題名:映画評

五郎の入り口に戻る

日付:2003/7/21

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下妻物語 (2004/6/20)

映画館に女性一人で行くのはいやだとか、映画によっては男性一人では行き難いとかいう話を聞くことがある。私は基本的にそういうことをほとんど感じない人なのだが(キューティーハニーの時は回りに座った小太りの男性の群れ-私もそうだが-が多少気になったが)この映画だけは多少びびった。観客の7割以上は中学、もしくは高校生とおぼしき女性の集団だったから。彼女たちは映画の途中でも隙があれば

「ねえ、あれってどういうこと?」

とかなんとかコミュニケーションをとろうとする。しかしそんなことは少しも気にならなかった。

茨城の取手からさらに「奥地」にいった下妻。広がる田んぼとその上に浮かぶ白い雲。夏の風景が何度か映し出される。そこに生きるロリータファッションひとすじの深田某。何故か彼女の友達となった原付珍走団の土屋某。彼女たちの姿が静かに語られる。

ストーリーがどうこう言う必要はないだろう。漫画のようなオーバーアクション、設定も存在しているがそれらは決して不快なものではない。過去数ヶ月に観た邦画-CASSHERNキューティーハニー-と比べてこの差はなんだろうか。思うにこの映画ではそれらの「演出」は映画のスパイスとしてだけ取り入れられているからではなかろうか。「演出」は「演出」として制作者が描こうとした「人間」はしっかりと存在している。

その「人間」を演じるのは全く演技力の期待できない深田某。監督は彼女をうまく使って-隠して-物語を進める。ところがクライマックスでは話の都合上彼女に長台詞を喋らせざるを得ない。テンポ良くきた映画もここで破綻か、と思ったところで絶妙のタイミングで「漫画」のカットがはいる。これには感心した。うんうん。牛久の大仏は偉大だよね。

結果として身の丈はるか上方を浮ついているメッセージを「言葉」で繰り返すような映画と異なり、この映画を観た後には田んぼの上に広がる空がやけに大きく、そして演じた二人の女性がとてもいとおしく思えた。ここで「二人」と書いたが個人的には土屋某が大変良かったと思う。モデルの人とのことで演技の経験は少ないのだろうが、川原で泣き崩れるところがとても印象的。エンドロールでは二人の映像が延々と流れるが私は土屋某ばかり観ていた。あと最後の大暴れでも大笑い。

かくして邦画は滅多に観る気にならない私が映画館からの帰り道

「なんだ。やればできるじゃん」

と誰に向かってかしらないがつぶやいていたのは本当のところである。


レディ・キラーズ-Lady killers(2004/6/7)

観ている間に値段がどんどん上がっていた映画である。最初はいわゆる「ドジな泥棒グループのお話」としてスタート。大学教授と称する男(トム・ハンクス)が未亡人の家に下宿する。そこにルネッサンス後期の音楽を奏でると称する男達が集まってくる。彼らは未亡人家の地下からトンネルを掘り金庫破りを企てているのであった。

ばれそうになる嘘、間抜けなドジ、内輪もめ、とまあありそうなことが順繰りに起こる。うーん。悪く無いけど、、と思っているうちに嘘がばれた。さあどうしよう。

ここから話は急に面白くなる(少なくとも私にとっては)。それとともにそれまで過剰とも思えるほど描かれていた黒人音楽、ミシシッピ側下流近くのねっとりとするような空気、ぼかっとした風景。あまりアップにしないで欲しいと思っていた黒人の未亡人の顔つきなどがぴったりとはまってくる。

そして見終わってから考えればばたばたしている登場人物達が実に巧みに演じていたことに気がつくのだ。それはまるで見事な腕前のジャズバンドを聞いているかのよう。(いや、あまりジャズ聞いたことがあるわけじゃないのだけど)映画を観ているよりは芝居を観ているような錯覚に陥ったのは、嬉々として演じているように見えるトム・ハンクスの長台詞のせいだったか。

かくして一時は560円かと思った映画はこうして文章にするとき1080円になるわけだ。この映画を作っている人たちはきっとすごく楽しかったのではないかな。子供っぽい楽しさじゃなくてプロが仕事をする喜びね。


恋愛適齢期-SOMETHING'S GOTTA GIVE (2004/4/4)

