映画評

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メリー・ミーー:Marry me(2022/4/24)

今日の一言:嬉しい驚き

世界的に有名な歌姫が普通のさえない数学教師にいきなりプロポーズ

古から洋の東西を問わず繰り返されてきた「スーパースターと普通の人の恋愛物語」いや、もちろん今でも傑作と思う作品はあるのだが、こういう
「あの素敵な芸能人と付き合えたらなあ」
なんてのは中学生までの妄想だと実感する年齢でもある。芸能界という虚飾の裏にあるものをいやというほど見せられ、顔の配置がどうであろうと話が合わない相手とは一緒にいて苦痛だということも実感し、相手を求める衝動も失せてきた疲れた男にこんな話が面白いと思えるわけない。

などというひねくれたスタンスの人にもおすすめできる意外ないい映画だった。そもそもの「ステージの上で世界的な歌姫にいきなりプロポーズされる」ところで普通の人間なら逃げ出す。しかしそこでなぜYesと答えるかがちゃんと映像で描かれる。何もわからないまま臨んだ翌日の記者会見も見事。

つまりこの映画では主役の二人がとーっても頭が良く、しかもほぼ完璧にいい人なのだ。とはいいつつも、ちゃんとそれなりに文脈を踏まえお話は進んでいく。歌姫が小学校のクラスに突如現れるところで、最初に馬鹿な質問をする男子がいるのもリアルでよい。その後の話の展開はもっと見事だが。

ジェニファーロペスという人は名前とハスラーズにでていたことしか知らなかったが、歌、踊り、演技どれも素晴らしい。コンサートのシーンでは身体中に鳥肌が立っているのを感じる。

21世紀も二十年たってからこのテーマを取り上げようと思えば、これだけ考えた脚本を作らなければね、と考え実行した製作陣に敬意を払いたい。欲を言えば、最初の「親父の愛情のウザさ」がちょっとしつこかったのと、あと二人がいい人すぎるところ。「ノッティングヒルの恋人」くらいちょっと欠点がある主人公でもよかったかな。それを言うともう一段ハードルが上がるけど。


THE BATMAN-ザ・バットマンー:The Batman(2022/3/13)

今日の一言:前に進もう

私が観たものだけでも何度目かわからないBatmanのリブート。この映画には超人がでてこない。確かにブルース・ウェインは卓抜した格闘術を持ち、強力な防弾チョッキを着てはいるが普通の人。それは悪役も同じ。

そうしたリアルさがあるゆえに「いつものゴッサムシティの退廃ぶり」も観客の心に迫る。バットマンも何でもかんでも助けるわけにはいかない。そして自分がやっていることに意味があるのかどうかもわからない。それでも戦いを続ける。

選挙戦を戦っている現職の市長が何者かに殺される。次には警察のお偉いさん、検事。犯人-リドラー-はビデオだけを残すが正体がわからない。なぜ犯罪を続けるのか。父が計画していた慈善事業は何故関係するのか。彼を追う過程で、ブルースは自分の父親がどんな人間だったのかを知る。

「罪を犯したことのないものだけが石を投げなさい」と言ったのはイエスのあんちゃん。ブルース・ウェイン、それに観客はこの言葉に直面する。ううむと思っているとリドラーがあっさり捕まる。

「ちょっと待て、これでは映画が終わらないではないか」

と思う。そして実際そこでは終わらない。リドラーは牢屋にいても街を破壊できるのだ。銃を持った一般市民がたくさん彼を助けてくれる。アメリカを模したゴッサムだと確かにあんなことが起こりうる。

彼らと戦い、傷つき、それでも被害者に手を差し伸べ灯りをかかげ一歩ずつ歩むブルース。おそらく自分は罪とは無縁ではないことを知っている。しかし復習の連鎖は悪化していくだけ。人には希望が必要なのだ。悪を倒したヒーローではなく、救助活動を献身的に行うヒーローとしてバットマンが紹介される。その姿は今の世界情勢を見る時とても心に残る。

バットマンというヒーローを扱いながら、人間をちゃんと描き、ジョーカーのように破壊に陥ることなく希望を描いてみせる。この力量には感服した。彼の地にも遠からず希望の火が灯ることを。

などと考えながらエンドロールを眺める。あれ?コリン・ファレルどこに出ていた?さらにエンドロールを見てびっくり!あのペンギンが!



