題名:書評

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日付:2002/7/31

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歴史関係-Part3

スターリンとは何だったのか ウォルター・ラカー著 白須英子訳

訳者あとがきから引用する。

「著者はそうした人々の声を、すでに老境にあるスターリン時代の政治家や軍人、粛清を生き残った人たち、歴史家、法律家、文学者、映画製作者、一般庶民や若い世代にいたるまで丹念に集めて、スターリンとは何だったのかを考える糸口にしようとしている。」

この本はこの文そのままの本である。つまり膨大な引用、要約がなされているが、著者自身の意見はほとんど書かれていない。(問いかけは繰り返しなされている)おまけにこれはなんの問題かはわからないのだが、著者自身が意見を述べたところと、引用部分の区別が付きにくく、少し気を抜くと誰の意見を読んでいるのかわからなくなる。

従ってこの本を読んで分かるのはスターリンに関してはいろいろな意見があること。それに終止符をうてるような決定的な資料は見つかっていないこと位である。それだけでもスターリンの言動をを妙に具体的に描いた記述(ノモンハンの夏 半藤一利著)が有れば、それは著者の想像に過ぎないかもしれない、ということを知る事ができ有益とも言えるのだが。


マッカーシズム R.H.ロービア著 宮地健次郎訳 岩波文庫

映画"The Majestic"を観た後、その映画で取り上げられており、かつそれまで何度か他の本に出てきた「マッカーシズム」について知りたいと思った。たとえばThe best and the brightestにもマッカーシズムは顔を出すがその記述は「だれそれはこの嵐により傷ついた」とかいうものでそれが何であったのか今ひとつ解りづらい。そこでさっそくこの本を買ったわけだ。

この本の原題は「上院議員ジョー・マッカーシー」内容はマッカーシズムという現象よりもマッカーシー個人に限定されている。従って当初の「マッカーシズムについて知りたい」という私の目的からは多少はずれている。しかしいくつかの点で興味深い本だった。

冒頭の2章は「彼は何もので、何をしたか」という題名で彼についての総括的な内容が記述されている。そこを読んでいるうちに私の頭の中にはこれを書いている時点(2002年7月だが)で日本のマスメディアを騒がせている政治家の名前が頭に浮かんだ。田中真紀子である。無能で法律違反など意にも介せずかつ虚言をはきちらすこの政治家がなぜ「国民的人気」を博しているのか疑問に思っていた。この本を読みそうした現象は「民主主義」があるところ常に存在したのであり、1950年代米国のマッカーシーどころか古代ギリシャにまでさかのぼれる事を知った。そうした人間に与えられたデマゴーグという言葉の定義は

「口の軽い男、節度無く、激情に身をゆだね空虚な言葉で民衆を不幸に導く男」

だそうだがこの「男」というところを”人間”におきかえれば田中真紀子そのままである。この章に書かれている「下品な男」が人気を集めた理由の一つは以下のようなものである。

”支配権力が比較的上品な場合には下品さが大きな魅力を持つ”

はっきり物を言わない男達に政界が牛耳られている思っている人たちにとって、女性でありかつ内容は空虚でも「何か言っている」田中が人気を集めた理由が解るような気がする。

そこから本書はマッカーシーの生い立ちから”活躍”そしてその死についてのべ出す。そこには彼がいかに嘘ばかりついていた男だったが描かれている。その旗印であった反共にしても彼は何も事実をつかんでいなかった。ただ旗を振り回しわめいていただけだけである。そうした事は繰り返し本書の中に現れるが、ではそれがなぜ「自由と民主主義の国」アメリカで大きな力を持つに至ったのかはこの本を読んでも分からない。”現存する最も偉大なアメリカ人”と呼ばれたマーシャル元帥はマッカーシの攻撃を受けた。そして

”マーシャルはマッカーシーの奇妙な演説の後数ヶ月(国防長官として)在任したが、冬に辞任し、”

とあるがなぜそうなったかについては

”マッカーシーの非難の威力は大変なものであったから”

としか書いていない。読み進めるにつれ、田中真紀子との類似が正しいならば、こうした政治家の隆盛にはマスメディアが大きな力を与えたはずだと思い出す。するとそれはちゃんと書かれていた。正確に言えばそうした非難に対する”言い訳”が。少し長いが引用する。

なぜ新聞はこの嘘つきの嘘を報道するのか。(中略)それは、マッカーシーが公選による高位の職についていたこと、その発言が国内政治の中でかなりの重要性をもったこと、そして謎の証人が実在したり、(中略)可能性が常に存在したことによるものであった。

