題名:ニコラウス・アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 来日公演 J.S.バッハ/ミサ曲 ロ短調(2010/10/24)

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日付:2008/4/1


雨が降りだした渋谷の町を足早に歩く。まだ時間はあるはずなのだが、いつもの私に比べれば遅刻である。渋谷には一時間前についていた。そこでふと

”これだけ時間があれば床屋にいけるであろう”

と考えたのだった。着いてみれば床屋は思った以上の混雑ぶり。それでも回転が早いし、髪の毛のうっとうしさをかかえてあとしばらく過ごすのもいや だ。

というわけで髪の毛は短くなったが、”開場前の雰囲気”を味わうことはできない。しかしそれで正解だったかもしれない。雨が降っているから だ。渋谷から原宿に行く道は何度通ったかわからないが、 NHKホールに行くのは初めて。途中間違えてNHKに行きそうになったり。それらしき人の後をおいかけ入り口についた。列はずんずん進む。ビニール袋を とり、急いで傘をいれる。するとチケットをチェックするお姉さんが目の前。カバン からチケットをとりだし差し出す。

ここで

”すいません。これは違う日のチケットで”

と言われるのは恒例の強迫観念である。しかしこの日それはただの妄想ではなかった。お姉さんはすま なそうに

”すいません。こちらのチケットは。。”

といったのである。よくみれば10月30日という日付が。うげげげげ。間違ったチケットを持ってきてしまったかあ。私は思わず

"oh, My God"

と叫ぶ。

しかし幸いなことにパニックには陥らなかった。家を出てくる時何度かチケットを確認していたからである。頭の中に誤りを説明する理屈がぱちぱちと閃 く。

”大丈夫。あります”

と言うと、お姉さんは少しほっとした雰囲気で

”ありますか?”

と言ってくれる。きっと同じようなことは時々おこるのだろうな。そしてそれは係の人にとってもHappyな出来事ではないに違いない。

封筒の中をごそごそ探すと別のチケットがあった。来週奥様が別の公演にいくのだが、封筒にそのチケットもはいっていたらしい。本日分のチケットを にっこり笑って差し出 すと事無きを得る。考えようによってはこれは幸運なことだったかもしれない。封筒に別のチケットが入っていると知らなければ、入場した後そのまま封筒を捨 てていたか もしれない。そしてその結果は想像するのも嫌である。

階段を降りてください、と言われるのでそちらに進む。まずはトイレに行く。まだ少し時間がありそうだ。お腹がすいているので、何かないかと奥に進 む。

ワッフルでも食べるかと思っているとゴーンと鐘のような音がなる。あれ、まだ30分以上あるはずだが、と首をひねりながらワッフルをいそいで食べ る。客席に向かう。どうも最前列のようだ。こんなところに座っていいのだろうか。間違いかと思いチケットに書かれた番号と席の番号を何度見ても最前列であ る。まあ間違っていれば誰か に追い出されるだろう。荷物を座席の下に置きあたりをきょろきょろ見回す。

すると”紅白歌合戦”で何度か見たまさにその場所にいることに気がつく。TVでみるよりこぢんまりしているようにも思えるが、後ろまでみれば 堂々たるホールである。あまり後ろをキョロキョロするのもなあ、とか思っているうち、舞台上に男性が現れた。プレトークというものらしい。

いろいろなことをしゃべってくれた。今回がおそらくアーノンクールにとって最後の来日となるだろうこと。使われている楽器について - バリバリの古楽 器である。アーノンクールの奥様がコンサートマスターの隣に座って演奏をすること。アーノンクールとこのオーケストラが歩んだ道のり。(それはこの指揮者 がロッ クの魂を持っていることを示している)ルター派、プロテスタントのバッハがなぜカソリックの形式でのミサ曲を作ったのか等等。

アーノンクールの演奏の前にしゃべる、というのは甚だ僭越、というのは定形文ではなく心からのものだったかもしれない。しかし私のような人間にはこ うした話はとてもありがたい。

男性が奥に引っ込むとまた少し時間がある。ふと左手を見上げるとバルコニーのようなエリアがあり、先程の男性がなにやらやっている。後日本日の模 様をTVで放映するというから何か収録しているのかもしれない。舞台をみれば、上方にいくつものワイヤーがはりめぐらされ、マイクが設置されている。録音 の体制にもぬかりはないのだろうな。

まもなく舞台にオーケストラの人たちが登場する。拍手がパチパチと鳴り響く。ショーットカット+メガネでちょっと印象的な外観の女性がいるのだが、 本来背負う袋を手にぶらさげて入場してくる。よくよく見れば何か袋をもって入ってくる人は結構いるようだ。先程のプレトークでもあったが、楽器が変わって いることに気づく。楽器には木管と金管があるのだが、多くの場合金属で覆われているフルートがなぜ木管なのか、というのは小学生が抱く 疑問。このオーケストラではフルートは紛う方なく木管楽器。吹くところさえつ ければ木製のリコーダーとして通りそうだ。

