題名:書評

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日付:2003/6/1

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Documentary

マイクロソフトの蹉跌-プロジェクトXBOXの真実
ディーンタカハシ著 Soft Bank Publishing

ソフトの会社マイクロソフトが家庭用ゲーム機市場に乗り込むべく開発したXbox。この本はそのプロジェクトの始まりから発売までを一人の男を中心に描いたドキュメンタリー。

通勤電車に乗っている時間も惜しんで読み続ける本というのはそう多くはない。この本はそのうちの一冊となった。しかしそれは必ずしもこの本単体のおもしろさだけから来るものではない。本書と関連する2冊の本-「戦うプログラマー」それに「イノベーションのジレンマ」-と併せた考察という意味において興味深かったのだ。

従ってこの本の書評を書くに当たっては、それらの本に書かれていた内容、およびそれについて私が考えたことと併せて書くことになる。そのうち適当な題名を思いつくかもしれないが、今は書評の一つとしておく。

まず「プロジェクトXBOXの真実」の監訳者あとがきから引用する。

「今でもこの巨大企業の内部に個人の発案が大プロジェクトへと発展する柔軟性があること、創業者でありカリスマであるビル・ゲイツその人の存在感の大きさが語られている。その様子はスリリングかつ刺激的で、読み進むにつれて、誰しもがXboxの成功を願わずにはいられなくなるだろう。」(P467)

監訳者が本当にこう思ったのかあるいはマイクロソフトへの気配りからこう書いたのかはしらない。しかし私が「読み進むにつれてXboxの成功を願わずにはいられなくなる」ことは全くなかったのは事実である。反対に読み進むにつれて「ああ、これはだめだ」とさめた気分になり、日本とヨーロッパでの苦戦を描くエピローグは「さもありなん」と思いながら読んだ。

なぜそう思ったか?それについて本書と同じく(ただし10年ほど前の)マイクロソフトを舞台としたWindows-NTの開発物語である「戦うプログラマー」と比較しながら考えてみる。

「戦うプログラマー」にはDECでVMSを開発したデーブ・カトラーがマイクロソフトに移り新しいOS, Windows-NTの開発にとりかかり、バグとの戦いに勝利を収め製品が出荷されるまでを描かれている。その中でこのような下りがある。

「忘れてはならない。今が人生で最良の時なのだ」(下巻:p190)

「自分の目標が疑問の余地なくわかっていて、それにむかって着実に進んでいると感じられることほど、幸せなことはない」(下巻:p212)

自分が何をしているかわかっており、成し遂げようとしていることの形が見えている人間にとって「マネージメント」やら「戦略的位置づけ」などというものは時間の無駄でしかない。そしてカトラーにはそれがわかっていた。であるから、無用な雑音に煩わされることなく製品の完成だけに取り組めたことを「人生最良の時」と表現したのだと思う。誕生から出荷までの間にWindows-NTの位置づけは途中で何度か大きな変更を受けている。しかし最初から最後まで開発を強力に管理し推進したのはカトラーだ。Bill Gatesは少し口を出す程度で開発はカトラーに全面的に任している。

対するに本書にでてくるのはマイクロソフトの姿は対照的だ。まずプロジェクトのそもそものきっかけはここだと思う。

「しかしビル・ゲイツはウェブTvの買収を担当したクレイグ・マンディに指示を与えた。ゲーム事業に関する生のアイディアを集め、社内で部門の枠を越えた発案をまとめるように命じたのだ(中略)そんなわけで、上から降りてきたアイディアがたまたま同じ頃に下からわき上がってきたXboxの提案とぶるかることになった。」(第2章:P39いったん退却せよ)

トップからの指示に対するタイムリーな下からの提案。しかしそれがすんなりと進むことはない。同じく家庭への進出を目指していたWeb TVチームとの競合はさけられないことだったのかもしれない。しかし本書に書かれているだけでもその「対決」は3度に及び最初の2度で明確な判断は下されなかった。

異なる強みを持った二つのチームが互いを攻撃しあうことにより双方の提案の質が高まる、と考えることも可能かもしれない。しかし「和を持って尊しとなす」の国に生まれた私から見れば、早期に方針を定め両チームのリソースを有効に活用した方がはるかにましだったと思える。Web TVのチームは実際にハード+ソフトからなる製品を設計、製造し出荷していた。そこから貴重な経験とノウハウを得ていたはずなのに。

Web TVとの戦いの他にもXBoxチームは社内の戦いに何度も勝ち抜かねばらなかった。何カ所か引用する。

「マイクロソフトの製品は可能な限り首尾一貫したものでなければならない。さまざまな製品ラインを合理的に説明する必要があったのだ。この説明のためにマイクロソフトの改革推進派は貴重な何週間かを失った。社内の古参社員はこの手間のことを「戦略税」と呼んでいた。」(第2章:P39いったん退却せよ)

「ものごとを順序立てて進めていくのがマイクロソフトのやり方なのだ。あるプロジェクトの価値が明白になるまでは、一定の間隔を置いてさまざまなアイディアについて議論し合い、集めた証拠を検討する作業を繰り返し行わなければならない」(第11章:P169)