(中略)

 新聞が彼を嘘つきと呼ぶためには、誰かがかれを嘘つきと呼ばなければならなかった。

(中略)

かれの時代の二人の大統領のいずれかがかれを正面から非難する意志と力を持っていたとしたら、なんとかなっていただろう。

「ニューヨークタイムス」はかつて、あるマッカーシーの審問事件に関する同紙の報道の仕方をふりかえって、避けがたいことではあったが読者に大きな損害を及ぼしたということを承認した。

(中略)

「タイムス」は、結局これらの記事のどれにも一かけらの真実もなかったという結果になったことを認めた。しかし同紙はこれらの記事を掲載するより他に方法はなかったと弁明した。

「マッカーシー上院議員の非難を、それらは大ていうそだということが判明するからというだけの理由で無視するのは不可能ではないにしても困難である。対策は読者にとってもらうほかない」

いわんとしているところは私が解釈するにこういうことだ。メディアは「事実」を報道するのが使命。国政で高位にいる上院議員の発言を報道するのは義務とも言える。もしそれを嘘という人間がいればその言葉も喜んで報道しただろう。しかしそういう人間がいなかったから嘘を報道し続けねばならぬことになった。

マスメディアの言い訳というのはどこの国でもどこの時代でも似たようなものだ。私が観たところ彼らを動かしている行動原理というのは「利益の追求」である。つまり真偽などいっさいかまわず売れる物を報道するのだ。この推測に合致し、著者の”弁明”と矛盾する記述は本書のあちこちにでてくる。

マッカーシーが落ち目になってからの記述だが

マッカーシー事務所からの発表物は紙屑籠に直行し、(中略)譴責の後しばらくはマッカーシーはなおニュースであったし、もし攻勢を再開したらニュースでありつづけたことであろう。しかし、再び唯のカカシになろうしているウィスコンシン州選出上院議員のあとを追いかけることだけに満額の給料を払おうとする人はもういなかった。

上院議員様の発表が以前は大見出しで報道され今度は無視される。彼が依然として上院議員であったことを考えればこれは単に「売れなくなった」からとしか考えようがない。

私が「マッカーシズム」という題名に期待していたもう一つの内容はここでぼかしてしか書かれていない事柄だった。つまり事態の背景。何がただの幼児的嘘つき(またもや田中にぴったりの形容詞だが)が絶大な影響力を持つことを可能にしたのか。マッカーシー以外にも狂気の行動に加わった普通の人々はいたはずだが、彼と彼女たちはどのように考え行動し、今はその行動をどう考えているのか。

しかしこの本にはそうした事は書かれていない。あるのは

「マッカーシーは政治的な枝だけではなく、木全体をゆりうごかした。非政治的な枝の多くは弱かった。大衆娯楽の世界ーハリウッド、テレビ、そして、新聞の多くーがひどくひび割れた。映画やテレビの台本はしばしば学識ある人々の見当を受けて、マッカーシズムを怒らせるようなものをふくまぬように配慮された。」

といった抽象的かつ簡明な記述だけである。

これは本書の書かれた時代ーマッカーシーの死後2年ーにも関係しているのかもしれない。まだその残した傷は生々しく、それらを改めて言葉にしたりその影響を直視することができなかったのか。あるいは著者が本当にそう思いこんでいたのか。それはこの本だけからでは分からない。

本書に記載されている内容を読む限りではマッカーシーの台頭は我々が慣れ親しんでいる「民主主義」がいかに危うい物であるかの実証である、とも考えられる。(著者はその反対の主張をしているのだが)ヒトラーとの類似について引用されている言葉は興味深い。

「君もようやく分かっただろう、ある国民が煽動政治家を追い払おうと思っても、只いなくなってくれと念ずるだけでやれるようなものではないことが」

ヒトラーには狂った物ではあったがビジョンがあり、マッカーシーにはなかった。それ故彼らの破滅は違った道取りをたどったが、デマゴーグが両国で力を得るに至ったという事には代わりはない。マッカーシーにビジョンがあれば、彼は米国のヒトラー足り得たかもしれないのだ。(著者はそれに対して根拠のある反論をしていない)日本に首相公選制があれば、あの幼児的嘘つきが首相になっていたかもしれぬのだ。

などとあれこれ考えては観るが、私なりに答えを出すためには別の本を探すしかなさそうだ。

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注釈