題名:迷うことについて

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日付:2001/10/6


犬のおまわりさん

作詞者 佐藤義美   作曲者 大中 恩

まいごのまいごの こねこちゃん

あなたのお家(うち)は どこですか

お家をきいても わからない

名まえをきいても わからない

ニャン ニャン ニャン ニャン ニャン ニャン ニャン ニャン

ないてばかりいる こねこちゃん

犬のおまわりさん困ってしまって

ワン ワン ワン ワン ワン ワン ワン ワン

この歌詞を耳にし、あるいは自ら歌うとき、人によって考えることは様々であろう。お巡りさん、すなわち警官でありながら、ワンワンなくばかりの犬を非難する人もいるだろうし、そもそも子猫に名前や家を聞いてどうするのだ、という意見もあろう。またこの歌を英訳したとき「バウ バウ ババウ」はまあいいとしても「ミヤオウ ミヤオウ ミャミャオウ」では字余りではないかと不安に陥る人もいるやもしれぬ。

しかしながらここで我々は「ここでは一体何が起こっているのか。確かな事はなんなのか」について今一度心を虚しくし考え直すべきではないだろうか。いや、何も

「我思う故に我猫柳」とか

"Unfortunately no one can be told what the MATRIX is"

のところまで行く必要はない。その定義も曖昧なまま我々がよりかかって日々を暮らしている常識という奴を使うだけで十分だ。何を持って子猫が迷子になっていると言えるのであろう。単に散歩にでているだけかもしれないではないか。また貴方は犬が「おうちはどこですか」と聞くのを耳にしたことがあるだろうか。「名前をきく」のを耳にしたことがあるだろうか。だいたい犬の鳴き声に人間の言葉を重ねることは仮に首にまく機械を持ってしたところで困難きわまりない[lou:2001]。そうしたあやふやな事柄を除いていけば、確かな事は意外な程少ないことに気がつくだろう。すなわち

1)子猫と犬が存在していること

2)子猫は「にゃん にゃん にゃん」とないていること

3)犬は「ワン ワン ワン」と鳴いていること。

こう思えばこの歌詞は、日常目にする可能性のあるありふれた風景であることが解る。だいたい子猫はニャーニャー言う物だとさる有名な小説に書いてあるし、犬はワンワンと吠えるものだ。ノータリン犬の誉れ高い実家のアイちゃんは基本的に日長寝ているのだが目の前を猫が通ればワンワン吠える。子猫がニャー、犬がわん。それがどうしたというのだ。

この疑問を解くべく、一歩下がってこの歌詞を読み直してみよう。すると上記3項目以外に我々が見過ごしていた事柄があることに気がつく。すなわちこの光景を眺め歌詞を作り上げた人間である。

人はそれに意図があるかどうか定かならぬ物に己の感情の投影を見る。不安な時は風の音、雨音が泣き声、あるいは悲鳴のように聞こえ、楽しい時はそれらを力強く好ましい歌と聞く。同じ空気の振動をどう取るかはその者の聞き方一つ。であればこの歌詞は、それを書いた人間の心持ちを表していると言えはしまいか。その人は何を思って子猫と犬を眺めたのであろう。

それは出口のない不安である。いや、誰が不安に出口があると言ったのだろう。それに取り付かれた者は光景をこう観たのではないか。

子猫は鳴く。その声は自分が行くべき所を見失った不安の叫びに違いない。私の家はどこなのか。私はこれからどうすればいいのか。言葉は通じなくともその思いは通じたのだろう、今度は犬が吠える。なんとかせねばならぬ、子猫を救わねばならぬと思い問いかける言葉に答えは得られない。犬はただ吠え続ける。そのうちのいくつかが子猫に対する問いであり、いくつが絶望の叫びなのか知る由もない。相手が助けを求めている事を知りながらそれに対して何もできないあせり、苦しみ、そして悲しみ。ここには載せていないが歌詞の2番において、犬は他の動物に向かっても問いかける。この子猫の家を知らぬかと。しかし答えは得られず犬はただ吠え続ける。

こう考えれば、長調で愛らしいとさえ思えたメロディまでもがこの絶望的な状況をあざ笑っているかのように聞こえる事だろう。人の世にはなんともならぬ事がいくつもある。それを素直に

「迷い道くーねくねー」

と言うならともかく、一見ほほえましく思える光景を被せ、楽しげなメロディにのせ子供に歌わせる。ここにこの世に対する諦念を観ればよいのか、あるいは乾いた笑いを聞けばよいのか正直言って私にはわからない。しかしそんな考えをよそに子猫の鳴き声、犬の吠え声は響き続ける。にゃんにゃんにゃにゃん、わんわんわわん、と。

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こうした童謡の新解釈というのは、私が知る限り「筆先三寸」の 「森のくまさんの謎」から始まり、半茶にもいくつかあり、赤ずきんちゃん☆オ〜バ〜ドライブでも取り上げられている。いずれも大変な傑作で

「おお、そうであったか」

と膝を叩きたくなる。それらを読めば自分でも書きたくなるのが人の想いと言う物。

しかしそれと「自分で書けるか」というのは全く別の問題である。途中まで書いて私は開き直った。かけないもんね。でも書いちゃったからひっそりと載せておくもんねと。

 

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注釈

lou:2001:森で屁をこく其の166 そして首に巻くのだ」参照。本文に戻る