題名:しらかわシンフォニア2000-2002

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日付:2001/7/5


縁があって

「しらかわシンフォニア2000-2002 第2章対峙する響き-静と動」

というコンサートに行くことになった。題名は長いがつまるところ名古屋にあるしらかわホールというところで行われる現代音楽のコンサートである。縁があって行くので招待券で楽楽である。ただより高い物はない、という言葉もあるが、お金を減らさない招待券はやはり素敵である。

ここ数日日本を覆っている高温の中をよたよたとしらかわホールに向かう。開演は3:00だが開場は2:15.なんでも2:30からは本日演奏する曲の作曲家二人+アドバイザーが語るのだそうだ。最初は

「語りなんかどうでもいいから、のんびり3:00から」

とか思っていたのだが、いつもの脅迫神経症のおかげで、開場時間よりも早く2時についてしまった。喫茶店でもいって時間をつぶそうかと思っていたがあたりを見回した私はその計画をあっさり中止した。

そもそも私は現代音楽を聞いたことがない。というか現代音楽なるものがどんなものかよくわかっていない。断片的に

「ぎょわーくいーくーくーーーーてててててて.....................てててて」

という曲なんだかなんだかよくわからないものを聞いたことがあるので、あれがそれではなかろうかと漠然と考えているだけである。しかしもしClassicではなく最近作られた曲が全て「現代」音楽であるならば、映画音楽だって現代音楽。5月6月と二月に渡って私が聞きまくっていたHANNIBALのサントラだって現代音楽。さて私は何について書いていたのでしょう。

現代音楽がどのようなものであれ、縁がなければ自分が4000円も払って(招待券がなければ4000円払うのだ)聴こうなどとは夢にも思わなかったことについては自信がある。であるから招待券をくれた人が

「観客が少なくても驚かないように」

と言ったのを真に受け、どんなに観客が少ないか半ば楽しみにしていたのである。ところが開場まで15分はあるというのに結構な数の人が座って静かに待っているではないか。私の父よりも年上ではなかろうか、という一人の男性。私の両親くらいの年のカップル(たぶん夫婦だろう)学生のような若いカップル。女性一人、男性一人。皆どこか落ち着いた感じというのは共通だが,,,などと考えているうちに時間が過ぎる。そのうち人が動く気配がする。どうやら開場したようだ。

中にはいると階段をててててと上がっていく。綺麗な明るい感じのホールだ。途中でいっきにアイスコーヒーを飲み干すと(のどが渇いていたのだ)客席に向かう。適当なところに座ると客席を歩き回ったり周りをじろじろ見回したり。そんなことをしているうちに舞台に誰か現れた。どうやらPre Talkのはじまりのようである。

司会というか話を仕切っているのはアドバイザー氏。作曲家二人は口が重そうだがなかなかうまくしゃべらせるものだなあと感心する。なんでも東京、名古屋、大阪の3ホールが二人の作曲家に新曲を委嘱し(この委嘱という言葉が何を意味するか今ひとつわからないのだが)異なる演奏者、異なる指揮者、異なるホールでほぼ同時に演奏しようという試みなのだそうな。いわば初演が3回。同じ曲でも場所と時間と演奏者によってそれぞれ違ったものになる、というのが一つのおもしろさなのかもしれないが、3カ所回って聞き比べようという人ははたして存在するのだろうか。

さてそんな説明も含めながらトークは進む。何から何まで対称的という二人のうち、新進気鋭と紹介された川島氏は三つのホールにそれぞれ一楽章をささげたとのこと。そこから名古屋ネタがしばらく語られ、アドバイザー氏は

「名古屋ではフェルマータを”フェルニャータ”というんでしょうか」

などと一時のタモリのような事を言っている。それに便乗して川島氏も

「名古屋と言えば味噌カツ、きしめん」

とかわけの解らないことを言っている。ふと気がつくと私の前に座った男性二人連れはスーツを着込んで一生懸命メモなどとっている。何かの関係者なのだろうが私にはわからない。そのうち時間となったらしく3人は引っ込んだ。舞台の上では椅子をならべたりあれこれやっている。

 

そのうち舞台上に演奏者が現れる。拍手拍手である。そのあとに指揮者がやたらと軽い足取りで登場する。ひとしきり拍手がひびくといきなり曲が始まる。一曲目はクセナキス:プレクトー、と書いていてどちらが作曲者の名前でどちらが題名かもわからないのだが、パンフレットから引用すれば

「フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノがそれぞれに音をのび縮みさせながら旋律進行を進める」

のだそうだ。この曲はこの日まで私が抱いていた

「わけのわからない音楽」

という現代音楽のイメージに一番近い物かもしれない。それぞれの楽器が好き勝手に旋律を奏でているように聞こえる。時々その旋律がまとまるかのように思えるが、ピアノが不協和音を奏でまたほぐれる。リズムが一定していうわけでもなく、そうしたまとまったりばらけたりの演奏が延々と続く。私はその曲に耳を傾けながら考える。

