題名:Clinton-part13

五郎の入り口に戻る

日付:2000/10/30

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2000/11/17

日本も米国も政治のトップが揺れている。しかしその揺れ方は両国の特質を反映して実に違ったものになっている。

彼の国では予想したこととは言いながら

「訴訟合戦」

になってしまった。連中は銃(もしくはミサイル)をぶっぱなすか、訴訟を起こすかしか交渉というものの仕方を知らないのだろうか。お話し合いというものはできないのか。あの国では勝海舟と西郷のような

「話し合いによる江戸城無血明け渡し」

は絶対にあり得ないのだろうな。武力で江戸を焼け野原にするか、それとも

「江戸幕府は本来の機能を失っており、政権を維持するのは不当である」と訴訟(相手はどこだ)でも起こしてみるか。

あるいは終戦の聖断が降っても

「天皇の言葉は憲法にのっとったものとは言えず不当である」

とかいって訴訟でも起こすのだろうか。(これまた訴える先はどこだ)それがたとえ亡国の危機に瀕している状況であっても。考えてみれば奴らはここしばらく亡国の危機に瀕したことがないか。

 

さて、そうした正面切っての殴り合い、から目をこの国に移してみれば、さすがの森君も進退きわまりつつあるようだ。

「不信任案はしゅくしゅくと否決する」

と主張している人間に是非聞いてみたい。あんたたち本当にあの男が日本の総理として適任だと思っているのか。もしここで

「やはり総理は森に」

と主張している側が勝ったとしよう。すると来年の夏には何が起こるか?あんな人間を総理と力強く押す党に誰が投票すると言うのだろうか。それとも夏までに手のひらをかえしたように

「森ではだめだ」

と言って首を切るつもりなのか。

日本で大統領選挙を行えば、間違いなく有力候補になると言われている田中某という議員がいる。彼女によればこれは

「単なる派閥争い」

とのこと。彼女は確かに歯切れよく物を言うが、正直言えば私は彼女の批判の言葉しか聞いたことがないのだ。建設に回ったとき彼女に何ができるかは、全く私の知るところではない。私にしてみれば派閥争いでも私利私欲でもなんでもかまわない。もうちょっとまともな人間に総理大臣をやってほしいと思うだけだ。

しかしこの国では常に「能力」よりも「問題を起こさない」ことが重視される。どこにいるのかわからない第3の候補などという可能性も取りざたさて居るようだ。

もっとも強き者に

ではなく

「あいつにだけはやらせたくない。こいつならまあいいだろう。」

という人間しかこの国の首班になれないのか。

 

オーストリアでのケーブルカー火災はひどい事故だった(米国では例によって訴訟が起こっているが)下から火が出れば誰だって上に逃げようとする。しかし火は下から上に向かう。助かったのは上ではなく下に逃げた人たちだった。ただ無我夢中だったのかもしれない。しかし生と死を分けたのは最初に踏み出した一歩の方向だったのだろうか。

私だったら間違いなく上に逃げてしまっただろうな。目の前に二つの道がある。どちらか選べといわれて、間違った方を選ぶ事には自信がある。今回道が一本になったのは吉とすべきか。いやこれは個人的なことです。

 

2000/11/23

加藤、山崎がしっぽを巻いて白旗を揚げた後のコメントは興味深かった。

「名誉ある撤退」

「一歩後退。次なる戦いに力を蓄えて」

事前の計算も、最後まで戦う決意もなく飛び出し、情勢が非とみるとめそめそないて白旗を揚げる。どこが「名誉」だ。リターンマッチの機会があると本当に思っているのか?

