題名:私のMacintosh

Pre-Historic Time

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日付:1998/1/25

改訂:1998/6/15


Pre-Historic

私が初めてMacintoshにふれたのは1984年、すなわちMacintoshが発売された直後にまでさかのぼる。

私の出身学科は機械工学科である。しかしながら私が研究室でやっていたことは、材料の試験でもジャイロの解析でもなかった。当時私が所属していた研究室はCADを専門としていたこともあり、情報工学関係にも皆の興味が向かっていたのである。私が卒業論文に選んだテーマは「教育用CADシステムの研究」というもので、当時ようやく一般的になってきていたPC-9801(何も記号はつかない)の上で、3DソリッドモデラーをC言語を使って作成することを目標としていた。

さてソリッドモデラーを作るというと聞こえはいいが、そのプログラムの中心部分はほとんどその前の年の人が作っていたのである。私の卒論はそれにユーザーインタフェースをつけて、誰にでも使えるものにしよう、というものであった。そのモデルを作った人はなぜか留年してまだ研究室にいた。そして彼はコンピュータ関係に異様に強かったのである。

毎週一回研究会と称して研究室全体のミーテイングがもたれた。ある日そこに私が指導を仰いでいた人(TZとしておこう)が「友達が買ったので。。。」と言ってMacintosh(これまた何も記号がつかないもの)を持ってきたのである。

まず電源を入れると、画面の中央にコンピュータの顔が出てくるので驚いた。次に立ち上がってもどこにも黒いコンソール画面とカーソルが表示されないのに驚いた。当時のMacintoshはRAMは128KBしかなく、かつハードディスクもなければフロッピも1台しかなかった。(その容量も400Kくらいではなかったか)しかしそこで立ち上がるソフトウェアは当時の私にとっては驚異的なものだった。

当時MacPaintとMacWriteがバンドルされていたはずである。MacPaintは投げ縄ツールで領域を切り取って移動できることに驚いた。MacWriteはフォントを自由に変更でき、かつ斜体にしたり、影をつけたり、イタリックにできることに驚いた。おまけに操作をするのに何一つ呪文を唱える必要がないのである。すべてのコマンドはメニューから選択するだけである。

1台のフロッピと128KBのRAMでシステムとアプリケーションの面倒をみることは当時の小さなソフトウェアであっても容易なことではなかったにちがいない。従ってデモの最中に何度かフロッピを入れ替える必要があった。しかし基本的にその指示はすべてコンピュータの側から「あれを入れろ、これを入れろ」と表示されたのである。そしてTZはデモの最中に「システムが言ってくるとおりにやっていれば問題ありませんから」と言った。

 

その日体験したすべての驚きの中で、これが一番大きな驚きだったかもしれない。当時のPCはとても「偉い」ものだったのである。彼は傲慢にふんぞりかえって座っていた。彼らは基本的に寡黙であり、我々が彼らに話しかけようと思えば、彼らにとって都合がよく、人間にとっては覚えづらい呪文をたくさん覚える必要があったのである。また何か問題があったとしても、「これをこうしてくれませんか?」などと彼らは言うことはなかった。せいぜいが「エラー」と言って黙りきるだけであった。従ってこちらで彼のご機嫌を推察して適当に処置して「差し上げる」必要があったのである。ましてやシステムを信頼して、言われたとおりに(仮に彼が何かを言ってくれたとしての話だが)フロッピの抜きさしをするなどというのは、あまり魅力的なオプションではなかった。

そしてコンピュータを使いこなす、ということは、どれだけ彼の方に歩み寄れるか?ということと同義語であった。それができなきゃ、さわらないほうがいいよ、という雰囲気さえ公言してはばからない人がたくさんいたのである(今でもたくさんいるような気もするが)