ウエスト・サイド・ストーリー:West Side Story(2022/2/19)

今日の一言:至高の芸という暴力

実は前作は見ていない。しかしダンスシーンは何度も目にした。
その作品をスピルバーグが作るという。どんな作品になるのか。

最初のダンスシーンでのけぞりそうになる。なんだこの踊りは。私は踊りに全く関心がない人間だがこの芸はなんだ。そして歌。特にマリアの歌声には鳥肌が立つ。

取り壊しが始まっている街。そこで白人とプロルトリコの若者が喧嘩をしている。両方ともゴロつきだし、愚かな争いばかりをしている。それはあたかも滝に落ちる寸前の木片の上で争っているカマキリのよう。
しかし
この映画を見ていると思うのだ。我々だってそんなに賢明な判断をしているわけではない。それどころかもっとバカかもしれない。やっていることがこれとどう違うというのか。

兄を殺されたことを知ったマリアはまだベイビー・ドライバーと愛し合う。これを愚かということもできるが、人間所詮馬鹿じゃないか。ただ画面に見いる。歌、踊り、演技、ストーリー。全てが至高の域に達しており、見ている私は鳥肌が止まらない。

スピルバーグはこのトニー役の役者を知っていたが、歌って踊れるとは知らなかったらしい。というか、アメリカの芸能界のこの芸の広さはどういうことか。私が唖然としているうち映画はエンディングを迎える。半ば呆然と映画館を後にする。


コーダ あいのうた:CODA(2022/2/15)

今日の一言:正面からぶんなぐられて泣きました

漁師の一家に生まれた女の子。家族で彼女だけ聾唖者ではない。彼女は歌の才能を先生に見出される。彼女は歌いたい。しかし一家の生活は苦しく、彼女の力が欠かせない。

彼女がボーイフレンドといちゃいちゃしているとき、家族の漁船は危機に陥る。だからといって彼女は一生家族の通訳として過ごさなければならないのか?大学に行って歌を学んではいけないのか?そうした問題に対して、逃げることなく、茶化すことなく、深刻ぶることなく、実に真っ当に正面から描く。

音楽クラスの発表会。ちなみにここにでてくる生徒たちの歌の上手さは日本の芸人の95%が裸足で逃げ出すほどである。彼女とボーイフレンドのデュエットのところで、不意に音が消える。観客は耳が聞こえない父親の立場に置かれる。父親が彼女の歌の素晴らしさを感じる表現はかけねなしに素晴らしい。

多くの名画がそうであるとおり、この映画はさまざまな条件を超え、与えられた環境を受け入れながらなんとか前に進もうとする人間の普遍的な姿を描いている。これだけ正面切って描かれては観客たる私はぐうの音も出ない。ただ最後には涙を流す。お見事


マトリックス レザレクションズ:The Matrix Resurrections(2021/12/19)

今日の一言:想像力

三作で完結したはずのMatrix.機械と人間の間に和平が成立し平和が訪れたはずだった。主役は二人とも死んだはずだった。
映画の冒頭第一作のシーンが再現される。それを新しい登場人物が見ている。これはどういうことか。

NEOがでてくる。いや、この物語ではトーマス・アンダーソンと呼ばれることが多いか。彼は世界的なゲームデザイナー。その上司というかCEOと思しき人物が顔が変わったエージェントスミス。彼が「ワーナーブラザーズから新作の依頼があってね」というころは一瞬「は?」となる。しかしちゃんと話はつながっている。

てんこ盛りのカンフーアクションも健在。しかも見ていて飽きない。新幹線のシーンでは日本人がちゃんとマスクをしているのも笑える。しかしこれ一体どうやって話を決着させるのか。当惑しているとカーアクションも交えきちんと収束に向かっていく。