完璧に女性のためだけに作られた映画である。しかしその事実を踏まえても十分に面白い。

63でありながら20代の女性としかつきあわない男が、つきあった女は50代の脚本家-ダイアン・キートンの娘だった。浜辺の別荘で鉢合わせした晩、ジャック・ニコルソンが心臓発作を起こす。担ぎ込まれた先での主治医が36才のハンサムな医師、キアヌ君だった。

彼が20代の娘、50代の脚本家、その妹にひとりひとりお茶を渡す場面で女性がそれぞれに必殺スマイルを浮かべるシーンでまず笑う。そしてジャック・ニコルソンとダイアン・キートンが散歩しながら会話する場面は二人の演技それに脚本によって見ている方までその楽しさが伝わってくるようだ。知的で落ち着いた会話ができる、ということは人をAttractiveにみせるものだなあ、と感心したり。60代と50代のベッドインもなかなか結構なもので。老眼鏡かけて血圧測定して健康にも配慮してます。

そしてすったもんだがあった後、この映画の主たるテーマ「女性の為だけの映画」が明らかになる。こうした映画では主人公たる女性に真摯に思いをよせ、どんなにひどい扱いをうけてもめげないのに、Sorryの一言で(あるいはその一言がなくても自発的に)身を引きゴミ箱に放り込まれるいい男が必要だ。メラニーは行くの政治家の息子とか、ブリジット・ジョーンズの日記のヒュー・グラントとかである。ごめんなさい、あなたの事はいい人だと思うけど、やっぱり私この人を愛しているの。そう言われてもストーカーになどなってはいけない。I understandと寂しい笑顔を浮かべて消えるのだ。今回キアヌ君がその役回り。最初のデートはなかなか好調。また合おうね、と約束した次のデートまでの間に相手は別の男を作りデートをすっぽかす。いや、それでも僕は君を愛して居るんだ、と諦めない。一方女性はその間(一応びーびー泣きながら)ニコルソンをこけにしまくった脚本を書き大当たりをとる。(そう、女性はたくましいのだ。泣きながらも実利はちゃんと取る)最後パリの場面では何が起こるか予想がつくだけに(予想がついたから面白くないとかそんなことではないのだが)画面を見ているのがつらかった。私は身勝手で最低な男だからね。

その「身勝手な最低男」が考えたラストはこうだ。ひとりたたずむジャック・ニコルソンは「チャンスの神には前髪しかない」という言葉を一人かみしめるうちに発狂し、Here's Johnny と叫びながら斧を振り回し扉という扉を破壊して廻る。一人戻ったダイアン・キートンはその光景を見て戦慄する。逃げようと振り返ればストーカーと化したキアヌ君がにたっと笑っているのにでくわすのだった。うがーっ。


マスター・アンド・コマンダー -MASTER AND COMMANDER: THE FAR SIDE OF THE WORLD(2004/3/6)

アメリカに居たとき友達の中古車選びにつきあった。いいのがないなあと思い 帰ってくると留守電に中古車ディーラーからの「Special Offerがある」というメッセージが残っている。どんなSpecialな車があるか、と思い翌日また行ってみると代わり映えのない車を見せられた。どこがSpecial Offerだ?と聞いてもわけのわからない事を言われるだけ。米国において中古車セールスマンという職業がどのように見られているか知ったのはそれからだいぶたってのことである。

またある日、誰かがチャイムを鳴らす。どちら様?と聞けば少しためらった後に「●●新聞(我が家が読んでいる新聞)」と答える。おかしいな集金はまだの筈だけど、と思い扉をあければそこにいたのは紛れもない朝日新聞の勧誘員だ。私は只でも朝日新聞はとりません。嘘をついて扉を開けさせるような人間からはなおさらです。

この映画を日本で宣伝する人間は米国における中古車セールスマン、日本における嘘つき新聞勧誘員と同じ種類の人間に違いない。予告編、および宣伝文句を見れば

「戦場に送られた少年達の物語」

と思う。映画に確かに少年達は出てくる物のそれは脇役でしかなく、予告編のナレーションは全て予告編用の創作である。人間を映画館に集めるためならどんな嘘をついてもよい、という神経に感嘆はするがこの宣伝を考えた人間が宣伝する映画を二度と見ないぞ、と思うのも確かである。

