の白黒写真がはいっている。それだけ。これは何だろう。何かいわくありげのような、そうでないような。

トム・クルーズは何に出演してもトム・クルーズだと言われる。整った2枚目の役ばかりなのがいけないのか。では顔をつぶしてみましょう。仮面をつけてみましょう。でもやはりトム・クルーズでした。夢落ち、未来落ち。落ちをつけても話のいいかげんさはなんともならない。がんばって作ったのだろうけど最後にはトム・クルーズの顔を観るのに飽きてくる。New York, トム・クルーズ、キャメロン・ディアズと3枚そろえば薄っぺらくなるのもいたしかたないか。もう一人の女性はなかなかチャーミング。しかしそれは映画のおもしろさとは何の関係もない。

結局あの写真には何の意味もなく家に帰ってゴミ箱に放り込まれることになった。この映画自体も同じようなものか。

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注釈

世の中には偶然など無く:「アドルフ・ヒトラー」参照のこと。 本文に戻る