題名:Clinton-part7

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日付:1999/11/20

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1999/11/20

1999/12/5

1999/12/21

2000/1/14

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1999/11/20

ライフスペースというカルト教団が話題になっている。この教団に関してはいろいろな事が言われるであろうから、例によって私はちょっとひねくれた事を書いてみよう。

まず10年前にこの事件が起こった(とした)場合との差異を考えてみよう。色々あると思うが私が一番にあげたいのは、今ならば彼らのWeb Siteを直接みて、彼らの主張を自分の目で見ることができる点である。実際彼らのWeb Siteは見るに値する。正直言って何が書いてあるかさっぱりわからないのだ。内容に「同意」できないのではなくて「文章」が理解できないのである。報道されるときには彼らの主張はわかりやすく(少なくともまともな日本語に)なおされているが、こうした生の情報を見ることにより、彼らがいかに異様な集団であるかが誰にでも解ろうというものだ。

もう一つは「視野が狭い人、願望が現実に見えてしまう人はなんと幸いであることか」という私の信条を思い出させる彼らの堂々とした態度である。肉親あるいは同じ集団のメンバーを死においやり、そしてあざけり笑われても彼らは実に堂々としている。そしてその目には迷いがない。世の中ではよく「自己の信念に忠実であれ」とか「初心貫徹」とか「人の目ばかり気にしていたら何もできない」などと言われる。しかし私はそうした標語は常に重要な条件付きであるべきだと思っている。

現実を直視した上で」というのがそれだ。それがなければそれらの言葉はライフスペース、あるいはオウムを褒め称えるもの以外の何ものでもない。現実から目をそらし、目と耳を閉ざし、自分の都合のいい世界で頑なに生きることは実はとても簡単であり、そんなことは賞賛には値しない。

もう一つ思いついた事を書いておこう。以前「オーラによる治療」を主張している人とメールで会話したことがある。その人は

「オーラ治療をする上で、薬は「百害あって、一利なし」です。ですから、治療には薬は一切使われません。」

と堂々と主張していた。そしてそれに疑問を呈した私に対し

「本物かどうかは、自分自身が体験して判断するよりほかに方法がないのではないでしょうか。」

と答えた。どことなくライフスペースの人たちもこんな事を言っているのではないかと思える主張である。

さて、その一方(これは当時の私には結構意外だったが)その人はその主張以外には実に知的な興味深い、現実の人間社会に根ざした意見を述べてくれる人だったのである。このオーラともう一つその人がかたくなに主張している事にさえふれなければ、その人とのメールのやりとりは実に楽しかった。不思議な事だが、こうした(偏狭な私からみて)常軌を逸した硬直化した主張と知的で的確な判断というのは一つの人間の中に共存しうるものらしいのである。

これほど極端な例でなくても、こうした「不思議な共存」というのは多くの人間の中にみることができる(もちろん私の中にもあるかもしれない)こうしたそうしたことから、私は「大人になる、というのは他人との距離をうまくとれるようになることだ」という信条を開発するに至った。どんな相手でも(自分から見て)風変わりな頑なな主張を持っている可能性がある。そこに必要以上に近づけば喧嘩になる可能性が高い。「ここはふれない方がよいな」と思えばあえてそこに踏み込まず、距離をうまくとり、避けられるいさかいを避ける、というのが大人ではないかと思うわけだ。では何故私が「その人」に「オーラ治療」に関する質問をしたのか?相手が聞いてきたから正直に答えたのである。私としてはその部分にはふれずに楽しいメールをすることも可能だったのだがしょうがない、、、しかしこれは「子供の言い訳」かもしれない。私が本当の大人だったら「おもしろいですね」の一言で流せたかもしれないのだ。

 

1999/12/5

いくつか大きな事件が続いている。警察不祥事の嵐の後にはライフスペース。それが話題になるかと思った瞬間にいたましい幼児殺害が起こった。放映された女の子のビデオは観る物の涙をさそわずにはいられない。そして例によって「人間であることを放棄した人たち」はその遺族にようしゃなくマイクをつきつけ、周囲をつつき回す。遺族の誰かが言っていた