なんと。このコンピュータは人間に歩み寄っているのだ。。。このシステムを作成するのにどれほどのマンパワーが費やされたのだろう?当時の私はそのことを正確に想像できるほどプログラミングに経験があったわけではない。しかしそれが膨大な時間と才能をそそぎ込んで作成されたものであろうことは想像がついた。

 

正確に言えば、Macintoshが最初に私がふれた「マウスとメニューを使用した」パーソナルコンピュータシステムではない。当時の研究室にはIll-fatedのPC-100というコンピュータが存在していた。NECから発売はされていたものの、PC98よりもはるかに「進んだ」考え方をもったコンピュータであった。マウスを標準で使用しており、お絵かきソフト(エアブラシと言った)、ワープロソフトもそろっていた。そして発売はMacintoshよりも早かったのである。その「着想」の先見性は注目されもいいかもしれない。

しかし注目できるのは先見性だけであった。着想が似ていてもその目標の高さ、ソフトの熟成度、個々の機能についてどこまで考えられているか、という点からすれば、「月とすっぽん」あるいは「インディアナジョーンズとゴジラ対モスラ」というくらいの差があったのである。「たいてのことは極めなくては芸にならない」という信条が当時あったかどうか覚えていない。しかしおそらくこの信条をこの二つのシステムの比較に当てはめるのは不適当ではないだろう。

Macintoshを見るまでは、私が卒論で作成しようとしていたプログラムのユーザーインタフェースはPC-100の上のソフトに毛が生えた(あるいは抜いた)ようなものだった。それがこの日のデモで一変したのである。画面のデザインは上部にメニューがならび、プルダウンメニュー(もどき)を使用したものになった。(もっともデモの時しかMacintoshをみれなかったので、ダイアログボックスなどの考え方はまねできなかったが)

それとともにあのようなGraphical User Interfaceを実現することがいかに大変なことであるか、を実感した。テキストベースでコマンド入力ルーチンを作っているほうがずっと楽だ。なるほど世の中のコンピュータがなかなかそちらに向かわないわけだ。。「使う人間」ではなく「作る人間」の都合を優先すれば、誰がGUIなど作るもんか。

などとぶつぶつ言いながらも卒論に取り組んでいる間は楽しかった。自分がどのような新しいシステムをつくるかに考えをめぐらすことができたからである。若くて元気いっぱいの五郎くんには、膨大な量のコードも気にはならなかった。入力を便利にするだけでなく、ユーザーからの問い合わせにできる限り親切に答えるシステムができないか?と考えたのこもこのころこである。「だめ」と言ってだまりこむんではなく、「ここがこうだからあきまへん」と親切に言ってくれたほうが、システムを使う人間も気分がよかろう、という観点からである。(研究室の先輩に相談したら、当時のエキスパートシステムの代表的な答弁の例を見せられたが)

 

毎日学校に行く間に「どんなシステムがいいのだろう?」と、いろいろ考えた。そしてMacintoshをみたとこから、「パーソナルコンピュータとはユーザーインタフェースの良いデータベースであるべきだ」と考え始めた。個人がさわるたくさんの種類の情報、それが容易な操作でひきだせたらどんなにいいだろう。そしてMacintoshはその可能性をかいま見させてくれたのである。

とはいっても当時は手元にMacintoshはなかった。とても高かったから、学生の身分で買えるものではなかったのである。だからコンピュータを買って「自分で好き勝手に何かする」のは自分が就職して給料をもらってからのお楽しみということにした。(とにかく就職すれば給料というものがもらえて、何でも買えると思っていたのだ)

さて上記のようなことを考えていたとき、私の学生生活はあと2年以上続くはずであった。(少なくとも私の都合では)ところがぎっちょん。私は大学院の入試に落ちてしまった。そして幸か不幸か「給料をもらう機会」は自分が考えていたよりもずっと早く来ることになったのである

 

さててんやわんやのうちに、私は会社で働く身分となった。最初の数ヶ月は研修である。新入社員の頃というのは元気もあまっているし、毎日定時で帰れるから時間もある。ある土曜日か日曜日か忘れたが私は栄(名古屋の中心街)にあるコンピュータ屋に向かった。Macintosh購入の可能性を探るためである。

