題名:失敗の本質の一部

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日付:2004/9/12


リスク管理-今日の問題

ここで一冊の本から引用する。

第4章P35「この業界では「やればできる」思考が蔓延している。そのせいで、「できない」ことを示すような分析は叩かれる。明確なリスク管理の基盤がない状態でリスクを発表すると(特にそれが上層部が示した楽観的希望に水をさすリスクだと)発表した人が困った立場に立たされる。負け犬、やる気が無い、敗北主義者といった烙印を押されるかもしれない。

ここで言う「この業界」とは旧帝国陸軍ではない。しかし「リスク」という言葉がでていることを除けばこの記述が帝国陸軍の記述としてぴったりであることは私には驚きだった。

この一節が書かれている本は「Waltzing with Bears 熊とワルツを トム・デマルコ/ティモシー・リスター 伊豆原弓訳 日経BP社」であり日本語訳は2003年に出版されている。すなわちかの帝国陸軍に蔓延していた思考方法は「日本独自」と誇ったり「国辱」と恥じたりするほど特異かつ唯一のものではなかったのである。そした思考方法が恐ろしい結果を招いたこともかつての日本に限定されるものではない。

第14章P135「1986年1月29日の朝、スペースシャトル・チャレンジャー号が爆発し、人名と財産と国会の威信が失われるというショッキングな事件が起きた。(中略)システムの部品が気温の影響を受けやすく、氷点下では仕様どおりの性能を期待できないことを知っている人は大勢いた。なぜそれを言わなかったのか。
その理由はそこらじゅうの会社でも誰もリスクを口に出さない理由と同じである。次のような不文律が企業文化に組み込まれているのだ。
1.マイナス思考をするな。
2.解決策が見つからない問題を持ち出すな
3.問題だと証明できないことを問題だというな。
4.水をさすな。
5.すぐに自分で解決を引き受けるつもりのない問題を口に出すな。

ここで再びノモンハンから引用する。

「たとえあの数字が正しくても日本は中国との戦争で身動きがとれず、とても東京が弱体な関東軍を増強できるような情勢ではありませんでした。あの推定の数字は対策を講じるにはあまりにも大きすぎました。厳しい現実に目をつぶって、そのことは口にするな。そうすれば問題はどこかに消え失せるだろう。それが我々の態度でした。どうせ何もできないのなら、情報を”もてあそんだ”ところで仕方ないじゃありませんか。」(ノモンハン二巻P365)

これは関東軍情報参謀が、ハルビン特務機関がつかんだ”正しい”8月攻勢におけるソ連軍の兵力に関する情報に接した時の態度について述べた部分である。解決策が見つからない問題は持ち出すな。見て見ぬふりをしていればそれはどこかに消えるだろう。

こうしたメンタリティを表現するのにぴったりした言葉はないだろうか?この本を読んだ後で「幼稚」がいいのではないかと考え出した。

「はじめに、リスク管理そのものを定義する。見出しにも書いたとおり、それはおとなのプロジェクト管理である。
ふざけているわけではない。(いや、すこしはふざけているが、真実でもある)。おとなの決定的ともいえる特徴は、些細なことから大異変まで、人生の不愉快な出来事に立ち向かう意思があることだ。ちいさな子供は、核戦争、環境破壊、誘拐、無常な搾取、不正の蔓延などについて考えなくてもよいことになっている。しかし、その子供の親であるおとなは、こうしたことに留意し、少なくとも、子供が当面それらを無視していても悲劇が起きないように注意する必要がある。不愉快な現実に直面する必要があるのだ。それがおとなになるということだ。」(熊とワルツを 第2章P15)


日経コンピューター2004/3/8号P71 トム・デマルコ インタビュー

これらの企業は、大人が本来持つべき、ある基本的な特徴を備えていません。「「悪いことは往々にして起こる」ことを理解している」というのがそれです。私達はこの前提を踏まえた上で、万一に備える必要があるわけです。(中略) ところが、まだ子供の状態にある企業は、悪いことが起こるという現実から目をそらしがちです。「ポジティブな態度で臨めば、いずれ何とかなる」と考えるほうで、自分達を正当化しようとする。しかしたとえばエイズのような問題は、そのようなポジティブ主義が常に何かを達成できるとは限らないのです。