元の3部作もそうだったが、完璧と思われるシステムの中に「必要」なアノマリティ(異常性)が一つのキーワード。それとともにレボリューションズではいささかおざなりになっていた人間の物語もきちんと描かれる。この映画の主役はどちらかといえばトリニティか。年を重ねた顔が美しく描かれる。文字通りのLeap of faithの場面では(冷静に考えればここで死ぬわけないと知りながら)鳥肌がたった。

全3部作をきちんと踏まえた上で新たな物語を紡ぎ結末を迎える。この力量には素直に驚く。よい体験をさせてもらえました。

#エンドロールの後のシーンは一体なんなんだ?面白いけど。


ミラベルと魔法だらけの家:Encanto(2021/11/27)

今日の一言:ディズニーの完璧主義再び

三つ子を抱え故郷を追われた若夫婦。途中で夫は殺されるが、その時妻に奇跡がプレゼントされる。魔法でコンロンビアの奥地に家を作り、一族は代々ある年になると魔法の力を持つようになった。主人公を除いては。どうしてあたしにだけ魔法がないの?ところがその家自体に危機が迫っていた。

ベイマックス と ズートピアを思い出した。全てのシーンに信じられないほどの工夫が詰まっている。予告編でも使われた主人公の姉が周りに花を咲かせるシーンなど驚くしかない。

主題は「生きているその事自体が奇跡」。自分の子供や自分のことをふと立ち止まって考える時、私も考える普遍的なテーマ。それを見事なミュージカル映画にしてみせる。惜しむらくは英語特有の同じフレーズの繰り返しをうまく日本語の歌詞にできなかったことか。

しかしそれは些細なこと。主人公は決して美人ではない。しかし映画が進むにつれて彼女はAttractiveに感じられるだろう。最後に魔法が復活しなくても話は十分成立していたように思うが、まあそこは問うまい。

そうした些細な点を除けば文句のつけようのない脚本。映像、動きに歌。エンドロールを見ながら唖然とし悔し涙(いや、私は映像製作者じゃないんだけど)が滲むのはベイマックス以来か。


DUNE/デューン 砂の惑星:Dune(2021/10/23)

今日の一言:頭はおいてけぼり。目は釘付け

名前だけは聞いたことがあるDUNEという映画。予告編を見ると題名通り砂だらけだし、あんまりアクションもないし、これどうなんだろう。
アメリカでの評判は良いみたいだけど、日本での評価は今ひとつ。はてどういうものかと観にいった。

砂漠から香料が産出される惑星。皇帝はきまぐれにその惑星を支配する「家」を切り替える。もともと砂漠に住んでいた人たちにはただの迷惑である。主人公は新しくその砂漠の管理を命じられた家の長男。その父親が私が愛するオスカー・アイザック。立派な父親兼家族の長を演じてくれる。

さて、皇帝にとってどの家族であってもあまり強力になるのは好ましくない。というわけで惑星を前に支配していた家とアイザック家を争わせることにより弱体化を図る。突然皇帝の支援を得た旧家が攻めてきて、アイザック家はコテンパンにやられる。頼れるアイザック家の武将がアクアマンにアベンジャーズの敵役サノス。この映画を見ていると「を、この人が」とどこかで見たことがある人ばかりがでてくる。

かくして主人公は母親のレベッカ・ファーガソン(ミッションインポッシブルのお姉さん)と砂漠に逃げ出すことになる。そして砂漠の民ととりあえず仲良くなったところで一作目は終わり。


そうなのだ。映画の冒頭Part1とでていたように、この映画1本では解決しない。おまけによく知らないなんちゃらかんちゃらという単語がたくさんでてきて見ている方は混乱する。最初に書いたように舞台の背景はほとんど砂漠であり、彩にも乏しい。おまけに映画の長さは2時間35分もある。Star Wars的に派手にビームが飛び交うこともなく、剣技は必要最低限。素晴らしく引き締まっているが派手さはない。