議員先生は結局自分だけの世界で論理さえ通ればいいと思っている。他人が自分を信頼するかどうかなど気にもかけない。さすがは官僚出身。あるいはNTTソフトウェアの取締役にもなれるだろう、この男は。

 

ふと考えるとこうしたメンタリティは2.26事件の時の青年将校(少数の例外は除く)にも相通じるところがあるように思う。自分が何をしようとしているかも理解せず、勢いだけでクーデターを起こし、情勢が不利になるとばらばらになり、やたらと泣いたあげく

「これからは法廷闘争だ」

などと自分勝手な理屈をつけてお縄に着く。自分が何をしたかもわかっていないから法廷が公開され、死刑にはならないと勝手に決めつけている。彼らにあたえられたリターンマッチは、誰も聞いていない法廷での陳述と、

「また何が起こるかわからない」

と軍部に

「クーデターカード」

を与えてしまったことだけなのだが。加藤と山崎に与えられるリターンマッチも所詮そんなものという気がする。

 

しかし野中君が金切り声で振り回す

「離党処分」

を聞くたびに

ソ連共産党員証剥奪処分

を思い出したのは私だけだろうか。野中が振り回し、加藤と山崎がそれに屈服した自民党員証の価値ははたしてどれだけ残っているのだろうか。以前父が

「腐っても鯛とは自民党のことだよ」

と言ったことがあった。今回の騒ぎを見ていると自民党は

「腐った鯛」

だという気もしてくる。逆接の「も」は入れないよ。鯛でも松茸でも腐ってしまえば皆同じ。

 

加藤の顔を見ていると

「卑怯者。恥を知っているのであれば腹を切れ」

と妙な言葉さえ頭の中に浮かんでくる。そのことに気がついた後に

「何故私はそんなことまで言い出すか」

と不思議になる。つらつらと考えれば次の信条に思い当たる。

非常に何かを嫌悪するのは、自分のどこかに「それ」と同じものがあるからだ

自分が所属している組織が完全に狂っていて、先は長くないと知っている。頭では解っており、思い切ってこぶしをあげる。しかしどこか腰が引けたままだ。それっでも進んでみるものの最後には腰砕けになる、というのは自分の姿にも重なるところがあるからだ。自分がそれまで依存してきた組織、あるいは環境から飛び出すのはいかに合理的正当性を納得していたとしてもとても力のいることだ。そして私は胆力がないからすぐ腰砕けになる。

しかし私ばかりじゃないでしょ?居酒屋で

"My miserable company life contest"

に熱中している人たちがすべて会社を辞めるわけじゃない。それぐらいであって、ようやくこの世の中は形を保っているのだが、加藤と山崎は派手にやりすぎた。もう彼らが何を言っても

「はいはい。じゃあ辞めれば?」

としか言わない。しかしそうであっても連中は

「後悔はありません」

とさわやかな顔をして開き直るんだろうな。そういうメンタリティは実にうらやましくも思うが、私は自分が腰砕けになりながら「後悔はありません」などとは言わないよ。後悔がいやなら無理にでもケツを上げる。

 

2000/12/17

一月に渡る訴訟合戦の末にようやくゴアが負けを認めた。あれやこれや沢山の訴訟が起こり、州の最高裁だの連邦最高裁だので審理が行われたり差し戻しがでたりで、正直何のことかわからなくなってしまった。そんな混乱した状況でもCNNはいつものごとく適度に整理された情報をWebで発信し続けていてくれたが。

最終的に連邦最高裁から差し戻しが出たとき(この判決文がまた難解にして微妙なものだったようだが)ゴアがどうするかについてあれこれの観測があった。敗北宣言を出すらしいが、それが明確なものおか、わけのわからないものになるか誰も読めなかったのだ。

CNNに全文掲載された敗北宣言を読むと、実に明確な言葉で「不服ではあるが、負けは認める」と述べている。弁護士という職業を車のセールスマン(これは米国では最も卑しむべき職業とされている)の次に嫌いながら何かと言えば訴訟を起こす。ディベートであらゆる「テクニック」を駆使することに血道を上げると思えば、それが返って嫌われる。いつものごとく人間の感情、それに社会というのはややこしい。徹底的にののしりあい、争った後は、きれいに演説をすることが何よりも必要なようだ。日本語で言えば

