題名:書評

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日付:2002/6/30

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Can Learn Something Part3

新宗教と巨大建築--五十嵐太郎著 講談社現代新書

何故この本を買おうとしたか?何かを調べている際に、この人が新宗教と建築について講演した内容をとあるサイトで見つけたのである。

以前住宅の屋根に関わる仕事をしたときに、高価なチタンの金属屋根を使った施工例として世界真光文明教団の本部が挙げられているのを知った。ああ、新興宗教は金を持っているに違いない。このような高価な材料を使って建築することができるものよ、と感嘆した。またある時は天理市に行きその異様な建築群に圧倒された。そのサイトにはそうしたトピックスについて興味深い話が掲載されている。これは是非この人が書いたという本を買わなくては。

買って読んだ結論としては「サイトだけ只で観ていれば良かった」である。理由は二つある。

一つ目。この人は文章が下手なのではないかと思う(私の読解力に対してということだが)似たような内容が変な形で繰り返されとても読みづらい。たとえばこんな部分がある

「また「あまり丈夫につくったら壊すのが大変だ」と語ったエピソードもある。実際は破壊された後に生まれた作り話かもしれない。だが真偽は問題ではない。この物語は信者にとってどういう意味をもつのか。おそらく、月宮殿の破壊を予期せざる不条理な外部の暴力に委ねてしまうのではなく、王仁三郎の言説空間に取り返すことが重要だった。ただ、受動的に壊されたのではない。すでにそれも彼は見通していたというわけだ。」P160

何度か読み返すと「こういうことが言いたいのか」とぼんやり解るが一読して意はとれない。こんな箇所ばかりだか「サイトよりはましな写真があるだろう」と写真ばかり追うことになる。しかし掲載されているのは小さな白黒写真ばかりで、サイトに掲載されていたカラー写真(小さくてぼやけているけれど)のほうがましな場合も少なくない。

2点目。冒頭と最後に宗教と争いについて述べたとおぼしき部分がある。以下引用する。

「だが、突如、アメリカを襲った同時多発テロによって、時計の針は予想以上に速くまわりはじめたようだ。冷静に考えれば、数棟の建築が倒壊しただけで、世界の意識を決定的に変えたのは驚くべき事である。それは映像によって崩壊のシーンが何度も繰り返され、人々のトラウマになったからだろう。」P225

この人にとって、同時多発テロとは「数棟の建築が倒壊しただけ」らしい。失われた人命について何の言及もない。読んでいて唖然としてしまった。この前後を読んでも「何を言いたいかはわからないが、何かを言おうとしていることだけはわかった」という感想しか持ち得ない。

サイトに書いてあった内容はその宗教の本を読んでもわからない客観的な教団発達の経緯を含んでおり、ああ、今はメジャーな宗教も始まりはこんなんだったのだろうな、と考えさせられたし、新興宗教の建築を評価の対象にする、という姿勢はとても面白いと思うのだけど。


「フェルマーの最終定理-ピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで」サイモン・シン 著 青木薫 訳 新潮社

この本は二つの意味で興味深い。

ある漫画に(わたせせいぞうとかいう人の書いたものだったが)フェルマーの最終定理に取り組もうとする数学者が解法が発表された事を知り失意に沈むというシーンがあったやに記憶している。そんなところからだろうか、その定理の名前、そしてそれが最近ようやく証明された、ということはぼんやり知っていた。

その起源は直角三角形の2辺の自乗の和が斜辺の自乗に等しいというピュタゴラス(ピタゴラスと習ったような気がするが)にまでさかのぼる。2乗ならば数千年前に証明されたこの式は3乗以上になると解がみつからなくなる。フェルマーは解が存在しないことを証明をした、と書いたが証明自体は書き残さなかった。(余白が足りなかったのだそうである)

その証明に何人かの人が取り組むが進歩はあるものの結論は得られない。数学自体も発展したり停滞したり、公理を定めそこから再び厳密に証明をくみ上げていく過程で

「公理的集合論が無矛盾性ならば、証明することも反証することもできない定理が存在する。」

というゲーデルの不完全性定理が発表される。解けないのではないかという可能性を感じつつも、数学の世界の中で孤立していると思われていたいくつかの領域間にかかった「橋」により新たなアプローチの方法が示唆される。

この本に書かれているのはそうした発展を成し遂げた人たちの物語。私は数学というものに大学の教養課程で挫折した人間である。何をいっているのかさっぱりわからない話に1時間半つきあっているのは実につらかった。高校時代一度しか居眠りをしたことがなかった男(家でよく寝ていたからだが)は授業の大半を眠ってすごすようになり、そのうち出なくなった。

従って数学というものには「さっぱりわからん」という意識があり、今まで極力関わらないように生きてきたのだが、本書に描かれている数学者たちの姿はどうだろう。数学を学んだわずか5年の間に爆発的な才能を見せ、決闘で命を落としたガロア、定理証明の重要な橋を造りながら不可解な理由で自殺した谷村。彼らと彼女たちを突き動かしているのは(たぶんそれだけではないのだろうが)証明をしたい、美しい数学を作り上げたい、という情熱のように思える。有名な4色問題(地図を塗り分けるのに何色必要か?)にコンピューターを使った力業の解法が発表された時ある数学者はこう言ったとある。

「なんだ、結局大した問題じゃなかったんだ」

本書の別の部分から引用すれば

数学者を駆り立てているのは応用の魅力ではない。数学者を奮い立たせているのは発見の喜びなのである。(中略)