「涙がかわくまでそっとしておいてください」

という言葉を聞き流し、マイクをつきつけることができなければ、あの業界では働けない、ということなのだろう。

さて、「人間であることを放棄した人たち」は餓鬼のようなものだ。いつも新鮮な「食料」を求めている。「食料」がなくなればいまある食料を骨までかじりだす。未だ彼らは気の毒な遺族の骨をかじろうとねらっているようだが、幸いなことに彼らには口がひとつしかない。そして時をほとんど同じくして別の大きな「食料」が登場してくれた。福永某の「幸福の華」である。

私も何度か彼らが路上で配っている本をもらったことがある。いつか新幹線の時間つぶしに読んでみた。そのなかに「癌が治った」とか「AIDSが治った」という「信者の喜びの声」があるのだが、実にそこらへんが(少なくとも私が読んだ物は)巧妙に描かれていた。「癌」は「無くなった」と客観的に書いてある。しかし不治の病であるAIDSのほうは「突如その女性が”あたしのAIDSは治った”と叫んだ」とあくまでもその女性の主観で書いてある。AIDSを「治す」ことは未だに不可能であるが、「AIDSが治った」と叫ぶのは自由である。そしてそれを本に載せたからといって、本を書いた側が「うそをついた」わけではない。実に巧妙だ。

さて強制捜査が入った彼らの施設をみると「日本のどこにこんなところがあるのか」と思えるような絢爛豪華さだ。実際日本で大きくて高価なビル以外の建築物が建つとすれば、そのうちのいくつかのケースは新興宗教の施設である。以前住宅の屋根に関する仕事をしていたとき、非常に高価な「チタン製」の屋根の施工例があった。そしてそれは新興宗教の寺院なのである。宗教というのは実にもうかる商売らしい。(もちろん商才があればの話だが)私が知る限りでもああした絢爛豪華な新興宗教の施設は日本にあと何カ所もある。何かの拍子で暇になったら、こうした「日本全国新興宗教豪華施設めぐり」でもしてWeb Siteに掲載したいと思うほどだ。

さて、餓鬼は気の毒な遺族をつつき回すことはやめていないが、こちらのごちそうを食べるのにも忙しそうだ。私はさすがの彼らも一つの口でたべているのだから、少しは「遺族のつつき回し」が「おろそか」になるのを期待しているのだが。福永某も社会にそれくらいの貢献はしてほしいものだ。

さて視線を海外にうつしてみよう。日本では全く話題になっていないが、New Yorkから飛び立ったエジプト航空の旅客機が墜落した事件はしばらくCNNでは話題になっていた。ボイスレコーダーに副操縦士が自殺をはかった事をほのめかすような言葉が残されていた、と一時報道されたからだ。その直後にその言葉は訂正されたが、今も解析は続いている。こうした時にはとくにその言葉、文化の理解が解明の必須となる。

たとえば米国人は人によっては気軽に"Oh my GOD"というが、別にいちいち彼らが大抵思い浮かべるところの全能の神ヤハウェを思い浮かべているわけではない。単なる慣用句である。しかしもしそうした背景をしらずに

「ボイスレコーダーに”おお。私の神よ”という言葉が残っていた」

とすれば、そこからどんな珍解釈が飛び出すかは想像に難くない。一時この話題はCNNのサイトで大きく取り上げられていたがここしばらく静かなようだ。

 さて、シアトルで行われたWTOの会議には、WTOに講義する団体(の一部)が大暴れである。抗議行動は州兵の出動が要請される暴動に発展した。しかし私が驚いたのはそのことではない。親愛なるClintonのコメントだ。