「引け際をきれいに」

ということか。

今回のような事が日本で起これば、やれ幹事長やら、元総理だのが料亭で会合を重ね

「では今回はお譲りするということで、そのかわり○○の件はよろしく」

とか

「では間をとって2年づつやることにいたしましょうか」

とか談合が成立し、いきなり

「新大統領は○○に」

と発表になるのだろうな。例によって自分が何を言っているか気にもしないマスメディアでは

「大統領選を巡る混乱で米国の民主主義が問われている」

という言葉が踊るが、すべからく評価というものは相対的なものだ。一般に公開されたルールの元で開かれた形で問題を解決する、という点では今回の「解決方法」はおそらく世界に類を見ない物ではないか。ただしそれが「最適」なプロセスであるかどうかはまた別の問題である。

さて、それとは対極にある「全くわけのわからない」プロセスで選出された森君は相変わらず首相の座に居座っている。ここでも私はこの「わけのわからないプロセス」自体を必ずしも非難しているわけではない。問題はその結果だ。もう少しましな奴はいなかったのか。支持率は15%あたりとのことだが、15%も支持する人がいる、というのが大変不思議だ。彼が

「2度も国会で指名をいただいた。国民の信任を得た」

などと発言すればするほど、与党3党は「緩慢かつ確実な死」に向かって突き進んでいるのだが、まあそれは彼には理解できまい。金切り声をあげていた幹事長もとうとう逃げ出してしまった。

さて、そんな日の夕方にスポーツ新聞を見ると

「ブッシュはアメリカ版森首相」

という見出しが見える。彼にも逮捕歴があって失言癖があるからだそうだ。その見出しをみて、スポーツ紙などで政治面を書いている人間の事をふと考えた。

あるいは彼もしくは彼女は高い理想を持ちもっとまっとうな新聞で筆を振るうことを夢見たのかもしれない。仮に大新聞で真面目に評論を書けば(仮にそれが馬鹿げた内容であっても)アメリカ大使館の人間が眉をつり上げてくれるかもしれない。しかしスポーツ紙の政治欄など誰も気にもしてくれない。であればとにかく

「人目を引き、興味を持たせる」

見出しが第一。内容についてはそれがどんなに幼稚ででたらめな物だろうと問うべきではない。彼もしくは彼女も自分がもっていた理想と自分が書いている文章のギャップに思いを馳せることがあるのだろうか。かくのごとく現実の世界で収入を得て暮らしていくのは楽なことではない。

そんな事を考えながらこんどはブッシュと森に破れた側の東西敗戦の弁-ゴアのそれと加藤の女々しく訳のわからないもの-を思い返す。この差は一体何なのだろう。

どちらもそれをとりまくCommunityで有効なコミュニケーションの方法なのだが、そこから一歩離れた人間から見ると、文化を共有せずともわかりやすい物-もちろんゴアのものだが-のほうが好ましい。ただ私がどう思うかどうかは別として、加藤君の物の言い方の方が少なくとも永田町界隈では「正しいものの言い方」ということなのだろうか。

かくの通り物の言い方、考え方などというのはそれが所属するCommunityにあったものでなければならない。しかしあまり適応してしまうと、そこから出たときが大変だ。欧米企業との提携で相手の会社に飛び込むことになった日本の某大企業の役員がこういっていたのを思い出す。

「英語がしゃべれるかどうかよりも、それ以前に自分の考えをきちんとまとめることができるかどうかの方が問題だ」

自分の考えを他人に解る形できちんとまとめることができずに、あるいはその前提となる「自分の考え」を持たずに大企業の役員になれるという事の方が驚きだ、というのは会社というものを知らない人間の考え方だ。自分の考えを持たず、仮に持ったしまったとしても決して言葉にしない。口から出るのは訳の分からない戯言、という人間が(だけ、とは言わないが)大会社(たとえばNTT)では生き抜いていくことができるのである。会社が行うことは常に絶対に正しい。それへの批判などとんでもないことだ。頭の中にあり、口にするのは社是かせいぜい社長訓辞だけで十分だ。

言い過ぎだと思いますか?私は時々思うのです。

「消費者からのクレームをきちんと反映した、信頼性の高い、良い製品を作るべきだ」

という「まともな考え方」をする人間が過去数十年、三菱自動車でどのような扱いをうけたか、ということに。君は口ばっかりだ。そんな理屈をこねまわさずもっと一生懸命働け、何?毎日9時に帰って何が一生懸命だ。僕が若い頃は二晩徹夜くらいへいきだったぞ、というのは確かに日本の一部では(依然として)有効なロジックだ。その世界だけにとどまっておれればそれでも特に問題はないのだが、そうした文化が強い組織ほど外の世界とつきあう(あるいは跪く)ことを余儀なくされるのは皮肉というものか。