すなわち計画立案時、および遂行途中において何度も「合理的な説明」が求められたというわけだ。それは以下のような記述からもしれる。

「一方ブラックリーは、マイクロソフトでは最終的な決定というものは存在しないことを学んでいた。Xboxチームの顔ぶれが出揃い、細部のつめも終わり、スケジュールも決まりつつあった。それなのにXboxチームは、またもや審判の場にたたねばならなくなったのだ。」(第17章:P265)

こうした「合理的な説明」がどのような結果を生むか、ということに関して事実を眺めてみるというのも興味深いということだと思う。たとえばマイクロソフトは自分たちのデスクトップパソコン用OSの「製品ラインを合理的に説明する」ことができるだろうか?本書に書いてある内容から推定すればその位置づけを合理的にするためには膨大なリソースが投入されたのだろう。しかし結果としてみればそれは消費者にとっても社外の専門家にとっても常に頭痛の種である。そしてその上で動くOfficeも同様だ。あるコンピューター関係の記事にはこのように書かれている。

「Office 2003——6つ(あるいはそれ以上!)の版のどれを選ぶか
Office 2003のパッケージ構成は複雑だ。6つのエディションのほかに、一部アプリに「Pro版」と「通常版」の2種類のフレーバーがある。さて、アップグレードのニーズは……?」

私は物事をシニカルに見過ぎるのかもしれない。しかし「合理的な説明」と「定期的なレビュー」がとんでもなく馬鹿げた結論を支持し破滅的な結果を迎えるのを何度も見てきた。何時間にもおよぶ会議と数十枚にわたるプレゼン資料を作ったところで間違った方針は間違ったままである。あるいはその組織に属する人間がみなうんざりし、自分たちが成し遂げた結果ではなく、時間や会議の数に満足し始めれば「馬鹿げた結論」を押しとどめるものは何もない。

かくして「合理的な説明」にうらうちされたXboxは製品として出荷された。しかしその過程で最初の提唱者達の多くはプロジェクトから去ってしまっていた。それはたとえばこのような理由からだったかもしれない。

「もともとXboxはゲームを愛する人たち、少なくともゲームをよく知る人たちが始めたプロジェクトだ。(中略)そして、XBoxの成長ともに別の種類の人間が乗り込んできた。ビジネスのやり方ならゲーマーより自分たちの方が心得ていると自負している人たちだ。」(第11章:P177)

「ブラックリーとバッカスは、大切なプロジェクトが自分たちの手から奪われてしまった悲しみを分かち合った」(第11章:P178)

本書を読んでいると、次から次へと新しい人名がでてくるのにとまどう。多くの人が関わったプロジェクトだから、と我慢して読み続けるがそれでも後半では誰がだれやらわからなくなる。そして結局誰が何をしたのかさっぱりわからない。つまりXboxは大勢の人による細切れの努力で出荷されたのであり、そこには個人もしくは少数の人が一貫して持った思想なりビジョンなり目標といったものが無いように思われる。ビルゲイツはプレゼンを聞き質問をし、承認を与える役割として登場する。彼自ら「製品はかくあるべきだ」というビジョンを示すことはない。(言うのは文句とWindowsを使え、という要望だけ)

さて、ここまでは製品開発のプロセスについて書いてきた。では彼らはそうしたプロセスを経て何を目指したのだろうか。

このことを考えるにあたり私が読んで驚いたのは以下の下りである。

「彼らが参考にしたのは(中略)「イノベーションのジレンマ」である。(中略)Xboxは「破壊的な技術」となる可能性があった。クリステンセンの定義によれば、この言葉は従来の製品ラインが有していた主導的地位を奪う可能性を持っているという意味だ。しかしXboxはソニーのお株を奪うだけでなく、PCの地位もおびやかすようになるのだろうか?」(第11章:P163)

この下りがMicrosoftの社員の言葉かあるいは著者でるディーン・タカハシ氏のものかは定かではない。しかし私はこの意図は間違っており、それがXboxの出足が悪い(今後何が起こるかは誰にもわからない)原因の一つになっているのではないかと思う。次の章ではそのことについて述べる。

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注釈

監訳者あとがき:このあとがきにはこのような箇所がある。

「もしXBOXがあと二年早く登場したら、と思うのは監訳者だけだろうか。現在、世界は深刻な不況の中にあるが、この不況を導いたITバブルの崩壊とともに、ゲーム機のバブルもはじけてしまった感がある。もちろんゲーム機バブル崩壊前にリリースされたドリームキャストがつまづいてしまったように、二年早ければ成功したというわけではなかろうが、少なくとも滑り出しは熱狂的なものになっただろう。結果論になってしまうが、Xboxがタイミングを外してしまったことは否めない。」

こうした「あり得ない仮定」を持ち出し「たられば」の話をするのは人によっては楽しいことだろうが、読者としては疑問符をつけたくもなる。本文中にXbox開発がスタートしたのはソニーがPS2を発表したことがきっかけであったことが書かれているし、以下のような記述もある。

「世界中のメディアがソニーのPS2に注目しているのを見ると、Xboxチームは自分たちの進む方向が間違っていないことを再確認した。」

つまりXbox はPS2の後にしか発表され得ないのであり、マネージメントの改善によって半年発表が早まることはあったにせよ、「二年早く登場したら」、つまり1999年11月、PS2以前に登場、などというのは戯言というしかない。

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