なのに

この面白さはどういうことか。ブレードランナー 2049の監督ドゥニ・ヴィルヌーヴはここ数十年のスペースオペラとは全く違う方法で素晴らしい映画に仕立て上げた。砂漠の美しさ、過酷さ、そこで生きる民の息吹き。そうしたものが画面から伝わってくる。え、今の単語何?と頭は混乱し続けながらも、目は画面に釘付けである。

これ作っといて続編作らない手はないでしょう。特に主人公の男優がふけると容貌変わっちゃうかもしれないから、早く作ってくださいよ。



フリー・ガイ:Free Guy(2021/8/28)

今日の一言:爆発する想像力と深く真面目に考えられた脚本

ライアン・レイノルズことガイがゲームの中のモブキャラ。(英語ではNPCだが)彼は毎日同じ行動を繰り返す。銀行に出勤すると必ず銀行強盗がくる。床に伏せ友達とおしゃべりする。
そんな彼の日常はある女性を見かけたところから一変する。あの女性に話しかけたい。そのためにはサングラスが必要?サングラスをかけてみると。

というわけで、ゲームの中と外で人々の物語が進む。そもそも「あの女性」がなぜゲームをしているかといえば、彼女のパートナーと開発したゲームが不当に奪われ、できあがったのがこのゲーム世界なのであった。なんとか奪われた証拠を探さなければ、と奮闘する。その過程でガイと言葉を交わすようになり。

彼女と出会ったことにより独自の行動を始めたガイ。彼の呼びかけによって独自の行動を始めるNPC達。なぜそんな行動を始めるかといえば、ちゃんと説明がついている。「人工知能」の詐欺的主張にはめくじらをたてる私だが、「いやいや映画だから」と流せるくらい、ちゃんと考えられている。プログラマーとしては、タイカ・ワイティ演じる社長が自分で作ったキャラクターのセリフにところどころ「未設定」とか「決め台詞」とかはいっているのがツボにはまる。「現実世界」の私は声をあげて笑う。だからタイカ・ワイティが物理的にサーバーを破壊すると、うまい具合に仮想世界が破壊されていくとことか文句をつけないよ。

このゲームの中のキャラクターは、確かに「外の世界」によって作られたもの。しかしその上で自分たちの道を見つけようと努力する。ガイが親友に「この世界は現実じゃないんだ」という。親友は

「今僕は親友を助けたいと思って話をしている。これがリアルじゃないとすれば何がリアルなんだ?」

と答える。思わずはっとする。考えてみれば、私たちも同じようなものではないか。与えられた条件に制約されているが、実は生き方、一瞬一瞬の行動は自分で選べる。しかしそのことを忘れ同じ日を繰り返し下を向いて自分の境遇に文句を言い刹那的な享楽で誤魔化し時間を浪費する。

この映画を観て考える。そうしなければならない理由はない。NPC達のように「配られたカード」を理解した上で勝負をすることもできるのだ。そう思えばこれはまさに普遍的な人間の物語。

このゲーム内世界と外の世界の物語は交わっている。そもそもガイがなぜ女性に惹かれたかといえば、それは「外の世界」の愛が溢れたものだった。どうやってそれぞれの話をまとめるのかと思えば、ゲームの外と中で「人間」たちはそれぞれの生き方を選択し進んでいく。

エンドロールに流れる大勢の人の名前を眺める。この人たちも、そして私も皆NPCなのだ。そんなことを考えていると自分の目に涙が浮かんでいることに気がつく。

調べてみれば監督はナイトミュージアムの人だったか。ディズニー傘下ならではのネタにも大いに笑わせてもらった。笑って泣いて考えさせられる贅沢な時間を体験できた。お見事。


独立愚連隊(2021/8/7)

今日の一言:こんな戦争映画もあったのか

題名は昔から知っていたが未見。知人に推薦され「まもなく見放題が終了します」の字幕にせかされAmazon Primeで鑑賞。

第2次世界大戦中の中国戦線。そこに曰くありげな新聞記者がやってくる。彼の目的はなんなのか?独立愚連隊というからいわゆる「企画外」の兵隊ばかり集めた変な部隊の物語かと思ったら違った。確かに愚連隊はでてくるのだが、主眼はそこではない。そもそもこの「新聞記者」の目的はなんなのか?