さて自分がどうやってそのコンピュータ屋を見つけたか定かではない。当時は量産家電店でMacintoshが買えるなんて時代ではなかったのである。Macintoshにさわろうと思ったら、まずMacintoshを扱っている店を探すところから始める必要があった。

狭い店にはいってひとしきり雑談を交わした。相手はなぜか若いお姉ちゃんである。ワープロも使ってみた。多少文字が大きい難はあるが、結構つかえる。そこで肝心な「でもっていくらですか?」という質問になった。

機種は「日本限定」モデルのDyna Macである。512Kマックに漢字ROMをつっこんだものであったらしい。(実のところよくわかっていない)それにStyleWriterと増設フロッピディスクドライブをつけたと思う。値段はおよそ80万を越えていたと記憶している。就職して給料というありがたいものをもらう身分になった私にもその値段はちょっと躊躇してしまうものであった。

「分割払いはありますか」とかなんとか聞いたりしたが、結局結論はかわらなかったのである。

結論-「まだMacintsohは私の懐のレンジ外にある」

それからその店の若いお姉ちゃんから(というか店から)暑中見舞いが来たりしたが、とりあえず個人でコンピュータを買う話は沙汰やみになったのである。

 

 

さて時は流れて1988年になる。私はとある社内の研究をやることになっていた。それは早い話が当時はやりだしていた「大戦略」のような「戦闘シミュレーションプログラム」を作ろう、というものだった。そしてこのことが、一度はつながる見込みがない、と思われた私とMacintoshの間をつなぐことになったのである。

それまで私は個人的に妙にオブジェクト指向にいれこんでいた。きっかけが何だったかよく覚えていない。たぶんある雑誌でオブジェクト指向のすばらしい解説を読んだのがきっかけだっただろう。さて当時はオブジェクト指向言語と言えばSmalltalk-80だったのである。そしてSmalltalkに向いた用途としてシミュレーションがあげられていた。

さて、もう一つ好都合の要素が存在していた。当時の私の上司はコンピュータ関係が好きなひとであり、、彼は自分でMacintosh SEを持っていたのである。同じ時期に上位機種としてMacintosh II が発売されていたが、これはどう逆立ちしても○○重工のサラリーマンの懐ではまかなうことができないような代物だった。しかし彼は隙あれば会社の金でMacintoshを買ってやろうとたくらんでいたのである。

ここに最後のMissing Linkが登場する。SmalltalkがなんとMacintsohII上に移植されるというニュースがあった。これですべて役者がそろった。私と課長が陰謀をはりめぐらして戦闘シミュレーションプログラムをSmalltalkで作成する。そのプラットフォームとしてMacintoshを購入する、という計画をまとめたのである。

ここである人は疑問に思うかもしれない。Macintoshを買うのになぜ「陰謀をはりめぐらす」必要があったのだ?と

答えはこうだ。当時私が働いていた○○重工の航空宇宙部門では、「世界最高水準の機能を持った」(と臆面もなく各コンピュータ雑誌に発表した)IDEAシステムという「カス」のようなシステムが導入されていて、IDEAシステム以外のコンピュータはいかに正当な理屈を付けようが、データを示そうが購入がきわめて困難だったのである。

このIDEAたるや、それまで「オフコン」という不思議な名称で呼ばれていたコンピュータになぜか当時流行始めていた「EWS(Engineeriing Work Station)」という名称を付けた代物で、LANDESKというこれまた驚異的な「統合ソフト」が付属していた。どこの会社でも一度は災難にあったことがあると思うが、「カタログの上ではなんでもできる。実際上はなんの役にも立たない」システムだったのである。

