題名:Clinton-part17

五郎の入り口に戻る

日付:2001/6/7

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2001/7/28-投票前夜

さて、明日は楽しい投票である。ぶらぶらと駅前を通るとなにやらさわがしい。公明党の女性候補が「最後のお願い」をしているのだ。

TVでこうした候補者の演説を見るたび「あんなに人が集まるのだろうか」と不思議に思っていたが、目前にはずいぶんな数の人が集まっている。彼らは一体どこからわいてきたのだ。中には家族でおそろいの鉢巻きをしている人たちもいる。中年の女性が選挙カーの上を見る目つきは私には「宗教的陶酔」としか表現がしようがない。

その集団を通り抜けると私が住んでいる場所の区役所に向かう。不在者投票をするためだ。投票日である明日は基本的には暇なはずなのだがやれ寝坊しただのなんだのしている間に一日が終わる、というのはよくある話し。このClintonでいつも親愛なる政治家に対してあれこれ書いている。しかしここに百万言を書くよりは連中に直接意志を示す機会-投票を逃さない方が効き目があろう。

一人が投票したところで何が変わる?という問いには昨年の米国大統領選で答えがでている。あのような接戦を事前に知っていたとすれば、ブッシュもゴアも喜んでフロリダ州の住民一人一人の靴を嘗めて回ったと思う。もっとも靴を嘗められたからといってその候補者に投票しようという気になるかどうかは謎なのだが。

さて、不在者投票を行う部屋にはひっきりなしに人が出入りしている。なかなかの人気だ。説明をうけ簡単に投票をすると実に心はればれである。外にでれば相変わらず「最後のお願い」が響いている。しかし私はそれを余裕の笑みを浮かべて眺める。こちらはもう「清き一票」を投票しちゃったもんね。せいぜい叫んでください。

1945年の沖縄戦で日本軍は水際防衛方式を捨て、最初から海岸の防御を全くしていなかった。そこに砲弾やら爆弾やら一生懸命打ち込む米軍を見てその作戦を立てた男は心中喝采を叫んだと言う。妙なコマーシャルも政権放送もうるさい連呼も今の私にとっては米軍の艦砲射撃と一緒。明日の晩は開票速報を楽しみに見ることとするか。場合によってはこれがあの扇の見納めになるやもしれん。全く意味の無いことを実に明瞭に実にもったいぶってしゃべる点では掛布と双璧であったと思うのだが。

 

2001/7/14-心の赴くままに

さて、なんのかんのと選挙である。各党首の第一声を聞いているといろいろな想いが頭に浮かぶ。

他人を批判するのと自分でやるのとは全く別の話で、前者のほうが圧倒的に簡単、とは常日頃思っているところ。自分が何をするかと問われれば「護憲」としか答えられない某党首や教義が死んでも未だにその党名を換えようとしない党首の言うことでも現政権に対する批判は的を得ている。すなわち何の具体策もなく、とにかく

「改革」

と唱えれば票が稼げると思っているところだ。ハンセン氏病の控訴取り下げ、これだけは彼にCreditをやってもよかろう。しかし他にやったことと言えばせいぜい組織の長としては全く不適当な人間を大臣に任命したことくらいなのだが。

その首相と外相に寄せられる「国民的人気」を理解しようと思えば、電車の中のつり広告で観た「集団ヒステリー」という言葉しか思い浮かばない。私の知人は

「友達から○○党に投票してくれと電話があったから○○党に投票した」

という程度に政治に感心を持っている人間である。その知人も小泉のメールマガジンに申し込んだのだそうだ。自分が理解できないものをそれだけの理由によって拒絶するのは私の目指すところではない。今はただこの集団ヒステリー状態を心を虚しくしながら見つめることとしよう。

さて、「小泉さんが言っていることは我が党が言ってきたことばかり」とその人気をこすりとろうとする池田党の党首を表現しようと思えば「見苦しい」としか言いようがない。しかし彼らにとってみれば選挙はまさしく死活問題。国民がヒステリー状態にあるのならそれに応じるのが彼らの勝利の方程式というものである。ところでいつまであの保守党とかいう党は存在し続けるのでしょうか。