数学の問題を解きたいと言う欲望に火をつけるのは、たいていは好奇心である。そして問題を解いた事へのご褒美は、パズルを解いたときのような、他愛のない、そして大きな満足感なのだ。数学者のE・C・ティッチマーシュはこう述べた「πが無理数だと知ったところで何の役にも立たないだろうが、知ることができるのに知らないでいるなんて耐えられないではないか」

今となってはおぼろげにしか思い出せないが、小学生のころ図形の証明問題を競って解いていたときの気持ちとはこのようなものだったかもしれない。10才の時出会ったフェルマーの最終定理に、8年をかけて(それが無駄になるかもしれないのに)ひたすら取り組み、そしてついに証明を完成させたワイルズ。その苦しみは本書に述べられている通りだが、仮にそれが失敗に終わっていたとしても私からすればそれはうらやましい事だ。子供の頃からの夢を追い続け、なおかつ生計を立てるだけの才を持っていたのだから。あるいは才がそうした人生に向かわせたのか。ガロアも谷村もそうした才がなければ天寿を全うしたのだろうか。しかし天寿とはなんだ。

そうした数学者達の他に、私はこの「出来事」を物語に「作り上げた」人たちにも感嘆せざるを得ない。この本はBBCで放映されたTV番組を元にまとめられた物なのだ。数学者達が実際に使っている言葉はたとえば本書にあげられている以下のようなものなのだろう

「(M)構造のガンマ・ゼロを加える」

「すべてのω-無矛盾で帰納的な論理式の集合κについて、Gen(υ,γ)もNeg(Gen(υ,γ))もFlg(κ)に属していない帰納的な単項述語記号γが存在する(υはγの自由変数である)」(前述のゲーデルによる第一不完全性定理)

この難解な概念を解りやすい比喩でもって語り、なされた「進歩」がどういう意義を持つのかを平易な言葉で説明する。そしてそれらを成し遂げた数学者達の人生を読者の興味をかき立てる形で織り込み、適度なユーモアも忘れない。

そう考えるとこの本、そして番組自体が私には傑作であるように思えるのだ。難解で抽象的な概念の世界で一つの偉業が成し遂げられる。それは確かに価値のあることだろう。しかし私のような人間にとってみれば、そうした偉業が持つ意味を解りやすく説明する、というのもそれに劣らぬ難しさと価値を持つことのように思える。

かくして本書を読んだ私はしばしの感嘆の後、我が身を振り返り沈黙する。沈黙すること自体不遜だと思いながらも沈黙せざるを得ないのだ。


「暗号解読-ロゼッタストーンから量子暗号まで」サイモン・シン 著 青木薫 訳 新潮社

この本の訳者あとがきに以下のフレーズがある。

「これを読んでおけば自力でエニグマ機を組み立てられるのではないか」とまで思わされた本は本書だけだった。

この「訳者あとがき」は前作(フェルマーの定理)の時もない方がいいと思ったのだが、このフレーズだけには同意せざるを得ない。

題名の通り知られている限り初めての暗号から量子暗号までが平易に解説されている。この「平易に」というのは相当の力業であると常々思っているのだが、この本を読んでそれを再確認する。日常なじみがない概念を比喩で説明しようと思えば、その本質を理解し、何が重要で何を省いてもいいかを的確に判断する必要がある。「解読不能と考えられていたエニグマは解読されました」と一文書かれるより、この本にあるように原理までを手短に説明しその上でいかに解読されたかを記述してもらうほうが遙かに分かりやすい。前作に引き続きこの点は実に見事だ。

内容の流れとしては、オーソドックス。それでも表に出て来にくい暗号開発に関わった人たちの物語(RSAと同じ暗号が英国で秘密裏に開発されていたというのは初めて知った)それに「読めない文章の解読」という点で共通する「古代文字の解読」も興味深く読めた。解説の見事さもさることながらそれらを行った人間の物語をしっかり書いているからだろう。

そうした点に感心しながらも前作ほどの感銘をうけないのは扱っている主題によるのだろうか。もっとも全ての作品を「フェルマーの定理」のように書かれてしまっては読者としてはうれしくても文を書く者(それが個人サイトであっても)にとってはたまらない、という気もする。

ちなみに巻末に載っている10の暗号を一番最初に解読したチームの物語も面白い。(http://codebook.org/codebook_solution.html)とくに著者であるサイモン・シンから最初の暗号解読者であることを告げられるところは。この電話がサイモン・シンからのものだとどうして言えるのだ。回答を横取りしたい他の人間がかけてきたのかもしれないではないか。正解を告げず、告げられずに電話の相手が回答を知っている自分達以外の唯一の人間であることをどうやって知るか。

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注釈

数学というもの:割と最近のことだが、物理とか数学とかそうした学問にはロジックの違いがあることにぼんやり気がつきだしている。本書の中にこのような比喩というか笑い話がでてくる。

天文学者と物理学者と数学者(とされている)がスコットランドで休暇を過ごしていたときのこと、列車の窓からふと原っぱを眺めると、一頭の黒い羊が目にとまった。天文学者がこう言った「これはおもしろい。スコットランドの羊は黒いのだ」物理学者がこう応じた「何を言うか。スコットランドの羊の中には黒い物がいるとうことじゃないか」数学者は天を仰ぐと、歌うようにこう言った。「スコットランドには少なくとも一つの原っぱが存在し、その原っぱには少なくとも一頭の羊が含まれ、その羊の少なくとも一方の面は黒いと言うことさ」

こういうことがもう少し早く頭の中で整理できていれば、もっと楽しく勉強ができたかもしれないのに。本文に戻る

傑作である:同じ主題に関して「図解で説明」というコンセプトの本が日本で出版されており、立ち読みしてみたがそれはとても読めた物ではなかった。説明を短くし、図を使えば解りやすくなる、などと誰が考えたのだろう。本文に戻る