しかし○○重工は常に実質よりも建前を優先させる組織である。これは当時の私は気が付かなったことだが、私はものの考え方を完全に誤っていたのである。システムが仕事で役に立たないから、システムは「悪い物である」と考えていたが、これは「誤った考え方」であった。

IDEAシステムに数億の金をつっこんだというのであれば、それが「悪いもの」であるはずがないのだ。○○重工業が雑誌に「世界最高水準」の機能を持っている、と言っているんだから「世界最高」のはずだ。「システム」がいいものか悪い物かは、「組織」がどのような「定義」を与えたか、ということで決定されるである。「組織」は決して間違わない。その「システム」が仕事の現場で漬け物石になっていようが、人の足をひっぱる存在となっていようが、そんなことはなんの意味も持たないのである。

そのカスのようなコンピュータに数億の費用と労力をつぎこみ。。。そして私が退職した際に働いていた別の事業所ではこのコンピュータをなんと1997年まで使用していた。これが「大成功を納めたシステム」でなくてなんであろうか?

 

当時、コンピュータ購入を申請する際にまとも「Macintoshのほうが作業効率がいいです」などと言おう物なら、あっさり門前払いを食らった。「定義」によって、IDEAシステムは世界で最高のシステムなのだ。何故Macintoshなどというあやしげなコンピュータを買うのだ?信じてもらえないかもしれないので例を上げておこう。

昭和63年から平成元年にかけて私は「腰巻き小物入れ」というプロジェクトに従事していた。このときの客先は米国政府であり、レポートは最終的にMacintoshのディスクで収めるように要求されていた。(当時は図表の入った書類を作るのはMacintoshの独壇場だったのだ)

さてこれでMacintoshを会社の金で購入できる、と考えた私は甘かった。当時の私は今回は「神様であるところのお客様のご要求」という錦の御旗がある、と愚かにも考えていたのである。

勇躍購入申請を書いてあちこちの大量の「審議会」をかけずり回った私の耳に入ってきたのは次のような言葉だった。

 

「当所はIBMのパソコンを入れている。Macintoshを買うと系統の違うものがはいることになるので好ましくない」(別にIBMのパソコンがIBM専門のLANに接続されていたわけでもないのである。IBMのメインフレームの端末にしたい、という意味ならばMacintoshでもできますよ、と言ったのだが当然のことながら全く聞いてもらえなかった。彼らが気にしていたのは”ネットワークに接続できるか”という具体的な問題ではなく、”当所はIBMで統一する”という神聖な信仰だったのである。)

 

(今回チームを組む米国企業はみんなMacintoshで資料を作ってますよ、という説明に対して)

「当社が主契約社なんだから、米国の企業にIDEAシステムを購入させればいいじゃないか」

この言葉を聞いた私はそれからしばらくLockheedやボーイングという航空宇宙産業の世界一流企業相手に、カスのようなオフコンの購入を依頼する悪夢にうなされることになった。

 

さてこの状況でどうやってMacintoshを(SE一台、II一台にレーザープリンタ付き)調達したか?これに関してはまだ公共の場で述べることはできない。しかしとにかく購入ができたのである。

さてさっそくそれらのコンピュータは本来の戦闘シミュレーションプログラム作成の他にも日常の業務に活用されるようになった。たった2台であるから皆に使ってもらえないのが残念であったが。。。ほかの人たちは依然として「世界最高のIDEAシステム」でばりばりと無駄時間を使って資料を作らなくてはならなかったのだ。

最初に私がMacintoshの前に座ってMacDraw(MacDrawIIではない)で資料を作り始めた時のことを今でも覚えている。まず後ろに2-3人のひとだかりができる。当時はコンピュータの画面と言えば黒いバックグラウンドに文字が浮かんでいるものだったから。みんなが驚きの声をあげたのも無理はない。ちょうど1984年の私のように。

