題名:留学気づき事項

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日付:1998/5/15

前書き

1章

2章

3章

4章

5章

6章

7章

最後に

後書き


3.TOEFLについて

さて話は3月にまで遡る。私にとって留学候補となるにあたっての一番の懸案事項は英語力であった。1章に書いたとおり、私は特例の最低ラインからさらに下の英語の点数しかとれなかったのである。ここでなんだか知らない間に留学候補者となっても、もし入れる大学がなかったらどうしよう。いまだかって候補者に選ばれながら入る大学がなかった人は聞いたことがない。(もっとも行ったはいいがあまりにもできが悪くて強制送還されそうになった人はいるらしい。 各大学とも年に一定以上の単位をとらないとビザが切れてしまうのである)そこでなにはともあれ勉強を初めることにした。

幸いなことに、I主任が使ったTOEFL勉強用の参考書類を私はそのままソックリもらっていた。最初の渡米の際にはそれらをスーツケースにつめこんで、モーテルで勉強しようと企てたのである。

渡米中はだいたい5時に帰れるので夜は暇である。(筈である)そこで最初の1週間位は、私は参考書を広げて勉強していた。もっともTOEFLの3部門(リスニング、文法、語彙&長文)のうち、文法と語彙しか勉強していない。長文は読むのが面倒だからである。おまけにこのテキストはExtremeley古いもので、なんとリスニングトレーニング用の教材はソノシート(今の若い人は知らないかも知れない)なのである。

結局渡米中の勉強は2週間目から挫折してしまった。理由は簡単。夕食に必ずビールを飲むようになったからである。私はビールを飲むとすぐに寝てしまうのである。

帰ってきてからは、朝の7時から8時までの間に勉強していた。(思えばこのころの私は前途への希望に燃えた青年であった。なぜこんなに元気だったのだろう。)また行き返りの車の中で、英語のテープを聞くように心掛けた。(ここで素直に「聞いた」と書けないのは、ほとんど聞かなかったからである。どうしたってつかれてるときは英語のテープよりも爆風スランプの歌のほうがいいに決まっている。)テープは比較的聞き取りやすかったカーターとレーガンの大統領選挙の時のディベートである。

さてこの勉強の成果があったかどうだか知らないが、最初のTOEFLの日となった。試験について述べるために、まずその申込方法から述べなくてはならない。

最初の渡米から帰ってきてぽけたんとしていたら、TOEFLの申込書一通と共に、TOEFLの年間スケジュールを送ってきた。そこでそれをしょこしょこ書いて、送付して、7月に受けることにしたのである。TOEFLの申込について注意しなくてはならないことを2点述べる。

まず第一に期日を余裕をもって守ることである。あたりまえだが大抵これでみんなこける。どういうことかと言うと、日々の業務に終われていると、ついつい締め切りの日が近くなる。締め切り近くに申込書を出すと、こけることが多い。締め切り前でも全ての会場が受験者でうまってしまえばそれまでなのである。安全を見れば、締め切りの2週間前くらいまでに出す必要がある。

上記のことと関係するが、決して会社のしかるべき部署(技管や勤労)を通して申込をしようとしてはならない。絶対間に合わないからである。当社の管理部門の手際の込み入って丁寧なことは、一度でも固定資産を買ったことのある人間だったらご承知であろう。特に「前例のない」ことを頼もうと思ったらまず3箇月くらいかかることを覚悟する必要がある。正解は自分で申し込んでおいて、領収書を勤労に持っていけばよろしい。勤労がごちゃごちゃ言うようだったら、「平成2年度の大坪さんのときはこうやってました」と言えばよろしい。

また願書であるが、名駅前の名古屋国際センタの3F(2F?)にしかるべきオフィスがあるので、そこに行って、何部下さいといえばよろしい。名古屋国際センタは名古屋駅から歩いていける。最近は地下鉄の駅もできたので間違えるわけはないと思うがでっかいビルである。ちなみにここではその他留学に関するカウンセリングなどもやってるらしいが、予約が必要なようである。色々やってくれるらしいのだが実際使用してないのでなんとも言えない。

話を本題に戻そう。

TOEFL受験の日となった。受験場所は確か栄のなんたら専門学校だったと思う。会社から直退で車でむかった。受験の際には、受験表に写真をはっておく必要と、また身分証明書が必要である。これが結構くせもので、写真は普通の3分間写真では小さすぎるので、パスポートサイズの写真を使用する必要がある。まあ複写依頼で自分の社員章と同じ写真を焼きまししてもらえば問題なかろう。身分証明だが、受験票に自分のID の番号を記入する欄がある。ここに免許証の番号を書くのなら、自動車免許証を、パスポートの番号書いたらパスポートを持ってく必要がある。ここらへんのチェックは結構厳しいので念を入れたほうがよい。