テンポよく話が進み思わず画面に引き込まれる。それとともに「今はこういう映画は作れないんだろうな」とも思う。やれ慰安婦の描き方がどうだとかやれ中国兵の描き方はどうだとか(中国兵の描き方は公開当時も議論があったようだが)何よりも、わたしの記憶にある限り昨今こうした「戦地における普通の人間の物語」はつくられていないように思うのだ(この世界の片隅にを除いて)戦争映画といえば、特攻隊であり、その関係者であり、とにかく「悲惨な物語」で反戦を訴えなければならぬといった枠がはまってしまっている。

この映画に描かれているのはそんな紋切り型の物語ではない。およそ戦争の行方を左右するような戦線でなくても人々は生きている。手榴弾と引き換えに中国人から酒をもらう前線の兵士。閉鎖された環境でしかも定義によって全員が銃を持っている。この環境で「正しさ」とどう付き合えばよいのか。

「不正」を働く側も「こんな軍票、そのうち紙屑になる」と悟っている。主人公の目的が達成されても、命令は生きている。最後には中国、日本兵の死体の山ができるが、それは戦線全体になんの変化も及ぼさない。北支前線異常無し。これほど戦争について人に考えさせるシーンがあるだろうか。

そう考えればこの映画に描かれているのは、理不尽さと向き合いながらひたすら生きている人間の姿でもある。もっとこういう映画が見たいのだ、と思ってもこの映画が作られたのは数十年前か。


クルエラ-Cruella(2021/5/29)

今日の一言:二人のエマ

ディズニーの映画を作ることは制約との戦いと思う。101匹わんちゃんにでてきた悪役クルエラ。アニメではタバコをふかしていたが、今やディズニーでは喫煙はご法度なのだそうな。だからこの映画ではタバコのタの字もでてこない。他にもいろいろディズニー禁止事項はあるだろうが、それを順守した上ですでに確立されているイメージを壊さず現代の観客に受け入れられる作品にしなければならない。

この映画はその難題に正面から取り組み、少なくとも私をノックアウトするほどの見事な世界を作り上げた。謎の人間との対話中に母親は崖から転落死する。一人になった少女エステラはロンドンでなんとか生き延びる。デザイナーとしての才能をひょんなところから有名デザイナーに見染められ...

この有名デザイナーがエマ・トンプソン、主役がエマ・ストーン。二人のエマの演技力と存在感が炸裂する。エマ・トンプソンのお付きのような地味な男がいるがどこかで見たようなと思えばマーク・ストロング。なぜこんな地味な役をと思えば、やはりちゃんと見せ場がくるのであった。

私のような年代の人間には涙がちょちょぎれるような七十年代ロックの名曲にのせて映画はテンポよく進む。二人のエマに関わるある秘密が明かされたとき「それで腑に落ちた」とクルエラのサポート役が言う。観客たる私も「なるほど」と思う。そしてオチの付け方もまさしくディズニーである。この映画では必要最小限の人間しか死なないし、動物も虐待されない。それでちゃんと物語を成立させてしまうのだから、こちらは驚くしかない。

現在デザイナーの頂点にいるエマ・トンプソンとそれを打ち壊すパンクムーブメントを体現したエマ・ストーン。私はおよそファッションデザインとは程遠い世界にすんでいるのだが、クルエラとしてのエマ・ストーンの姿には驚いた。衣装が美しいし目を引く。さらにエマ・ストーンは衣装に負けない存在感を発揮する。クルエラはヴィランなのだが、それでも観客の心を掴むようなキャラクターでなければならない。それを達成した脚本家、監督、エマ・ストーンには感嘆の他ない。確かにヴィランであり、確かに美しい。

ぐうの音も出ないとはこのことであり、私は頭を振りながら映画館を後にする。この映画はおそらくこれから何度か見ることになると思う。

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注釈