思えばウルトラマンや仮面ライダーの幸福な幻想にいつまでも浸っていられるのは幼少期の特権だったか。いや、もちろん年をとっても幸福な幻想に浸ることはあるのだけど、それはすぐにかき消えてしまい、味気ない現実が迫ってくる。

などと個人的な幻想に浸るのはやめにして、幼稚さ、子供っぽさの対極にあるべき「大人とは」「成熟した考え方とは」について引用してみる。

スーパーエンジニアへの道
第15章;P163
成熟した人とは、成年に達していて、自分自身と他人と自分がいま置かれている環境に関する正確な認識に基づいて選択と決断をすることができ、それらの選択は決断が自分がしたことだということを承認することができ、それらがもたらす結果についての責任を受け入れることができる人のことである。
バージニア・サティ 「人作り」

P166-167
バージニアサティは人が「世界を比較的有能かつ正確に扱っていくこと」を助ける行動のリストを作った。彼女はそういう人物は次のようだ、といっている。
a.他人を扱う際に明確である
b.自分の思考と感情に気づいている。
c.外界にあるものが見え、また聞こえる。
d.他の人々に対して、自分とは別の、独特な存在として対する。
e.違いがあったとき、それを脅威とか衝突のきざしとか見ないで、学び、調べる機会であると考える。
f.人や状況を扱うときは、それぞれの文脈の中で、それがどうあってほしいかとか、どうあるはずであるとかでなく、むしろどうあるかに目を留めて扱う。
g.自分が感じ、考え、聞き、見ることに責任を持ち、それを否定したり他人のせいにしたりしない。
h.与え、受け取り、相手のいう意味を確かめるための、開放的な技術を持っている。

この中にあるいくつかの項目は幸福な幻想に浸る-帝国陸軍に観られたもの-といった態度-帝国陸軍に観られたもの-と対極に位置している。

こう考えてくると帝国陸軍を「組織全体としてきわめて幼稚であった」と言うことができるように思えてくる。しかしそうラベルを貼ったところで何が解決するわけではない。こうした幼稚な組織は現在もそこかしこに存在しているのだ。

会社勤めをしたことがある人ならここまでに挙げた日本軍の思考方法を何度か身をもって体験したことがあるのではなかろうか。幸か不幸か私は何度か経験している。そしてそのたびこう自分に言い聞かせる。

「この幸福な幻想に基づいた愚かな行為によって人が死ぬことが有るだろうか?どうしようもなく不幸になることがあるだろうか?そうでなければ忘れることだ。なぜなら私には何もできないから」

こう言い聞かせることによって自分の心のにふたをすることができたのはあるいは幸運に恵まれた為、ということができるかもしれない。今この文章を書いている時点で三菱自動車が車の欠陥を隠蔽し、それにより事故が起こり人が死亡。そして多くの人が不幸になった、事件が報じられている。報道によれば、欠陥を隠蔽することを決定した会議で経営者はこう言ったとのこと。

「リコールは金がかかる」「スリーダイヤ(三菱のブランド)にも傷が付く」(読売新聞 2004年5月10日)

三菱自動車といえば、かつて私が務めていた企業にきわめて近い企業。彼らの体質というか物の考え方はよく知っている。そしてまかり間違えば私はその一員として働いていたかもしれないのだ。もしそうなっていたら私は耳を心を塞ぐことでしか対処できなかっただろうか?他にできることはないのだろうか?それを考えるたびに私の頭には以下の問いが浮かぶ。

・こうした幸福幻想主義はどのように生まれるのか

・何故幸福幻想主義はこんなに堅牢なのか。

・このような幸福幻想主義がはびこる危険のある集団を事前に識別することは可能か。

・危険を識別することあたわず、あるいは事情により已む終えず幸福幻想主義が支配する世界に巻き込まれてしまった場合、できることはあるのか。

次の章からはこれらについて考えてみたい。まず最後の点について。

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注釈