 

お隣の国sについてみれば、一時やたらと盛り上がった和解ムードは幸いにして現実的な方向に向かいつつあるようだ。ふと

「まさか金正日がノーベル賞をもらいたかっただけではあるまいな。自分ももらえると思っていたのか」

というのはまあ妄想だから気にしないでね。太陽の日はふりそそいでいるのかもしれないが、旅人の服装には少しも変化がない。旅人の考えが解るまで今ひとつ慎重に対処せねばなるまい。

 

2000/12/28:終身雇用のスポーツ選手

NFLというのは、National Football Leagueの略称。米国ではFootballといえば日本でいうアメフト(もしくはアメラグ)のことで、NFLはプロのフットボールリーグである。

AFCとNFCの二つのカンファレンスに分かれており(日本の野球でいうところのパリーグ、セリーグのようなものだ)それぞれのカンファレンスには15チームが所属、総計30チームである。長いシーズンを戦い抜き、ポストシーズンに行われるプレーオフを勝ち上がり、1月に行われるスーパーボールの制覇を目指すわけだ。

そのNFLのレギュラーシーズンが先日終了した。次の段階、プレーオフに出場するチームを決めるルールというのは複雑怪奇で、同率の場合のタイブレークの方法というのが何段階にもわかって規定されている。どうにも同率が続くと最後はコイントスになるらしいのだが、そこまで行ったという話は聞かない。とにかくプレーオフに進出できるのは12チームである。

さて、今シーズンが始まるとき、日本のフットボールの番組で

「巨人が好きな人でしたら、応援できるかもしれません」

といわれるほど有力選手を金で集めまくって補強をしたチームがあった。Washingoton Redskinsである。NFLの場合サラリーキャップという制度があり、プレーヤーの年棒合計に上限がつくようになっている。それでもどうにかこうにかするとうまく潜り抜けることもできるようで、今年のRedskinsには最近選手の名前などまともにフォローしていない私でも知っているような有名選手が集まっていた。フリーエージェント宣言した選手をかたっぱしから買い集め、それでも足りずによそのチームで活躍した外人選手までかき集めてくるような某巨人と確かにそっくりである。

まあそうした姿勢にはいろいろ意見もあろう。「勝利だけがすべてではない。そのために何をしてもいいわけではない」ということもできるが、勝利しないことには話は始まらない。Redskinsは「プレーオフ進出確実」とか見られていたのだが、なぜかスロースタートである。いや、そのうち勝つだろう、とか言われていたのだが、いつまでたっても調子が上がらない。ついにはシーズン終了前であるにもかかわらずHead Coachが解雇された。

シーズン中にHead Coachを解雇する、というのは相当思い切った決断で、それが裏目にでる可能性も高い。結局その後も成績はかんばしくなくRedskinsはプレーオフ進出を逃した。

 

さて一方親愛なる日本のプロ野球では、膨大な戦力を有しながら、数シーズンにわたって優勝を逃した監督の首はちゃんとつながっていた。退陣論がまきおこったときなど

「とにかくベンチにいてくれるだけでいいんだ」

というファンの声が新聞にのり、

「長島機関論」

という馬鹿ばかしいんだか、本質をついているんだか判断に迷うような言葉さえとびかったりした。

 

所詮プロスポーツというのはお金をはらってくれる観客、もしくは潜在的にお金を払ってくれる視聴者を集めるのが仕事である。したがって視聴者が違えば、「勝つ」為の方法、というのも変わっていいわけだ。だから私はここでどちらが良いとか悪いとか書くつもりもない。

 

