題名:Berliner Philharmoniker Japan Tour 2004(2004/11/20)

五郎の入り口に戻る

日付:2004/11/27


開演は7時とのこと。溜池山王駅で降り、13番出口を目指してひたすら歩く。少し前この先の森ビルで研修を受けていた。そのとき確かに

「カラヤン広場」

という文字を目にはしていたのだが、それが何か考えたこともなかった。今日はそこに行くのだ。

階段を上がると、夕暮れの暗さの中に人々が立っている。周りの照明が穏やかに彼らを照らしている。まだ開場していないらしい。階段のような場所に腰を下ろす。「チケット譲って下さい(私が入場します)」という紙を持った人「安いチケット譲って下さい」と書いている青年もいる。集まっている人たちの姿をぼんやりと眺める。皆落ち着いた感じで静かに楽しみにまっている雰囲気が伝わってくる。

何か音がすると思えば、入り口上部で何かが動いている。鍵盤が動き人形が踊る。その動きも音楽もとても落ち着いている。同時に入り口が開いたようだ。列に並び始める人もおり、あるいは音楽を聞いている人もいる。私はしばらくそうした光景を眺めた後列に並んだ。

ここから私の役に立たない強迫観念が顔を出し始める。チケットと思って手に握っている物は本当に今日のチケットなのだろうか。入り口のお姉さんに「申し訳ございません。これでは入場できないのですが」と言われたらどうしよう。いや大丈夫。列に並んでいる人たちが持っているのも同じような紙片ではないか。とはいっても私のだけには透明インクで

「外れ」

とか印刷されているのかも知れない。そんなことがなかったとしてもここからあのお姉さん達に渡すまでに落としたらどうしよう。

などと考えているうちに何のことはなく中に入った。2階に上がると自分の席を探す。ここは舞台を取り囲むように客席が設置されているらしい。自分の席を見つけるとあたりをあれこれ探検する。舞台の後ろからはどのように見えるのだろうかなどと考えながら一回りする。

私の席は左手やや後方。両脇には年齢が何歳とも知れぬ(たぶん私と同じくらいだろう)男性が座った。舞台の上では巨大な弦楽器の人たちが何かしていたがやがて引っ込む。皆が座るといよいよ開演である。

私はクラシックのコンサートに来るたび、どれだけ拍手すべきなのかと思い悩む。演奏の前にもたくさん拍手すべきだろうか。披露宴じゃあるまいし、皆が席に着くまで拍手を続けねばならぬものだろうか。終わってからはさらに悩ましい。例えば舞台の袖にいた指揮者が出ようとしたその瞬間拍手が下火になってはとてもきまずかろう。しかし腕が疲れるしどこで拍手を止めて良いのだろう。

とにかく好きな時に拍手すればよいのだ、と聞いてからはそうしたことは一切考えないことにした。というわけでぱちぱち手を叩いた後はじっと舞台を見つめる。大きな拍手が起こったと思ったらコンサートマスター、次には指揮者の登場である。

ここにくるまでの間、そして座ってからプログラムを読んであれこれ勉強していた。そしていくつかの記述に驚いていたのだが、それは後ほど述べることにしよう。この指揮者は数年前に着任したばかりとのこと。白髪と明るい笑顔が遠くからも見て取れる。オーケストラの方を向くとやおら演奏が始まる。

この日のプログラムは以下のようだった。

ハイドン 交響曲第86番 ニ長調

ワーグナー 歌劇(トリスタンとイゾルデ)より「前奏曲愛の死」

ブラームス 交響曲第2番 ニ長調

聞き終わって解った事だが一曲も聴いたことがある曲はなかった。そうしたこともあって個々の曲がどうだとかいうことを書くことはできない。しかし覚えていること、考えたことはいくつかある。