おそらく作曲家の方々は意味なく延々と続く会議、というものにはあまりでたことがなかろう。しかしそれを音楽にするとこのようになるのではないか。ソロが突然鳴り響く。その後しばらく静かになるが、低く静かな音でざわめき起こる。それはいつしか違うテンポの異なった調で奏でられるのだが、先ほどのソロはまだ鳴り響いている。やがて皆が好き勝手な事を好き勝手なリズムで奏で出したところで、突然それまで沈黙を守っていた楽器が鳴り響く。その勢いに押され他の楽器が静まる。しばしの沈黙が空間を支配し、ようやく秩序がもたらされるかと思った時、まったく外れた調子で引き裂くような別の音が鳴り、また曲は混乱の極みに陥る。ええいこの旋律を聴くのは3度目ではないか。せめてアレンジくらい付けろなどという声があがるところで時間切れとなって終わる。私に作曲の才があれば会議を愛する人たちにそうした曲を捧げるところだが。

などと考えている間に曲は本当に終わりになった。拍手が延々と鳴り響く。指揮者は一旦引っ込むとまた出てくる。このタイミングというのがなんとも解りづらい。そりゃ確かに最初は賛嘆の気持ちで手を叩いているのだが、そのうち一つのことばかり考え出す。すなわち「いつ拍手をやめていいのか」と。いくらなんでも指揮者が再びでかかった瞬間、拍手が消えてしまうというのはお互いにとってばつが悪かろう。それを避けようと思えばひたすら拍手し続けるしかない。おっと。演奏者が立ち上がって帰るそぶりを見せている。こうなれば心おきなく拍手を止めてよかろう。

舞台の上が暗くなると次の曲に向けてまたあれこれ椅子を並べたり出したり引っ込めたり。次の曲はペルト:フラトレス。曲が始まると同時に低い音が鳴り響く。この音は曲の間中ほぼとぎれることなく鳴り続き、その上に弦楽器でもってメロディが奏でられる。先ほどの曲よりはずっと私が知っているところの「曲」に近い。途中で何度か打楽器がはいる。これが正確に何を叩いているかわからないのだが、太鼓のような音とカン、カンという音。このカン、カンの音を聞いていると

「火の用心」

という声が聞こえてきそうであるがもちろんそんなことはない。

曲が終わり拍手が静まると舞台の上にはたくさんの椅子が並べられる。大人数でやるのかと思っていれば、どやどやと演奏者が入場してきた。本日のメインその1、

「川島素晴:室内音楽のためのエチュードSpring/River/Vivace(いずみ・紀尾井・しらかわ3ホール共同委嘱作品)」

である。

音楽が始まると同時に音が大量に流れ出す。Pre-Talkでアドバイザー氏はこう言った

「川島さんの楽譜には音符が一杯書いてある」

まさにその通りだ。音符が一杯たぁどういうことかというと多くの楽器が音を奏で、しかもそれが切れたり音階が替わったりということなのだ。2曲目を聞き少し普通のメロディに頭が戻ったところだったのだが、この音符の量には圧倒される。

目を閉じながら聞いていたのだがずいぶんいろいろな音がすると思い目を開け舞台を観れば、パーカッション担当の二人が大活躍である。木琴用というのかとにかくばちを握ったかと思うと、次の瞬間はここから見たのではそれが何か解らないものに持ち替えそれで音を出す。次の瞬間にはまたばちを握るのだが、たたくのは何故か球の方ではなく棒の方といった調子。まるでTVのバラエティでやっているゲームか何かのようだが、そのような連想が不遜なものであることは言うまでもない。そのうち床を何かがごろごろ転がるような音がする。何かを落としたのかと思えば、パーカッションの人がそれを見ている。れっきとした演奏のうちだったらしく、しかるべきタイミングでその

「ごろごろ」

は止められる。

そのうち曲調が替わるから楽章が移ったのだと言うことが解る。そんな調子で三つのホールに捧げられた三つの楽章は終わり、なかなかにすごい拍手が巻き起こる。そのうち観客席にいたとおぼしき川島氏が舞台の上にあがって頭をさげたり手を挙げたり。指揮者一人が出たり入ったりするのだけでも大変なのに、指揮者+作曲者であるから出たり入ったりも何度もやる。もう拍手を止めていいかな。おや、またでてきたなどと考えたあげくようやく安心して拍手を辞めた時には肩が痛くなってしまった。

その後は20分間休憩である。トイレにいって客席に戻り、ぼんやりと他の人たちを観ている。音楽の関係でつながりがある人達だろうか、お互いに挨拶を交わしたり知人あるいは子供の近況を交換したりする声が聞こえる。川島氏はと言えば若い男女に囲まれている。いったんどこかに消えた彼が楽譜らしきものを持ち出した瞬間善男善女は楽譜の周りに群がる。その外で川島氏は一人ぽつねんとしている。

ほどなく開演の時間となる。本日の目玉その2の

佐藤聡明「沈黙(しじま)の淵より」

であり、「2台のチューブラ・ベルズと室内オーケストラ曲」という副題だか説明がついている。まず指揮者がしかるべき位置に立つのだがなかなか曲は始まらない。何がおこったのかと思えばパーカッションの人が、