そのうち、誰かが妙な蘊蓄をたれはじめる。「MacintsohというのはIBMが嫌いな人たちが集まって作ったもので。。。」とかなんとかかんとかである。ことコンピュータに関しては蘊蓄をたれる人を見つけることは全く問題がないくらい簡単である。そしてその容易さと反比例して、本当に拝聴するに当たる蘊蓄をたれる人は滅多にいない。

さて人の蘊蓄など脇に置いて、私はMacintsohを使うのに忙しかった。そしてすぐにもう「世界最高システム」を使う必要はないという結論に達した。何せ「世界最高システム」で数時間かかってもできないことが、またたくまに可能となるのだから。

そのときのハードウェア緒元を記載しておくのも興味深いかもしれない。Macintosh-IIはRAM 8Mb, HD 40MB, Monitor 13inch 、CPU 68020 @ 16MHzであり、Macintosh-SEはRAM4MB, HD 20Mb, Monitor 9 inch cpu 68000@8MHzであった。CPUはともかくとしてこの時代から一番大きく増えたのはHDだという気がする。

さて私が最初にMacintoshを買うのはその次の年、平成元年の末になる。それまで、特に平成元年の3月までは、私は本来のMacintosh購入目的であるところの戦闘シミュレーションの作成に忙しかった。当時はとてつもなく元気だったので、毎日9時まで仕事をして、プログラム作成は、朝7時に出社してから8時までの1時間、昼休みの1時間、午後7時からの休憩30分で行って、おまけに休日も(もちろん無料で)出勤してごりごりプログラムを書くあり様だった。

人間自分が好きなことをしているときにもっとも力を出す、というのは私の多々ある信条の一つだ。当時の私はまさにその状態だった。嫌いな仕事をしているときの「用がなければ帰ります。休日に出勤はごめんです」とえらい違いだ。

 

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注釈

卒業論文(トピック一覧参照):思えば卒論を書いているときはとても楽しかった。。。自分が好きなことを勉強できると言うことほど楽しいことはそうたくさんない。  本文に戻る

 

何も記号はつかない:ようやく1997年の末にいたって、世界に冠たる奇妙なコンピュータPC98の歴史は幕をとじることになった。いったい98シリーズというのは何種類存在したのだろう?私が卒業するときにはE,Fとかいうシリーズがでてきたころだった(当時はまだアルファベット一文字で識別が可能だったのである)

当時日本人以外に日本のコンピュータ事情を説明するのは大変だった。「日本は世界で唯一IBM-pc compatibleがDominateしていないマーケットだ。日本でPCと言えば別の変なコンピュータを意味する。全く性能的には特徴がないがなぜかシェアを獲得している」という説明を延々としなければならなかった。 本文に戻る

 

友達が買ったので:今のようにそこらへんの家電量販店でMacintoshを売っている時代ではない。個人輸入も難しかった時代である。販売まもないMacintoshを大枚払って(たぶん70万以上はしただろう)手に入れるというのは、相当好きな人だったのだろう。本文に戻る

 

容易なことではなかった:増設の外付けフロッピドライブが必須とされていた時代である。今では(1998年)標準でフロッピを2台持っているパーソナルコンピュータを見つけることは結構難しいのではないだろうか。本文に戻る

 

ワープロソフト:なんとこれは一太郎の先祖なのだそうである。当時の研究室ではこのワープロとpc98上の「松」が両方使用されていたが、どちらかといえば松のほうが評判がよかった。

ちなみにPC-100はロードランナーというゲームのマシンとしても研究室で人気があった。本文に戻る

 

インディアナジョーンズとゴジラ対モスラ:ここで言っている「ゴジラ対モスラ」は昭和の時代に制作されたものではなく、平成の時代に制作されたほうである。この映画を見られた方はご存じと思うが、映画の冒頭、主人公が宝物を探しにいって、数々の罠にはまって命辛々逃げ回るシーンがでてくる。この記述を読んでわかるとおりインディアナジョーンズシリーズにでてくるシーンの模倣以外の何物でもない。

