題名:Java Diary-55章

五郎の入り口に戻る

日付:2004/11/18

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Goromi-Part6(結果とUIST)

9月27日の月曜日。会社につくとまずやるのはメールチェックである。私はたまったメールを新しい物から読んでいく。であるからしてメールが発信されたのとは逆の順番になるわけだ。最初に目についたメールに返答して、その後にそれに関連したメールをみつけ泡を食う、なんてのはいつものことだが。

さて、そうやってメールのリストを見ていくと、こんなタイトルのメールがある。

「9/25 WISSプログラム案」

瞬間血の気が引く。何かわからないがとにかく査読に関して何かが来たのだ。次にはこんなメールがある。

「9/25 WISS2004論文査読結果通知のお知らせ」

あわくって内容を読めば以下のとおり。

「WISS2004に投稿いただいた皆様,

論文投稿いただきありがとうございました.
ただいま,査読結果をメールいたしました.
手違いでほとんど同じ内容のメールが二通届いたかもしれません.
ご容赦ください.」

これだけではなんだかわからんではないか。ええい、と思いながらメールのリストをたどっていけばこんなメールが。

「WISS2004 Review Results」

先ほどのメールにあった通り、同じタイトルのメールが二通有る。急にどきどきして内容を読むのがためらわれる。さっきは勢いで開けてしまったのだけど。

しばらく逡巡するが、そんなんことをしていて何が解決するわけでもない。意を決して中を見れば「おめでとうございます」の文字が。次に「査読通りませんでした。」とあったら書き手の神経を疑うところだがそんなことはなかった。どうやら通ったようだ。ほっとすると共に発表までの間にやらなくてはいけないことが頭をよぎる。実は

「査読が通ったらこれをやろう」

と考えていた内容があったのだが、「まあ、通ると決まったわけでもないし」と知らんぷりをしていたのだ。しかし今やそれは現実の問題となった。

と考えだけは進んだのだが、実際には何をしたわけでもない。これには私がなまけものである、という事実の他にも理由がある。日頃てんぷらのように暮らしているサラリーマンなのだが、この年の10月は(後で気がついたのだが)妙に日程が混み合っていたのである。第一週は京都に行って発表(これはGoromiではなく、表の仕事の内容)次の週は愛知県安城市に行って発表(これは「アイディアコンテスト」応募作品であり、大量のハード製作を要する)そして最後の週はアメリカに行ってUISTでのデモである。まあなんとかならあな、と考えていたし、実際になんとかなっている(これを書いている時点では最後のはわからないが)のだが、やっぱりあれこれと手間がかかる。平たく言えばパソコンを梱包して発送、現地で開けてデモして梱包、帰って開けるだけでも結構な手間になる。おまけにアイディアコンテスト応募作品は大量の半田付け、ねじ止め、テストが必要であり、会社にいる時間も家にいる時間も容赦なく奪っていく。となると先の事を考えている余裕はなくなる。とにかく目の前の仕事を片づけることだけに専念する。

というわけでアイディアコンテストで土日がつぶれた翌週、ようやくUISTの準備に取りかかる。WISS と同じパターンで15inch, 12inchのPowerBookでデモをしようと考えていたが、月曜日にふと考える。どうせならプロジェクタもレンタルし、スクリーンに投影したらどうか。そうすればたくさんの人がちらちら見ることができるはずだ(たくさんの人が見てくれるかどうかは別として)きっとみんなすごい物を持ち込んでくるだろうから、プロジェクタくらい使っても罰は当たるまい。

そう思って調べてみると最近は実に小さいプロジェクタがあることを知る。スクリーンと一緒に借りる手配をし、あれやこれやの機材を詰めこむ。などとやっているうち荷物はとても多くなった。おまけに2台のPowerBookとプロジェクタは取り扱い注意だから背負っていく必要がある。はたしてはいるか、と心配したがなんとか収まってくれた。しかしその重量は偉大である。などと考えている内飛行機に乗ってしまった。

使ったのは親愛なるノースウェスト。昔に比べて機内食のみかけは改善されたが中身は思わず当時に思いを馳せるようなものだ。まあダイエットに良いと思うことにしよう。例のあれこれつまったバックパックを飛行機の中では座席の下にころがしておいたのだが、着陸時に「空中飯盛人」が上方ににある荷物入れにいれようとした。そして途中まで持ち上げたところで彼女は男性を呼びに行った。それくらい重いのだ。

実は家をでてから気がついたのだが、米国に行くのはたぶん4年ぶりだと思う。その間にテロもあり、あれこれ手順が変わっている。入国審査では指紋押捺と写真撮影が行われる。その昔日本は外国人に指紋押捺を要求していてそれがどうとやらだったように記憶しているが、今や米国に入ろうとする外国人は全員だ。乗り換えの時間が大分あるから何かしようとも思うが背中には2台のパワーブック+プロジェクタが乗っている。あまり動く気がしない。乗り換えると目的の空港に着く。その晩だけ泊まるモーテルにつくとようやく「肩の荷を下ろす」ことができた。

翌日Santa Fe行きのバスに乗る。アジア人が私の他に二人乗っているがどこの国の人ともしれない。バスが空港近くを離れると見慣れた砂漠-砂しか無いわけではないが、そうとしか形容できない-の風景になった。Santa Feまで一時間あまり。ぼんやりと外の風景を見ながら過ごす。私はこの風景がとても気に入っているので数時間眺めていても見飽きない。

なんだか緑が多くなってきたなと思ったらSanta Feである。だんだん町の中心部に近づいていくのだが、これまで観たことも無い不思議な造りになっている。通りを人が歩いているのだ。某Detroitとは大違いだ。

その中心と思しき公園のあるあたりで下ろされた。妙に凝った造りのホテルである。重い荷物を引きずりながらフロントに行くと

「まだ部屋準備できてないわよ。荷物あずかる?」

と言われる。大きな荷物はいいとして、パソコン2台にプロジェクタは背中に乗ったままである。

しばらくそこらへんに座り、無線LANなどチェックしていたが、いつまでもそうしていてもしょうがない。ふらふらと外に出た。幸いにして天気はよい。そこら中を人が歩いている。建物は変な壁でできているし、そこら中に並んでいる店はなんだかしゃれた「ギャラリー」ばかりである。なんだこの町は。

中央にある公園のような場所で屋台を見つけお昼ご飯を食べる。その後ホテルに戻りデモの準備でもしようか、、と思う(案内には「日曜日の昼頃にはデモの部屋を開けるよ」とあったのだ)ところがどこがデモの場所だかわからない。Registrationの場所は解るが、まだRegistrationやっているわけもないし。

しょうがないからまた外に出るとあちこち歩き回る。しゃれたギャラリー、Native Americanが作ったと思しき土産物、装飾品、そんなものばかり売っており、なんだか生活の雰囲気が存在しない。ファーストフードはSubwayが一軒あるだけだし、スーパーも小さいのがあるだけ。地図を観て博物館に入る。この町の歴史など書いてあるのだが、背中にずっしりと荷物が載っているからあまり楽しく観るわけにもいかない。

そこを出てふらふらするが何があるわけでもない。一旦ホテルに戻り「部屋の準備できてない?」と聞くが「だめ。3時よ」と言われる。ううむ。さっきはそんなこと言われなかったのに。一旦腰をおちつけ日本語で書かれたSanta Fe案内を取り出し見所を探す。古い教会を二つほど見たところで体力が尽きた。Hotelのロビーに座り込みただ時間が過ぎるのを待つ。

その日はそんな調子で暮れた。翌日はいよいよ本番である。

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注釈