「平和にいろいろな主張をする団体は歓迎する。彼は長期的に観た場合、議論に参加すべきだ。暴力を振るう団体は非難する」

何故これがそんなに驚きか?日本で同じことが起こった場合と考えてほしい。世界中から集まった閣僚が会場に到達できない事態にもなったのだ。たぶん多くの日本人が

「なんということを。世界に対して恥ずかしい」

と考えると思う。場合によっては国辱、国恥という言葉を思い浮かべる人もいるだろう。そしてたぶん親愛なる小渕君は世界に向かって「治安を一部失いましたことは誠に申し訳なく、遺憾である」と声明を出すに違いない。そしてあらゆるデモをじゅっぱひとからげに禁止するだろう。間違っても「おとなしくデモをしていた人は歓迎する。暴れた連中だけ非難する」とは言わない。

Clintonのコメントに対して、今のところどのような論評も目にしていない。しかしたぶんこれがあの国と日本の大きな差異というものなのだと思う。どちらが良いとか悪いとかいいはしない。これが文化の違い、というものなのだ。

さて、そのWTOだが、あっさりと最終日に「はい。次回をお楽しみに」となった。あれこれ言葉は語られているが、つまるところ議長国であるところのかの国が

「自分の思い通りにならないので、会議を投げ出した」

外交の成功は国内の選挙での得点にはならない、と聞いたことがある。自分の痛みを受け入れて世界貿易の発展に寄与するよりは、とにかく国内の利益だけを代弁し、「おれはこんなに戦ったんだ」と大統領選で訴えるつもりか。また

自分は絶対悪くない

の文化の国だから、会議お開き後のコメントも

「合意にいたらなかったのは、各国の準備不足のため」

と「申し訳ない」が最初にくる文化の人間から見れば「厚顔無恥」といいたくなるようなものだ。不思議なことだがどこの国も、いや世界すらも「リーダー」不足に悩んでいるように思える。

 

1999/12/21

さて、世の中は雅子様ご懐妊のニュースで大騒ぎである(最近少し落ち着いてきたが)この行方はまだこれを書いている時点ではわからないが、誰もが笑顔を浮かべる可能性がある数少ないニュースであることは間違いない。

この日、私は実家で朝のニュースをぼんやりとみていた。何故かTVでは雅子と皇太子の画像がよく流れている。何故だろう、と思って朝日新聞の一面を観て驚いた。(実は最初に読売新聞の一面を観て「ソニーがオンラインバンキングに参入。。なるほどね」と思ってほにゃほにゃしていたのである)朝日新聞だけが号外までだす大騒ぎだ。

その日の朝のニューススタンドは面白かった。朝日だけが雅子様のことを伝え、あとはすべてソニーのニュースを一面に持ってきている。

こうしたことはおそらくあの業界の人にとっては、手柄であったり失点であったりするのだろう。しかしそれが何だというのだろうか。このニュースが1週間や2週間遅れたところでなんの影響があるというのだろうか。もし本当にお祝いする気持ちがあるのであれば、何故宮内庁から発表があるまでそっとしておくことができないのか。

色々な人につきつけられるマイクの前で、雅子様のお母様だけが「そうであればうれしいんですけど、、もし違ったりしたら、、、、お気の毒だと思うんですよ」と少し涙ぐみながら言っていた。この映像を見ながら「親というのはありがたいものだな」とつくづく思った。日本人のうちの多く、それに「人間であることを放棄した人たち」が身勝手なお祝い気分にある中、母親はちゃんと娘の事を気遣っている。

そう思い振り返って私の身を考えればあまり両親に孝行をしているとは言えない。

さて、大阪を観てみよう。元芸人の知事は文字通り「めちゃくちゃ」な論理をもっていなおっている。Clintonの疑惑とは話が違う。こればかりは「私と家族と神との問題だ」とは言えない。相手から裁判を起こされ、「不戦敗」で負けたのである。それで知事として居直る方もいなおるほうだし、それを許す方も許す方だ。しかし政治家というのはそういう神経がなければできない仕事なのであろう。