「NHKのどじまん」

で使うような管が縦にいくつも並んだ楽器(これがチューブラ・ベルズなのだろうか)の前でハンマー(と言っていいのだろうか)を構えている。じっと見つめるとそのち

「カン、カーン」

と叩いた。それが曲の始まりである。

曲を聞きながら考える。Pre-talkではこちらの佐藤氏の楽譜について

「川島氏と対照的に音符がほとんどない」

と言っていたのが解るような曲だ。何故かと言えば同時に奏でている楽器の数はともかく、音がほとんど変わらず、ながーくながーくのばされるからである。おそらく楽譜の上では白丸がぽつぽつと並んでいるのではなかろうか。音はとぎれそうになるが、また続く。聞き入っているうちに血圧が下がり脈拍がゆっくりになっていくような気がする。そのうち身動きをするのもはばかられる気になる。演奏はだいたいとても静かであり、ほんのかすかな音でさえホール全体に響き渡ってしまう。さらに悪くしたことに現代音楽であるからそれが演奏であるか雑音であるかの区別がつかない。珍しくちょっとにぎやかになる部分があると皆座り方を直したり咳をしたり、しかしすぐ一転して静かな調子になってしまう。

再び冒頭に鳴った楽器が響くと静かになる。目をあけ舞台を観ると指揮者が左右に分かれたパーカッション奏者のほうに手を差し出している。どうやら曲が終わったようだ。ようやく拍手がまきおこり、作曲者も舞台にでてくる。彼は頭を坊主のように丸めており、客席に向かって合掌なんかしている。

いつ終わるのだろうかと私の不安をかき立てる拍手が終わると次の、最後の曲の準備だ。例によって椅子がならべられたりいろいろするのだが、一つだけこれまでの曲と違うことがあった。可愛い女性が籠を持って現れたから何をするかと思えば様々なおもちゃを演奏者の席においてまわっているのである。

まもなく舞台が明るくなり、グルーバー「フランケンシュタイン!!」が演奏される。この曲では男性歌手が熱唱する。背の高い男性なのだが子供のような声から低い声まで実にいろいろな声がでるものだなあと阿呆のごとく感心する。とはいっても歌っているのはドイツ語らしくまったくわからない。歌詞のドイツ語と日本語の対訳も配られているのだが、ドイツ語が解らない私には何の役にも立たない。などと考えていると曲の進行に合わせ、この対訳をめくっている人間が周りにけっこう居るのには驚いた。

曲が進むにつれて先ほど配られていた様々な楽器の出番となる。ふと気がつくとさっきまでバイオリンを弾いていたはずの人がなにやらあやしげなものを吹いている。次にはパーカッションの人がなにやら吹いている。パーカッションといえばあれこれ叩く役目の人だから吹くのは専門外ではなかろかと思うのだがちゃんと吹いている。本職が吹く人達もなにやら吹いている。私は今までコンサートマスターなる言葉は知っていたのだが、この日のプログラムを観るとコンサートミストレスという肩書きがついている遠目にもゴージャスな女性がいる。その名が示す通りバイオリンを弾くのが本職なのだが彼女は如何にと思っていると、これまたなにやら不思議な物を吹き出した。

ついにはラッパを吹く人たちが総立ちで蛇腹のようなものを振り回したところで音楽は終わりとなる。最後の拍手は特別長く、パートごとに立たせてあれこれやる。何か弦楽器を持っている人が自分が立ったところでおもちゃをならそうとするが不発に終わる。次に立ったバイオリンの人は首尾良く

「ぱふっ」

というのを鳴らした。

かくして演奏会はめでたくお開き。客席が明るくなり皆がぞろぞろとでていく。階段のところで耳に入ってくる言葉を聞いているとおおむね好評のようだ。私はと言えば自分が予想していた以上に興味深く時間を過ごしたと思う。

音楽には本当に色々なものがあっていいはずだ。音がでるものであれば楽器として使っていいではないか。私が愛するQueenのWe will rock youでは拍手と足音が見事に音楽を奏でる。とすればおもちゃが鳴り、何かが転がる。その響きも音楽ではなかろうか。そして単なる不協和音の連続のように聞こえる中にも作曲家の意図が見え隠れするような気がする。だいたい人の世というのは不協和音にずれたリズムのほうが基調ではなかろうか。であるからたまに見事なリズムに出会うと快さを感じるのだが、だからといって日常をリズムのそろった物だと見なしていいわけはない。写実が絵画でありうるならばそうした現実を写し取った音が音楽であってもいいはずだ。

そうした試みと単なる雑音の差異がどこにあるのか。或物はその線を見失うかもしれないが、その中のいくつかは残っていくのかもしれない。

そんなことを考えながら外にでる。ご機嫌のうちに駅の方に向かってふらふら歩く。とても暑いが風があるのでそれほど苦痛でもない。


注釈

しらかわホール:ちなみにこれは「白川ホール」ではなく「しらかわホール」である。コンピューターで入力しているとスペースキーを押すだけで漢字になるからといって何でもかんでも漢字にしていいわけではない。ちなみに私は普段の生活はひらがなだらけである。

再びちなみにこのビルには私の友達が結婚式をあげたレストランがあるのであった。本文に戻る