その彼らが選んだ比例代表区立候補者の名前を見ると、これで票がつれると思っている政党のさもしさを嘆けばいいのか、これで票を投じると観られている国民の愚鈍さを嘆けばいいのか解らなくなってくる。どちらであろうが私の知人は自分が一番知った名前に投票するのだろうな。

 

そんなことに想いを馳せた後、CNNのサイトなどで日本の西と東に存在している「自分は絶対正しい」国、あるいは自らの神のみを信じ耳目をふさぐ国の言動を観る。するとあらためて日本の「おとなしさ。ものわかりのよさ」を実感する。そりゃリーダーシップを取るような強さは無いかもしれないが、和を持って尊しとなすこの国は、「みんなで決めたこと」を一方的に自分の都合だけで破棄しようとしたりはしない。問題児であるよりは、多少頼りなくてもおとなしくあることが貴重と思われる局面もあろう。

ただ同じこの国が68年前には国際連盟で満場の意見に反対し、一人退場したのは歴史的な事実である。人の性質が生涯変わることがないように、国民の性質もそう簡単に変わるとは思えぬ。この国の今の「物わかりのよさ」と当時の「思い上り無知にして独善的な態度」をどのように結びつければよいのか、自分の中で考えあぐねている、というのも本当のところなのだが。唯一頭に浮かぶのは映画「戦場のメリークリスマス」での

「一人では何もできず、集団で発狂した」

という言葉。あるいは自らの考えを持ち得ない人間は、集まっても何ら考えを持ち得ないか、又は崇拝の対象に判断を全面的にゆだねるかどちらかの状態に落ち着く、ということなのだろうか。そう考えると小泉であるとか田中の演説風景というのはなんとも不気味に見えてくる。しゃべっている方ではなく、それに聞き入る人たちの姿がだが。

その国に於ける芸能の基本は「素人、幼稚、内輪受け」とは以前から考えるところ。早稲田大学の学生であるところのかの女優を観ると、特に女優に関して言えば常識を逸脱した行動をとることが人気を得る条件のようだ。自らの心の赴くまま、周囲の事は一切気に掛けぬ行動をする大臣が支持を集める国だから宜なるかななのだが、かといって

「私の売りは言動が支離滅裂なことです!」

とはきはき答えるだけで女優になれるとは思えないのだが。

 

2001/6/19-今時の大本営

私も時々使う表現に大本営発表というのがある。早い話嘘の代名詞だ。たとえば昭和19年10月10日から14日に渡って戦われた「台湾沖航空戦」の戦果を大本営海軍部は以下のように発表した

「撃沈-空母11、戦艦2,その他4,撃破-空母8,戦艦2,その他18」

対するに実際の戦果は以下のようであった

「損傷-空母1、巡洋3,駆逐2」

現実離れした架空の大戦果の発表は当時常習となっていたと聞く。嘘を一つつくと100も嘘をつかなくてはいけない、とは私の母の言葉だが、当時の大本営はどのような気持ちでこうした根拠の無い、自分達の耳に快く響く言葉を並べ続けたのだろう、と考えることもある。こうした架空の大戦果発表は味方すらだましてしまい、作戦上ディメリットとなることはあっても、何の足しにもならなかったのだが。

こうした態度をなんやかやの形容詞とともに非難するのは簡単だが、そう簡単に済ませられるものではないという気がする。すなわち今日にもこの精神は脈々として受け継がれているのではないかと思うからだ。

先日何とかカップとかいうサッカーの決勝で日本とフランスが対戦した。正直に言えば私にはサッカーの巧拙など全く解らない。しかし日本とフランスが対戦したときだけはいつも

「これは勝負にならない」

ということはわかる。フランスがボールを持つ。すると球はまるで無人の荒野を行くように前に進む。日本がボールを持つ。球とじゃれている間に周りはフランスの選手ばかりになる。

結果からみれば1−0でフランスの勝ち。TVで解説している二人は半ばため息と共にフランスの強さ、日本の至らなさを解説していた。しかしアナウンサーだけは

「最小得点差です」

とはしゃいだ声で繰り返し繰り返し日本の健闘をたたえる。

翌日私は電車の中で他人が読んでいるスポーツ新聞の一面の見出しだけを眺めていた。すると面白いことに

「日本惜敗」

という文字と

「日本完敗」

という文字が同時に存在していることに気がつく。得点だけ観れば確かに1−0.しかしその内容はどうだろうか。サッカーを何一つ知らない私にも「これは20−0でもおかしくない」と思える試合を「惜敗」と表現できる人間はおそらく大本営報道部の血を引いているに違いない。