と、宣伝に関する文句はこれくらいにして、、

実際の主役は船長とその友達であるところの軍医。そして作品は堂々たる海戦ものだった。子供がどうした、とか、女がどうしたとか、あるいは都合良く現代の価値観を持ち込み

「無意味な戦争をしかけた皇帝ナポレオン打倒!民主主義万歳」

と叫び、戦っていた乗組員が仲良くなり皇帝打倒の戦いに向かったりすることもない。見ているうちに「眼下の敵」を思い出した。

フランスのフリゲート艦を追い、ラッセル・クロウ指揮する船は太平洋にまで至る。生物学者でもある軍医がガラパゴス諸島を見て感嘆するシーンでは彼の感激がこちらに伝わってくるようだ。そして任務と責任を一身に負ったCommanderたる船長の姿。必要以上にべたべたなドラマは存在せず、最後まで緊張感がとぎれることなく観ることができた。

ただどこか印象が軽いのも事実である。「なんだ、予告編と全然違うではないか」と最初の20分くらい考えていたせいではないと思うのだけど。


ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還-The lord of the rings-The Return of the King(2004/2/21)

それぞれがとても長い三部作の三作目。であるからして単独の作品というよりは、物語の完結部分として観るべきなのだろう。

記憶に新しい第2作と比べたとき、単独の作品としては明らかに今回の方が劣る。戦いはなんだかぼんやりしているうちに始まるし、その緊張感、描き方は前回とは比べものにならない。巨大な象もどきがぱおーんと出てくるのだが、それがあまりおもしろさに貢献している気がしない。というか今回悪者側が弱すぎる。一作目であんなに強かったサルマンくんは今回顔も出してもらえません。

最後に物語が始まった場所、ホビット達の故郷シャイアでのエピソードが語られる。それは単独の作品であれば、エンドロールのバックに静止画を何枚か見せておしまいにするかもしれないものだが、それまで-特にフロドの旅路において-無彩色の光景を延々と見せられてきた観客にとってはそのあざやかな緑と退屈ともいえる平和な生活がほっとした雰囲気を与えてくれるだろう。三作目で完全崩壊したMatrixとは全く異なる想像力を駆使した見事な三部作でした。

ぱちぱちぱち、というところで今回一番印象に残ったのは王の戴冠式だ。それまで汚い格好をしていたがかっこよかったアラゴルンはきっちりした格好をするととても情けなく見える。さらに傑作なのがエルフの人を演じるエージェント・スミス(だって二作目まではそういう表情しかしなかったんだもん)がリブ・タイラーを送り出す時見せる「花嫁の父親」の表情。こんな表情ができるとはスミスもやっぱり人の子なのだなあ、、などというのは何重にも間違った感想である。


ニューオリンズ・トライアル-Runaway Jury(2004/2/11)

私は米国の裁判制度が生理的に嫌いだ。Jury Dutyはシットコムで「いかに逃れるか」のネタとして語られるし、双方が自分に有利な裁判の場所、陪審員の選定に血道を上げている、という話を聞くたびうんざりするし、同じような制度を日本に持ち込もうとしている連中にも感情的な反発を覚える。(自分が現実の問題について何も知らない、くらいの自覚はあるのだが)

であるからしてこの映画を観るのはなんとなく気が重い。しかし世間の評判は結構高い。これは観なくちゃなぁ、などと思っているうち映画が始まる。銃の乱射で夫を亡くした女性が銃器メーカーを訴え(とれるところから取っていいのがルールらしい)銃器メーカー側が陪審員コンサルタントを雇い、陪審員候補を爪の先まで調べ上げ。。最初は

「ええい、まったくこの制度は。。日本でも法律家の数を増やし、陪審員制度を取り入れるというのは、、内需拡大でもねらっているのか?裁判が増えそれにつぎ込む金が増えれば、、」

と考えていた。しかし話が進むにつれそうした内なる声は静かになる。ダスティン・ホフマン、ジーン・ハックマン、両名優の演技に釘付けになったからだ。(ジョン・キューザックのとらえどころがない表情、その奥に秘めた感情もいいと思うけど)

特に「悪役」を演じるジーン・ハックマンはすばらしい。不敵に余裕を見せるところ。焦りを感じ始めるところ、そして情けない捨てぜりふ。抽象的な議論がどうであれ、今目の前にある仕事をプロとしてこなす、という姿を徹底して演じる。この役を誰か別の人間がやっていたらこの映画の価値は激減したことだろう。そしてダスティン・ホフマンと直接対決(殴り合う訳じゃないよ)するシーンは期待通りの圧倒的な力を持って展開される。