最初の曲が始まってしばらくした頃、フルートの音色が鳴り響く。驚いて舞台を見つめるとフルートは確かに一本だ。今の音はあそこから発せられたのか。その力に驚く。その後何か木管楽器らしき音が響いてくる。えーっとこれは、、消去法で行くとファゴットらしい。どかーんと長い木管が何本か並んでいる。あそこからこの音がでていたのか。しかしその音はこれまでに聞いたものとはどこか違っている。

などと考えながら舞台をひたすら見つめていた。指揮者の動きを見る。時々完全に動きを止めている。その間はオーケストラに任せているのだろう。時々ポイントと思える部分で腕を振る。オーケストラに向かって腕を差し出す。それに答える演奏。緊迫した時間が流れ、あっというまに一曲目は終わった。

二曲目に移るところで演奏者がどっと増える。歌劇の前奏曲だけあり、一曲目より起伏に富んだ音が流れ始める。舞台にたくさんの演奏者がいる筈なのだが、何かとても変な感じがする。音はオーケストラというよりは一つの楽器といおうか集合体から響いてくるよう。パンフレットにあった「地下からわき出てくるような伝統の音」に驚き、そしてたくさんあるはずの楽器から奏でられる音が異常にそろっているのに驚く。直立している巨大な弦楽器(後で聞いたらコントラバスというのだそうだが)が一斉に弦をはじく。その音は私が知っていた弦楽器の音とは思えない何か別の物のように聞こえる。

そうした演奏を聴いているうち、パンフレットにあった以下の記述が思い出された。

[音楽監督 ラトルへのインタビュー]

ーベルリン・フィルを最初に振られたのは、マーラーの交響曲第6番でした。その時の印象はいかがでした?

ラトル:まず最初の大きな恐怖を乗り越えたとき、私の持った印象は「何百頭もの”人喰い虎”のいる檻を開けてしまったな」ということです。(笑)実際それは正しかったのですが、同時に「世界で最大の弦楽四重奏を相手にしている」とも思いました。

まとまればあたかも一つの音のように響く彼らと彼女たちの演奏は確かに「世界で最大の弦楽四重奏」と言うにふさわしい。

オーボエの音が響き渡る。いや、それがオーボエと解ったのは例によって舞台を観て消去法を使ってからのことだった。つまりソロで響くその音は私が知っているオーボエの音とはどこか異なっているのだ。彼らと彼女たちはソロをやらせればまた卓越した音を響かせる。指揮者が最初に直面したであろう恐怖、そして何百頭もの「人喰い虎」とはこの演奏者達と対峙してのものだったか。もう一カ所パンフレットから引用する。

ヴィーラント・ヴェルツェル(主席ティンパニー奏者)

指揮者というのは何かをしなければならないのです。よい考えを持ち、理論的であり、オーケストラを説得できねばならない。指揮者がオーケストラを怖がってオーケストラを説得できないならば、その指揮者はステージから去らなければなりません。私たちに本当に興味深いことを伝えられれば、私たちはその通りにします。

オーケストラと指揮者のこの緊張した関係。目の前にいる(遠くに居るはずなのだがどう思えるのだ)ラトルは内からあふれるエネルギーを感じさせながら指揮を続けている。

2曲目が終わり休憩となった。このホールは大変すばらしいと思うが一つだけ明白な欠陥がある。トイレの数が少ないのだ。2階には一カ所しかない。男性はまだ良いが女性用トイレには長蛇の列ができている。はたして20分の休憩時間中に全ての列がなくなるのか不安に陥るほどだ。

再び着席すると3曲目。どこかに貼ってあった紙を観るとこれが一番長いらしい。始まると同時に背筋を伸ばし視線を舞台に向ける。理論的にはここから舞台の後ろにいる観客の姿も見える筈なのだが、それは意識にはいってこない。途中でホルンのすばらしいソロがある。私は小学生の時ホルン吹きの少年であった。であるからして細かいことは全くわからないが

「とてつもなく上手だ」

ということだけは解る。オーボエがまた印象的な音を奏でる。この曲だったかその前の曲だったか覚えていないが最後に音を長くのばすところで音がちょっとひっくりかえった。たぶんホルンだと思う。ある本にはこんな一節がある。

