[(事実とは異なるが聞こえがいいように編集した)開発の動機]

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たとえばこんな記事があります。

PC に映像130時間分、音楽は311曲──ユーザー平均

‘テレビ番組や映画など、商用の映像コンテンツをPCのHDDに保存しているユーザーは14.6%。平均蓄積量は58.9Gバイトだった。1Mbpsの VHS画質で130時間分(124時間分)に相当する。‘

あるいはこんな記事とか

本田雅一のE3レポー ト
SCEI 久夛良木健社長兼CEOインタビュー
〜Cellが家庭にもたらすパワー

デジタルコンテンツの時代が本格的にやってくれば、ホームネットワークの中はデジタルデータ で 埋め尽くされるようになります。たとえばデジタルカメラの写真などは、撮影数が多すぎて、とてもとても、自分で整理することができません。TV番組も音楽 もそうでしょう。それらコンテンツのディレクトリを管理し、簡単に探し出す仕組みも、イメージ解析などで解決できるかもしれないですね。その上、分析結 果、検索結果を効率よくビジュアライズしてユーザーにプレゼンテーションする部分も、PS3をフロントエンドにすれば3Dグラフィック機能を用いてわかり やすくナビゲートできそうです。

【久夛良木】安心してください。それは私自身が一番欲しいと思っている機能で すか ら、PS3を出したら早速、すぐに開発に取りかかるつもりですよ。動画、静止画、音声など、さまざまな情報を解析する技術は、世の中にあまり知られていな い研究も含め、膨大な数のメソッドがあります。スーパーコンピュータの力があれば、それらを家庭内で応用できるのですから。‘

上記二つの文章は、一つの問題(というか現実)を物語っています。1992年に私はQuadra700に240MBのハードディスクをつけてご機嫌になっていました。(ここらへんに関しては語りはじめると長くなるので「私のMacintosh」参照のこと)それから十数年で個人が扱うハードディスクの容量はおよそ1000倍になりました。そして当時は小さな小さなQuickTimeの画面で感動していたのが、今や高画質の映像データを記録することも可能になったわけです。当時ある雑誌で読んだ格言は未だに真実と見なすことができるでしょう。

世の中には2種類の人間がいる。

パソコンのハードディスクが足りないと思っている人間とパソコンを使わない人間だ。

記憶容量がどのくらい増えようが、パソコンを使う人間は必ずそれが一杯になるまでデータをため込みます。

さて、ここで問題です。その結果人間はどの程度幸せになったでしょう?

小さな小さなQuickTimeの画面をのぞき込み「これがいつかはかっこいい動画になるのだ。そうなったらどんなにすばらしいだろう」と制限されたハードに返って希望を見ていた時代は過ぎ去り、夢のようだったハードを手にしながら

「とにかく保存しておこう」

という貧乏性から来ているのかも知れない強迫観念にとらわれやたらめったら保存はしてみたものの何があるかもわからんし、見る気力もおきない大量のデータに囲まれているのが現実なのではないでしょうか。

私が自分の支出の元に購入したハードディスクをどのように使おうが貴様の知ったことではない、と他人に問われればそう答えるでしょう。まあしかしなんです。そうとんがらずとも、ハードディスクにあまた記録された内容を

「適当に眺める」

ということをしてもいいのではないでしょうか。

ここでのキーワードはこの「適当」です。人間TVに「真面目」向かい合うなんてことは少ないにもかかわらず今のハードディスクレコーダーのインタフェースは「真面目」すぎるのではなかろうか、とつらつら考える訳です。なんだか画面に流れるキーワードやら映像やらをちょいちょい、とやると別の映像が表示される。さっきまでは全然別の事を考えていたとしてもそれを見た瞬間興味はそちらに移る、といった視聴の仕方を考えてもいいのではないでしょうか。




---というのが「聞こえがいいように編集した」開発の動機です。人間の思考というのは前述の通り相当いい加減なものですが、それを人に語る時はあたかも理論整然と考えたが如く編集し直します。

しかし私はそんな言葉を信じない。というわけで本当の思考過程はこれから時系列的に書いていきます。これも所詮「他人に向けて書かれた」文章で有る以上、理論的に造り上げた筋道は避けようがない。しかしこのページに書いた内容よりは「事実」に近い物である、と私は考えています。




しかしながらここでもう一つ書いておきます。

着眼点は解ったけど、世界のSony様が取り組むっていってるんだからいいいんじゃない。今回の申請でも二人のPMに出したけど、そのうちの一人には

「この申請は重要な点を指摘しているが、もっと要素技術に長けたグループがたくさん研究に取り組んでおり、学会等でも発表されているので不採択とする」

と判定されたことでもあるし。

これに対して取り繕った答えを書くことはできます。しかしそれはやめておきましょう。例えばこのプロジェクトが「成功」に終わった後ならば「かくのごとき指摘が頭によぎるが私はひそかに勝算はあると考えていた。なぜなら。。」と書くでしょうし「失敗」に終わった後ならば「今から考えればやはり無謀な企てだったのだ。最初から失敗すべく運命づけられていた」と書くことができるでしょう。

しかしそんなのは全て後付の理屈にすぎません。おそらくその質問に対する真の答は

「頭の中でぼやっとしている解決策を形にして見てみたい」

という願望と

「なんとかなるでしょう」

という根拠のない思いこみです。

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