後から考えてみればどう考えても話がきれいすぎるとは思う-この映画に描かれたようであればとっくの昔に米国の銃器メーカーは吹っ飛んでいるはずなのだ。それに話を緊迫させるためにはあまりにも法廷における被告(銃器メーカー)側が間抜けすぎる。しかしその点を考慮しても十分1080円の価値はあると思う。


ラスト・サムライ-The Last Samurai(2004/1/5)

この映画から受けた事を言葉にするのは難しそうだ。明治初期の日本を参考にしているが、全て架空の設定。横浜港からいっきに宮城に道が通じているような絵はあるわ。勝元だの大村だのいうわかりやすいキャラクターはでるわ。そこら中に高い山があるわ。人によっては「史実と違う」というだけで終わりにするのかもしれない。あるいは「日本万歳映画」と片づけてしまうのかもしれない。

しかし大砲と銃に向かって剣を抜き突撃する姿に今まで日本映画では感じたことのない感情を覚えるのはなぜだろう。父と子の別れに思わず涙するのは何故だろう。滅び行く侍とインディアン(Native American)を重ね、主人公である大尉の物語としてもちゃんと成立させている。何よりも2時間40分の長い映画なのに観ている間一度たりともそのことを意識しなかったのは驚きだ。

命令に反し(何故大村が軍隊に命令しているかはまあ気にしない)撃ち方止めを命令する将校。明治天皇でも昭和天皇でもないが、傀儡として、そして自分の意志を示す天皇の演技も見事だと思う。勝元が現代人もびっくりの異文化を尊重するマナーを身につけているのもよく考えればおかしいのかもしれないが、それでも映画としての価値を損なってはいない。

思うにこれは米国で映画を作っている人たちが日本の文化きちんと踏まえつつ彼らなりの流儀で造り上げた映画のように思える。その結果は見事な物語。

では何故1800円にしないか自分でもよくわからないが、一つだけ言えることは

「口を閉めろ。トム・クルーズ」(よろい姿は格好よかったけどね)

それとDo the best until the destiny is revealed.という台詞は覚えておこう。

最後にもう一つ。日本人にはこういう映画はできないんでしょうかねえ。いつまでも信長やら秀吉やら赤穂浪士やら只の悪ふざけばかり作っていないで。。


チャーリーと14人のキッズ -DADDY DAY CARE(2003/12/30)

いきなり会社をリストラされた男が自宅で保育園を始める。手のつけられない子供達を相手の奮闘有り、ライバルの悪質な妨害有り、そして最後はやはりHappy End。これほど「型どおり」の映画もないと思うのだが妙にご機嫌になったのは確か。

何がよかったのだろう?私が新米の父親である、という事実は60円くらい評価を押し上げていると思うがそれだけではない。大勢の子供を相手にしながらも一番大切な自分の子供が成長していく様。それはおしつけがましくなく、さりげなく描かれる。エディ・マーフィーは最近精彩のない役が多いと思っていたがこの映画では久々にいいなぁと思った。特にトイレがちゃんとできない子供が「失敗しちゃった」と言った後トイレの中を見回す表情は絶品。子供と会話する場面の表情は別の意味で良い。

しかしこの映画で一番笑ったのは、役人とおぼしきおじさんが、子供相手に人形劇をやるところだった。

「55歳で母親と同居なんて変だと思わないかい?」

「いえ、私変わった人が好きなの。」

映画館でのたうち廻っていたのが私だけだったので笑い声はあげなかったが。

聞くところによれば続編の製作も決定しているとのこと。次も是非観よう。今度は字幕版もやってくれるとありがたい。唯一の問題点は吹き替え版でしか観られなかったことだったから。


マイ・ビッグ・ファット・ウェディング- MY BIG FAT GREEK WEDDING (2003/7/26)

96分の短い映画。予告編から想像される「風変わりなギリシャ人家族に受け入れてもらおうと奮闘する二人」の姿がしつこく描かれる訳ではない。障害は確かにあるが、それを乗り越えるのに何か「映画らしい」技を使うわけでもない。振り返ってみれば話はすんなり通り過ぎたように思うし、意味のよくわからないシーンもいくつかあった。それでも見終わった後に妙にご機嫌な気分になるのは何故だろう。