さて、優勝の行方とか関係なく、昨今その野球からは、メジャーリーグ行きが頻繁に行われるようになった。日本でタイトルを何年もとるようになれば、

「もっと上を目指したい。自分の力を試したい」

と思うのは至極自然な成り行きだろう。そうして行った先には行った先の論理がある。入団発表で、紋付はかまをはこうが何をしようが自由だが成績が残せなければ

「はいさようなら」だ。

それでもメジャーリーグ入りを希望する選手は後を絶たない。そうした動きに懸念を感じている人たちもいるようで

「日本の野球界はメジャーリーグのファーム化するのではないか」

という声が一部にあるやに聞く。そうした事が背景にあるのだろうか、

「なんとかスター選手を日本にとどめておかなければ」

と、巨人の4番を打っている選手にはなんと8年契約をオファーし、実質的な「終身雇用」を申し出たとか。ところが選手のほうはあくまで単年度契約を主張した。あれこれ言葉では言っているが、彼が「選択の可能性」を残しておきたいがために終身雇用をけった、という見方が妥当なのだろう。

彼がフリーエージェントになったときに何をするかは誰にもわからない。仮に大リーグ入りを目指したとしよう。しかし果たしてそれは日本の野球界にとって

「危機」となるのだろうか、と考える。何事もひねくれて考える私としては

「もともと日本の野球は技とか勝利を目指しているのではないのだから、別にすごい選手が抜けてもいいんじゃないの」

と思ったりもする。日本人プレーヤーが大リーグに行くようになったことに付随して、私は日本の観客にもひとつの変化が生じたと思う。大リーグのプレーを見る機会が増えたことだ。ソーサとマグワイヤのホームラン王争いは日本でも大きくとりあげられたが、彼らの異様なパワーを見せ付けられたあとで

「セリーグのホームランキング」

と聞いたところで、そんなにすごい物だと思えるのだろうか。すごい戦力を有したチームの監督が優勝しなくても

「いてくれるだけでいい」

という言葉が飛び交う世界だ。別に選手の一人や二人いなくなってもいいではないか。そうなっても監督がベンチに座っているだけで人気は保てるのではないだろうか。試合のレベルがどうだろうと、観客は球場におしかけ、規則的にメガホンをふり拍子をとり、同じ歌詞を合唱することに喜びを見いだすのではなかろうか。

 

いっそのこと中途半端に技を競うよりは米国や一部の日本のプロレスのような

「イロモノ路線」

に走るというのはいかがなものだろうか。何難しいことじゃない。今やっていることを公に認めればいいだけの話だ。日本人はなんだかんだといっても演歌の世界が大好き。馬場は還暦をすぎてもリングにあがっていた。あれと同じ路線に走れば結構な観客を集めることができるだろうし、それで何の問題があるのだろう。

 

それがいやだ、どうしてもスター選手には日本に残ってもらいたい、というのであれば、全体のレベルをあげ、スター選手が

「ここで技を競いたい」

と思えるような環境を作ることを目指すことだってできる。目の前に目標があり、やりがいがあれば、何も異国の地まで出かけて行く必要はない。(米国住まいに無条件にあこがれているのなら話は別だが)米国のプロスポーツの中にはかつてはマイナーで色モノ扱いされていたが、体質改善により、堂々たるメジャースポーツ入りしたものがいくつかある。そうした手法というのは参考にできるのではなかろうか。

 

しかし現実に球団-これも一種の会社だが-がやったことはそのどちらでもなく、スポーツ選手に全くにつかわしくない

「終身雇用のオファー」

である。会社員であれば

「すごい給料と、終身雇用を保障する」

と言えば、喜んで会社に残るかもしれない。しかし常に自分を磨き、技を競うべきスポーツ選手にそれをしてどうする。これも一種の

自分の最良の物を主にささげよう

的な態度ではないのだろうか。

このように「どうしよう。どうしよう。とにかく引き止めなくちゃ」といいながら勘違いした手をうち、次第に衰微していく、というのはどこか親愛なる自民党と似ている気がする。

 

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注釈

もっとも強き者に:アレクサンドロス大王の臨終の言葉(参考文献参照本文に戻る

ソ連共産党員証剥奪処分:「35歳」の「イーゴリ・A・ブリタノフ」の項参照本文に戻る

ゴアのもの:スピーチライターが書いた物だとしても、加藤君はスピーチライターを雇おうなどとは考えもしなかっただろう。本文に戻る