ちなみに使用する筆記具は「HBの鉛筆」と指定されているが、別にシャープペンを使用しても構わない。(筈だ、少なくとも私は文句を言われなかった)

 

私はこの時受験するまでTOEFLがどんな問題か知らなかった。なんだかTOEICより難しい、特にListeningはとてつもなく早い、と聞いていただけである。いざテストが始まったのだが、最初の受験票の記入にとてつもなく時間を食う。おまけにインストラクションは全部英語である。この時の英語は、結構ゆっくりしゃべるので、聞き取るのは造作もない。ここでのインストラクションも聞き取れずに係員に確認している連中がいたので、私は結構安心した。実のところこの瞬間まで、私はTOEFLを受験しに来た人間の中で一番間抜けではないかとの懸念を持っていたのである。しかし実際は高校生みたいのとか色々いて結構安心した。

実際に試験が始まってみると、まあこんなもんかなという感じであった。手も足もでないほど難しいわけでもなし、鼻歌が出るほど簡単でもなし。一体これで何点とれるのだろう、などと考えながら試験会場を後にした。

しばらーくたってから、(だいたい成績が送付されてくるまでには6週間程度かかるはずだ。)成績が送られてきた。見てみると550点である。(S1 : 56 S2 : 54 S3: 55 Total : 550)この時には大体の大学が最低ラインとして550点を設定していることを知っていたので、少しほっとした。しかし不思議だったのは各部門の得点比率で、どのセクションもほとんど同じ点数であった。要するにリスニングの点が良すぎて、他が悪すぎたのである。この原因は未だに良くわからない。実のところ私が不確定性原理の神様を信じるようになったのもこのころからである。即ちTOEFLによって英語の能力を正確にはかることはできず、必ず測定結果(この場合は得点)にはゆらぎが生じる。ゆらぎの大きさは確率分布により、相当な範囲までの値を取りうる。(陽子だってたくさん集めれば、一つくらい巨大なエネルギを有して自然崩壊するの!)この7月のテストに於て、私がリスニングで56などという点数を取れたのは、ひとえにこの不確定性原理が正の側に働いたためとしか考えられないのである。(簡単な言葉で言えば「まぐれ」である)

それから私は再び渡米した。そしてその間も結構真面目に勉強したのである。ただし前の試験を受けて気がついたことがあった。私が使っていた参考書は、えらく古いもので、全然最近の出題傾向とマッチしていないということである。特に語彙に関しては外れもいいところで、問題集に乗っているような見たことも聞いたこともないような単語は、一切出題されないのである。従って、このときは、ほとんど文法しか勉強しなかった。あとニュース等を聞くようにこころがけたが、例によってニュースよりはMTVやらVH1 の方についついチャンネルを回してしまうのはいたしかたないところであろう。

さて米国から帰ってみると私の状況は一変した。帰った翌日に課長に呼ばれて、「君がもとやってた仕事がピンチだ。従って明日から今の仕事は一切やっちゃだめ」といわれた。(もっとも「もといた仕事」で何をやるか決まったのはさらに一週間後である。要するに人手がたりないからなんだか細かい事は知らないけれどあっちに行きなさいということである )私はこの瞬間、留学に分散処理技術のC3Iへの適応などという脳天気なテーマを考えていた自分の愚かしさを思い知ることとなった。当社はメーカーであり、実際に製作されている物の前には、将来を見越した研究などは毛ほどの重みもないのである。明日の研究より今日の不具合なのだ。

おまけに先端技術が防衛装備品に応用された例なんか無い、という冷厳な事実にも気がつくことになった。結局先端技術はアメリカの装備品に応用された後に我が国に導入すればいいのだ。

そのことにも気づかず、留学して勉強すれば、将来プラスになるだろうなどと考えていた私は全く愚かであった。

 

 

などというたわ事はどうでもよい。ともかくこの時以来というもの、私の体調はひどくなったままである。(私は正直言って、見積仕様書と契約仕様書と価格ネゴと承認図ととビデオと納入書類と不具合と改善要望が嫌いだ。しかし当課の仕事の本分はここにある)従ってもう朝に勉強しようなどという気力は全くうせてしまった。