米国では、最初少数の映画館で上映されたものが、口コミで評判が広がり大ヒットになったと聞く。(この映画をベースにしたTVシリーズ"My Big Fat Greek Life" まで作られているようだが)さもありなん、という気がする。確かに大作では無いのだが

「あの映画結構よかったよ。暇なら観たら」

と人に言いたくなる。

30歳のさえないギリシャ系アメリカ人の女性。家族で経営するレストランを手伝うだけではなくて、もっと何かがしたい。行動を起こし始めたところに運命の出会いがある。女性が主人公のこうしたストーリーにありがちだが、ハンサムな男との出会いは都合がよすぎるようにも思えるし、実際彼の存在感は映画を通じて希薄なままだ。

逆に印象に残るのが彼の両親。真面目そうだが全く会話が弾まない「ノリの悪い」夫婦。最初にギリシャ人一族と顔を合わせるときはとまどいを隠せない。しかしその二人が披露宴で「この結婚式はすばらしい」と言い、杯を空けて踊りの輪に加わるところはやっぱりいいなあと思う。少し前にMexicoで出席した結婚式を思い出した。結婚式はやっぱり楽しくなくちゃ。

それともう一つ記憶に残ったのは、ため息をついている主人公に母親が「何故アメリカに来たか」を話して聞かせるところ。loud と louderしかないやかましくにぎやかな家族だが、それはただ脳天気に明るいだけではない。子供達の将来のため身一つでアメリカに来た両親。そして主人公に古い冠のようなものを渡す祖母。

などと並べてみたところで私が感じた「ご機嫌さ」の説明になるわけでもないのだけど。映画らしくないひっかかりがいくつも見えるが、現実の世界とはそのようなものかもしれない。「彼」がハンサムすぎるところを除けば映画らしい都合のよさ、スムーズさを使わず正直に描いたのがよかったのかなあ。


マトリックス リローデッド - Matrix Reloaded(2003/7/20)

Matrixの続編を二つも作る、と聞いたときこう思った。そんなこと言ったってネオは第一作の終わりで十分強くなっちゃったじゃないか。最後には空飛んでたじゃないか。この後2本どうするってんだ。

それから月日は流れ幾星霜。2作目を見終わり3作目の予告編を観た今は「さっさと3作目を公開せんかい」という理不尽な願望に駆られている。この映画を作った人たちは一発限りの色物とも見えた映画を見事に3部作に仕立て上げようとしている。(ただし一発目のノリだけが気に入った人にはこの映画は退屈極まりないだろう)

この第2作の冒頭に「やっぱりネオは強かったのね」というシーンがわらわら出てくる。そのほかにも撮影のためだけに作った高速道路上のシーンとかアクションはてんこ盛りだが、それらは幕間の余興のようにも思え、手に汗にぎったりもしない。どんなにばりばりやってもきっとやられないもんね。一昔前だったら撮影が不可能だったほどのアクションも今やそうとしか観られないのだなあとちょっと思う。

しかしストーリーは面白い。コンピューターにあまり触ったことの無い人は、こんな風に思っているかもしれない。

「コンピューターとは人間に命じられた事だけを忠実に正確に行う機械で、その中には論理だけでくみ上げられ整然とした世界がある」

しかし実際にコンピューターとつきあっている人間はそれが神話にすぎないことを知っている。最初は整然としていた世界も、いつしか訳のわからない動作をするプログラム、何に使っているのかわからないファイルが累積していきだんだん混沌としてくる。そのうち動作がおかしくなる。これがおかしいか、それともこっちか、などとあれこれやっても状況は悪化するばかり。いらいらいら。そしてある日旧約聖書に書かれている神のように

「はい。洪水で全てリセット。全部最初からやり直し」

と言ってみたくもなるわけだ。

この映画を観ている間そんなことを考え続ける。Matrixも元は人間が作ったコンピュータシステムだもんねえ。途中でモーフィアスが妙に神がかって来るが、それも間違いとわかる。そして映画の最後のシーンで気がつく。ネオが無敵になったといってもそれはMatrixの内部-仮想世界においてだけの話なのだ。現実世界はどうしてくれる、という疑問を抱いたところで、十分に想像をかき立てるシーンと共に映画は唐突に終わる。ええい、続きが大変観たいではないか。しかしエージェント・スミスが3作目までちゃんと出てくるとはなあ。あんなに変なプロセスが増殖してしまってはシステムが不安定になるではないか、、ってそういう話になるのかな。

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注釈