しかし不思議なのは、何故彼はあれほどまでに知事という地位にこだわっているのであろう、ということだ。私だったら素直に辞表をだして隠遁生活にはいるが。それでなくても私の「ミイラ化」計画はちゃくちゃくと進行しているのだが。

さて、そんなことを書いていたら、刑事告訴の可能性を目の当たりにしてようやく辞意を表面したらしい。素直にお縄につけばいいのに、と思うが、まあこれは自分がお縄につくような立場にならなければその気持ちというのはわからないかもしれない。

さて、これは私が聞いた声だけを書いてみる。私は朝飯と夕飯を所謂定食屋で食べている。一人で飯を食べる人が集まっているところだ。(事情は人ごとにそれぞれだろうが)そうしたところだから、あまり人同士の会話というのは多くない。しかし中には店の人を捕まえてしゃべるのが好きな人もいる。(店の人にも誰とはなしに話しかけるのが好きな人もいるが)

そこでは大抵TVがついている。或晩、この大阪府知事の事が報道されているとき、ある人が「これは女のほうがさそったんだよ」と演説していた。その声を聞いてどっかで同じ様な話を聞いたなと思ったら朝飯を食べているときにも同じ事を演説していた人がいた。朝飯の場所は品川、晩飯の場所は横浜だから同一人物であるはずがない。しかし述べている事は全く同じだ。

正直こうした事を(何の根拠があってか知らないが)言うことが出来る人がいるのにも驚いたし、それとともにこうした犯罪の被害者がその直接の犯罪だけでなく、その後にもどれほどつらい目にあうのだろうか、と気が重くなった。

さて、気分を変えよう。それでなくても気が重いことはあれこれと満載なのだから。

 

2000/1/14

さて、心配されていた2000年問題は、「新生児が100才となった」とか「レンタルビデオを借りた期間が数十年に判断された」とかまあ世界中捜してもそうした笑い話に属する話題ばかりで終わったのは実にめでたいことであった。いくら試験をしても物事すべからく「実際になってみなければわからない」という要素は残ってしまう。

その中で東京電力の原発関係で細かなトラブルが数件発生した、というニュースが取り上げられている。トラブルの内容を見てみると「対処しわすれ」よりは、「対処はしたけどその方法が間違っていた」ものが多かったようだ。となれば会社としての姿勢を問われても文句は言えない。「対処済み」のチェックシートを埋めただけで安心し、確認をしていないのだから。今頃東京電力の担当部署はてんやわんやの大騒ぎであろう。

しかし別の目で見れば、少しは原発関係のずさんな管理の体制が改善されつつあるのかな、という気がする。とにかく細かいものであっても情報を開示したからだ。もちろん情報を開示して、なおかつ何も起こっていないのが好ましいのだが、何やかやと理由をつけて隠す、というメンタリティからは一歩前進したのかな、とも思うが。

雅子様のことは大変残念であり、お気の毒であった。ただでさえ大変な事なことなのに、マスコミに勝手に騒がれ、どれほど苦しかったことだろうか。しかしおそらく朝日新聞は「今回はうちが一番に報道した。次もやるぞ」と戦勝気分にひたり、祝杯でもあげているのではなかろうか。JOC事故の時の報道といい、彼らは身勝手な報道によって人に害を与えることに生き甲斐を見いだしているようだが。

次の章


注釈

視野が狭い人、願望が現実に見えてしまう人はなんと幸いであることか:(トピック一覧)私は幸いなのだろうか?本文に戻る

 

「現実を直視した上で」:(トピック一覧)何故か日本ではこの前提のほうは落ちることが多いようだ。本文に戻る

 

大人になる、というのは他人との距離をうまくとれるようになることだ:トピック一覧)もちろん自分が大人だと主張しているわけではない。本文に戻る 

 

人間であることを放棄した人たち:(トピック一覧本文に戻る

自分は絶対悪くない:(トピック一覧)アメリカ人すべてがそうだ、とは言わないが。本文に戻る