「大事なのは、生涯にどれだけの人を祈らせたか、なのだ。神父よ。おまえが働いているとき、その場に居合わせた人は何をしていたか。たいてい、居眠りをしていただけではないか。ここにいるホルン奏者をみろ。この男が「仕事」(演奏」をしているとき、その場に居合わせた人は、みんな、ただひたすら(音がはずれないように)祈っていた」

うむ。ベルリン・フィルにあってもやはりホルンの音色は人を敬虔な祈りにいざなうものであるか。

この曲ではトロンボーンの出だしが少し気になった。そろっていないように聞こえたのもあるし、音色が今ひとつのように思えたこともある。しかしそれは些細なことだ。いくつもある「圧巻」な点のうちの一つは静かにしっかりした音で続くピアニシモ(あるいはpppppあたりかもしれない)から圧倒するような音量でひびくフォルティシモ(これまたfffffかもしれない)にわたる信じられないほど広いダイナミックレンジだ。先日カラヤン指揮、ベルフィンフィルの組曲「惑星」をCDで聞いた。その時にも火星の出だし、小さな音で響く弦の音から唖然とするほどの力で迫ってくる音量までの差異に驚いた物だが、今はそれを目の当たりにしている。

気がつけば拍手が鳴り響き演奏が終了している。もう終了なのか。知らない曲ばかりなのにこれほど短く感じたクラシックのコンサートは初めてだ。何度目かに指揮者が出てきたときホルン奏者を真っ先に立たせた。私の右隣に座った男が

「ブラボー」

と叫ぶ。思うにこの男自身ホルン奏者なのではあるまいか。私は今ひとつ「ブラボー」というかけ声になれていないものだから、ロックのコンサートのノリで「ひゅー」とかなんとか声を上げていた。周りの人はきっと演奏に感動していただろうから私の妙な声に気がつかなかったと固く信じる。肩が痛くなったが手を叩き続ける。この演奏を聴いて他にどうするというのだ。アンコールがあるかと思ったがそのままオーケストラが引っ込み始めた。

それを見た瞬間私は出口に向かう。帰り道が混むことに異様な恐怖感を抱いているからだ。しかしそこかしこにあるモニターからはまだ拍手の音が聞こえてくる。帰り道ではいろいろな人の話し声が耳に入る。こういう演奏が日本で聴けるのだから、と言った人がいる。今晩のチケットは数万円したのだが、聞くところによれば、ドイツであれば数千円で聞けるとのこと。しかし今日の演奏はまさしく日本での値段に値すると思う。何も知らない私でさえそう思うのだから少しく知識の有る方はどのように思うのだろうか。ここでもう一カ所パンフレットから引用する。先ほど引用した主席ティンパニー奏者が何故ベルリンフィル入りを目指したのかという質問に答えた部分だ。

「ハンブルグでベルリン・フィルの演奏会がありました。そこで聴いたのが、私にとって初めてのライブのベルリン・フィルでした。打ちのめされましたね。アバドがマーラーの交響曲第6番を振ったんです。これこそがオーケストラが鳴らすべき音であり、音楽に反応するあり方なのだと感じ入りました。ベルリン・フィルの仕事を取らねば、と心から思いましたよ。」

電車に中では少し頭が普段の生活に戻ってくる。指揮者とオーケストラの関係は会社での上司と部下との関係とは大違いだなあ。上司は部下の理解など得る必要はなく説得もすることはない。どんな馬鹿げたことでもただ命令するだけだ。ああした関係は世界でもトップの演奏者が集まるオーケストラだからできることかもしれないけど。

などと考えていると気が滅入ってくる。他の事を考えよう。知らない曲ですらこれほど感銘をうけるのだから、もしあの指揮者、オーケストラがベートーベンの5番、9番、ホルスト惑星、etc..を演奏したら、それを目の当たりにしたらどうなるのだろう。


注釈