しかしその緊迫感、迫力、おもしろさ、などは本家インディアナジョーンズとは比べものにならない。お手本があり、かつそれを恥も外聞もなくコピーしているのになぜこれほどまでにつまらない映像が撮れるのか?私はこのとき「日本人は映画をつくるのに本質的に向いていないのではないか?」という疑問を真剣に抱いたものである。本文に戻る

 

たいてのことは極めなくては芸にならない:(トピック一覧)これは類似の「なんでも極めれば芸になる」という信条と対になっている。本文に戻る

 

ユーザーインタフェースの良いデータベース(トピック一覧へ:今から考えてみればPDAが私が考えたものに相当するのかもしれない。ちなみに最初にPDAをみたときの感想は「これはネットワークにつながれなくてはならない」であった。

当時はまだインターネットのようなネットワークに接続することで、「ユーザーインタフェースの良いデータベース」が一台のコンピュータ、一人の人間の管理できる知識の範囲を超えて無限に広がっていく可能性には全く気がつかなかった。本文に戻る

 

ワープロも使ってみた:このとき使ったワープロがどのようなソフトだったか覚えていない。覚えているのは私が打った文句である「朕深く帝国の現状と世界の多勢いにかんがみ。。」で始まる終戦の詔勅である。なぜこんな文章を選んだのか定かではない。本文に戻る

 

沙汰やみになった:正確に言うと、このとき私はMacintoshか、あるいは98の差新機種(確かこれは98とのコンパチビリティを少し犠牲にした機種だった記憶がある)のどちらにしようかと考えていたのである。当時は「解像度が高くて、色がたくさんでるコンピュータが偉い」という風潮があった。そしてこの98もどきは結構高い解像度を誇っていたのである。本文に戻る

 

MacintsohII上に移植される;今では考えにくくなってしまったが、当時は新しい先進的なソフトウェアが稼働するのはMacintoshであり、IBM-PC及びそのコンパチ機ではなかったのである。PCはまだ MS-DOSの制約である640KBのメモリの壁、というものと遊んでいる時代であった。そしてウィンドウズが存在していたかどうかしらないが、それはMacintoshと比較になるようなものではなかったのである。状況が変わったのは1990年にWindows3.0が発売されてからのことであった。本文に戻る

 

カス」のようなシステム:N5200というオフコンがこのシステムの正体である。フロッピがすべての「オフコン」に2台ついているが、同時に2台使用することができない、というすばらしいコンピュータだった。

一度Macintoshと同じ書類を作って作成時間を比較したことがある。IDEAシステムを使用した場合Macintoshの4倍の時間を必要とし、かつできあがったもの見栄えは比較にならない、というのが結論だった。このデータを使うと職場にMacintoshではなくIDEA が20台導入されたとすると、月に数千時間の「無駄」時間が生まれる、という結論が得られた。もちろんこんな「心からの訴え」は誰にも聞いてもらえなかったが。本文に戻る

 

EWS:EWSが山のように導入される、と聞き当時の私は驚喜した。なかなか○○重工もやるではないか、というわけである。その興奮も試験的に導入された最初の「ワークステーション」に座って5分たつまでのものだったが。最初に私がワープロで打ち込んだ文章は「こんなものがワークステーションと名乗ることすらおこがましい」であった。本文に戻る

 

常に実質よりも建前を優先させる組織:(トピック一覧参照)どの会社でも同じだと思っている人もいるでしょ?○○重工はひと味違いますよ。経験者が言うんだから間違いない。 本文に戻る

 

腰巻き小物入れ:(トピック一覧)米国政府から受注したシステムスタディ。当社が主契約社となり、日米の航空宇宙企業7社のチームで取り組んだ。本文に戻る

 

人間自分が好きなことをしているときにもっとも力を出す:(トピック一覧参照)強制されてやっている最中に、その良さに気がつくと言うこともあるかもしれない。しかし所詮自分でやる気をださなくてはいい仕事はできない。本文に戻る