そう考えていくと、日本のスポーツ中継-特に日本と他の国が対戦するときはそうだが-ではこうした「大本営発表」が一般的であることに気がつく。サンドバックになっているボクサー、全く歯が立たないバレーボール、そこでうるさく発せられる言葉は「撃沈11隻」と変わるところはない。何、スポーツ中継なんだから楽しければいいではないか。小難しい理屈を並べるよりは、勇ましい軍艦マーチを流し、何もしらない歌手でも呼んで、キャーキャー言わせたほうがいいではないか。

しかしそうして美しい言葉で現実を覆っていては現実が改善されないことだけは確かである。最近海外でその実力をもって活躍している日本人選手のうち特に著名な何人かがそろいもそろってマスコミ嫌いである事には何か意味があるのではなかろうかと考えているのだが。

そんなことを考えながらぼんやりTVを観る。最近「大阪」という言葉を聞くだけで耳をふさぎたくなる。そうして何が改善されるわけでもないのだが、今の弱った私にできることは耳をふさぐことだけである。あまり人の事は言えない。確かに直面することすら困難な現実はこの世に存在している。

その2文字をよけながら国内のニュースを観ると外相がどうのとにぎやなかことだ。朝日新聞のサイトなど読んでいると

「全くけしからん」

と思うのだが、その後CNN.CO.JPなどを読むと

「わけのわからない大臣がいるくらいなんだ。」

という気になる。ABM条約、ミサイル防衛、地球温暖化防止、中東和平,国王一族の射殺。幼稚な外相の行動くらいで騒いでいられる日本は誠に平和な国でありがたいことだ。とはいってもこれはあくまでも相対的な意味でだが。彼の事件は米国のcnn.comでもトップに来るほどの恐ろしいものだったのだ。かの決勝戦でキックオフ時に黙祷を捧げることしかできないとは思いたくなし、そうあってはならない。

 

2001/6/6-変人の歌

さて、親愛なる外務大臣は昨今政治関係の話題を独占している感がある。その報道された発言内容についてオーストラリアの外相にFAXまでうたせて「事実無根」と言っては観るが、誰もそれを本気にとってくれないのが気の毒だ。

官房長官ではないが、盗聴器でもしかけておかなければ本当の事はわからない、というのは本当のところ。しかし首相以外を全て敵に回してしまった大臣には誰からも救いの手はさしのべられない。窮地に陥ると、自分以外の全てのものを非難しはじめるのもまあ誰もがやること。それも生き方の一つではあるが、やはりこういう人間は自ら行動をしなくてはならない責任ある地位につけるべきではないと思う。万年文句屋がふさわしいのではなかろうか。

さて、興味深いのはそうした外務大臣に大して「主婦層」の支持が依然として厚い、ということだ。そのロジックは私の理解を超えてはいるが、それが「国民の意見」であるならば尊重せねばならぬというのが民主主義である。かくして野党以外は「こそこそ」としか外相降ろしを口にできないのもどことなくほほえましいが。

さて、前首相は私が知っている限り歴代で下位を争うに足る品位のない首相だったが、この外務大臣はどうだろうか。私の頭に浮かぶのは第2次大戦前の外相、松岡である。時の首相の意見など意にも介さずドイツに行ってソ連に行って言いたい放題、やりたい放題。当時彼の行動はどのようにとられていたのだろうか。彼に比べれば現外務大臣など可愛い物だ。それでなくてもどこの内閣でも一人くらいは「変わり者」がいるように見えるのは面白い。それは人間を何人か集めれば必ず一人は変人が入る、という統計的事実に基づくものなのか、あるいは意図的にやっているのか、あるいはその時最も変わった人間が表にでるだけなのか。

そう考えると前の内閣で首相と並びその言動が取り上げられた扇とか言うこれまた愉快な大臣が最近全く取り上げられない事に気がつく。はてまた亀井だの野中君だのはどこで何をしているのだろう。

 

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注釈

戦場のメリークリスマス:(参考文献)Mr. Lawrenceのセリフであったか。本文に戻る