などと感心しているうちに、ソリスト達それにアーノンクールが登場する。アーノンクールは一旦立ち止まり、ソリスト達が定位置につくのを見てか ら指揮台に向かう。最前列の威力というのはすさまじく、多くの場合遠くの点でしかない人間を間近に感じることができる。アーノンクールが目をかっと見開い て客席にあいさつ。拍手がぐっと高まるが、オーケストラのほうを観た瞬間見事に静まる。

演奏が始まる。通しでこの曲を聞くのは初めてだが、多くの曲から構成され、また曲ごとに様相が全く異なることに気がつく。ある曲ではオルガン(のよ うなもの)とソリストひとり、フルートとコントラバス(のようなもの)だけが延々と演奏を続ける。もちろん全員が加わる曲もある。アーノンクールは指先だ けを動かすことがあり、体全体で乗り出すように手を振ることもあり。それに合わせオーケストラは楽器を奏で、合唱の人たちは歌う。その姿、音が一体となっ て私の目の前に広がる。

全部で2時間程度の演奏時間だが、途中で一度休憩がはいる。演奏が始まる前にアナウンスがあり

”グロリアの後で休憩が入ります。ここでは演奏の余韻を楽しんでいただきたく”云々という。つまるところは、

”演奏の終わりじゃないんだから、拍手するな”

ということかと思う。さて、いよいよその瞬間がやってきた。アーノンクールが手を下ろす。ソリスト達が移動する。誰かが一回だけ手を叩く。このまま 静かに舞台から降りるのだろうか。

そう思っていると、ソリスト達が舞台の正面に並ぶ。これは拍手をしても問題なかろう、というわけで拍手が巻き起こる。曲の途中だろうがなんだろう が、拍手をしないわけにはいかない。この演奏を聞いては

休憩時間になったので、トイレにいく。男性用にも長い列ができている。ホールの人も手馴れたもので

”こちらにそってお並びください”

と声をかけている。用事が済むと席に戻る。あたりをキョロキョロ見回す。舞台のすぐそばまで来て、あれこれ覗いている人たちもいる。後ろで女性が二 人大きな声で会話している。そうねえ、教会で聞けばいいかもしれないけどねえ、とか。確かに古楽器の響きは現代楽器のそれにくらべて異なるものかもしれな い。しかし不思議と違和感は感じない。

まもなく演奏者が舞台に戻ってくる。アーノンクールに一段と大きな拍手が巻き起こり、一瞬で静まるのも前と同じ。

様々な構成、様々な節をもった調べが続く。ある曲ではホルンが大活躍。ベルリンフィルにおいても人を祈らせるホルンだが、このオーケストラにで使わ れているそれは(私の位置からはみえないが)音を変えるためのバルブがないのだ。それで音をごろごろ変えさせるとはいかがなものか。

途中で、合唱の人たちが配置を変える。それまで左側が女性、右側が男性だったのだが、女性の半分が右端に行き、男性が真ん中に陣取る。

もっと聞いていたい。そんな気持ちとは関係なくいつしか曲はフィナーレを迎える。仰々しくはなく、しかししっかりと演奏が終わる。アーノンクールが 指揮を止める。会場は静まり返ったまま。メ ガネを外し、ゆっくりからだを動かし始めたところで会場に拍手が巻き起こる。皆ふと我に返ったかのように。

彼は客席のほうをみるとき、カッと目を見開くのではないかと思う。錯覚かもしれないが、目が青く見える。ソリスト達とならび拍手を浴びる。まもなく ソリストから退場。次に出てくる時には声楽の監督がついてくる。拍手、退場、それが繰り返される。

何度目かのときにソリストの人がなにやら隣の人につぶやく。勝手な想像だが

”何回やんの?”

とでも聞いたのだろうか。拍手の後ソリストが退場。そ こでオーケストラのメンバーがお互いに握手を始めお開きとなった。しかし拍手はまだつづいている。私も出口にむかいながら手をたたき続ける。最後にアーノ ンクールの奥様が、指揮者用の分厚い楽譜をたたんで持っていった。

外にでて、雨の中を渋谷駅に向かう。今終わったばかりのコンサートのことを思い返す。最前列でみたアーノンクール、演奏者、ソリ スト、合唱者たちの動き。それらがすべて音楽の一部となっていたことを知る。響きが地味な古楽器によって奏でられたその音楽は人によっては

”教会だったらねえ”

というものなのかおもしれない。しかし今考えるに、様々な曲調を持ったこの曲はどう奏でられるべきか。それを考え抜いた末の演奏だったように思える のだ。見かけの華やかさなどを超えた明瞭な響き、そして

”これが自分たちが演奏するロ短調だ”

という明確さと自信をもった主張だったように思うのだ。

ヨーロッパにいればまたこの人の音楽に触れる機会もあるのだろうが、日本にいる限りこれが最後なのだろうか。


注釈