それにもかかわらず10月のTOEFLは、まだ比較的良好な健康状態で受験することができた。この時一番驚いたのは、Test Of Written English (TWE)があったことである。いきなりマークシートではない解答用紙など渡されるから、何かと思った。TOEFLの前のこのテストで、結構力を使い果たしてしまったことは確かである。しかしこの時は、テスト終了時に、非常に善くできた筈だ、という感触を持っていた。リスニングも前の時よりも明らかによく聞き取れたし、他の部門も結構余裕をもってうけることができた、などと考えていた。

この時のTOEFLスコアの発送は遅れた。一説にはTWEがある時には、採点に時間がかかるので、遅れるという話もある。結局スコアが来たのは、12月だったように記憶している。私はこの10月のスコアに絶大な期待を抱いていた。できが良かったという自信があったことも確かだが、それ以上に11月のTOEFLのできが悲惨であることが見えていたからである。

11月のTOEFLは、14日の土曜日に行なわれた。当時私の担当業務であった修理実習用トレーナの最大の難敵、客先である○○への出張は16日の月曜日であった。(一言付け加えておくが、○○でやっかいなのは某氏のみである。あとの担当の方は大変建設的な意見を述べていただける方々である。某氏にしたところで、別に間違った事を言っているわけではない、だがどうしてパソコンに40Mbの代りに80Mbのハードディスクを付けるのに、2時間もどなり合いをしなくてはならないのだろう)例によって例のごとく、金曜日に資料の作成及び複写が終わったのは10時半であった。(これでも私がいたグループとしては異例の早さなのである。まったく情けない)そしてなお悪いことに、TOEFLは午前中に行われた。前にも書いたが、私の体調は、8月半ばから「元いた業務」になってからというものの、低下の一途を辿っている。ただでさえ頭がくるくるパーになっているところに、睡眠不足である。この時のTOEFLは悲惨であった。Section1のListening Comprehensionのパートでは、問題の前に例題が読まれる。10月の時は、この例題部分など簡単に聞き取ることができた。ところが11月の時は、この例題すら聞き取ることができなかった。

上記のような理由により、私は11月のスコアがとんでもないものになることを予想していた。

待望の10月のスコアがきたのは、12月の終り近く、もう願書を発送しようかという時であった。そして結果は7月にくらべて向上していたものの、目標であるStanfordの最低ライン575点には達せず560点であった。(S1 : 51 S2: 58 S3: 59 Total : 560)非常に意外だったのは、結構聞き取れたと思っていたSection1:Listening Comprehensionの点が予想外に悪かったことである。まあ実力はこんなもんで、7月ができすぎだったのだろうが。その後の例及びMr.ARの証言からしても、特にSection 1に関しては、本人の手答えというものは、あてにならぬようである。

願書発送前に、たいして期待していなかった11月のスコアが来た。結果は予想通りであった。Section2,3はともかくとして、Section1は50点を切っている。すなわち受験したもののなかで、半分よりできが悪いのである。総スコアは原点切れの533(S1 : 49 S2: 53 S3: 58 Total : 533)である。

この後にもTOEFLは1月に受験することとした。まあ勢いで申し込んでしまったとしかいいようがない。この時は結構体調はよかった。なんといっても正月休みがきいたのである。しかしスコアは原点復帰したのみであった。つまり550点である。(S1 : 53 S2: 55 S3: 57 Total : 550)まあ8月以来全く勉強していなかったし、英語からも遠ざかっていたので、こんなもんであろう。

 結局私のTOEFL最高点は、2回目の560点であった。

 

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注釈

強制送還:ごり押しで留学に行った社の幹部の息子だそうである。本文に戻る

 

前例のない:官僚組織のなかでは「前例」は何よりも強いからである。理由は?彼らは結果がどうなろうと責任を「前例」を作った人間におしつけられるからだ。本文に戻る

 

不確定性原理の神様:トピック一覧へ) 「神はさいころ遊びをしない」と言って、不確定原理に反対したのはアインシュタインだ。となれば彼も偶然性の裏に神がいる可能性がいることを認めていたことになる、というのは口からでまかせだから気にしないように。本文に戻る

 

なんだか細かい事は知らないけれどあっちに行きなさい:こういった「急な配置転換」(トピック一覧)は私の会社生活に付き物であった。本文に戻る

 

半分よりできが悪い: TOEFLの点数というのは偏差値であらわされる。平均が50である。本文に戻る