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というわけで九州工業大学のPBLプロジェクト成果発表会に参加した。(なぜかページが消えているので、Googleのキャッシュにリンク)

最初は、普通の大学の発表会だと思っていた。会場に一歩足を踏み入れたところで「をを」と思う。司会はプロを二人雇い、機材も本格的だ。舞台には移動式のカメラも設置され、状況に応じて画面を切り替える。このものすごいリソースはどこからやってきたのだろう。

PBLとはPorject -based learningということで「課題解決型学習」なのだそうな。謳い文句には「問題発見、問題解決」という言葉もあったように思う。

3年生が一年かけて取り組んだ成果の発表会、ということでほぼ全員スーツである。一グループだけ普段着だったのだが、それはひとりだけスーツをもっていない人がいたためとのこと。

●●班と名前がついているので何かと思えば指導した教官の名前とのこと。教官によって「課題」の与え方が異なるようだ。あるグループのプレゼンによれば、ある教官は「音声認識を使うこと」とだけ言ってあとは何もしなかったとのこと。

手のだしかたのレベルは様々だが、大きく

「問題発見」を学生に行わせたグループ

「問題は与え、問題解決を学生に行わせたグループ」

にわかれていたように思う。

先ほど述べた「音声認識を使うこと」だけが制約条件だったグループは「モテ声」を判別するプログラムを作っていた。人間にはモテる声というのがあるのではないか?そうした仮説を元にあれこれ試行錯誤してモテ声判別プログラムを作成する。

基調講演を行った明和電機の土佐社長の言葉を引用しよう。

「モテる、という人間の感性に挑む、破綻するに決まっている研究なのだが、そこに果敢に挑んだことを評価したい」


もう一グループはプレゼン中何度も「我々のプレゼンの目的は、聞いた人が太陽電池へのイメージを変えてくれることです。屋根に載っているものばかりが太陽電池ではない。太陽電池はもっと身近なものになりうるのです」

と繰り返していた。彼らは色素増感太陽電池に文字を埋め込んだ上で作成していた。彼らは審査員の投票で一位に輝いた。

問題発見、という点ではこの2グループが傑出していた。他のグループは基本的に

「先生から与えられた課題をがんばって解きました」

というものだった。こうしたプレゼンを聞いていると、その努力に感心しながらも「結局それをやることで何がしたかったの?」と聞きたくなる。彼らの答えとしては「PBLの単位がもらえました」ということなのかもしれないし、学生としてはそれで十分かもしれない。しかしプレゼンを聞いている方としては

「単位がとれたの。よかったね」

という感想しか持ち得ない。

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今回いろいろな企業から来た人が審査員として参加し、コメントをしていた。学部の3年生相手、ということで実に気を使ったコメントをしていたように思う。

しかし言わんとしていることは(学生たちに伝わったかどうかは別として)実に的確だった。覚えているものを列挙する。

・そもそもなぜこの課題に取り組んだか、という説明がない
・それを解決することでどんなすばらしい未来が広がるのか
・課題を解決した方法に新規性はあるのか

ここらへんは教官がどう指導したかに大きく依存している気がする。
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特に感心したのは明和電機 土佐社長のコメントだった。土佐氏自身、自分の作品をどう世の中に問うていくか、常に試行錯誤していることが講演から伺えた。

実は3年生の発表以外にも、1年生、2年生が各チームずつ発表した。それらは「がんばって作りました」というものだった。本来この4チームから明和電機賞が選ばれるはずだった。一チームは「出題する側から数学の問題を作る」という面白そうな課題をやっていたのだが、正直意味がさっぱりわからなかった。土佐社長も質問したが、回答は全く要領を得ない。「コミュニケーションがうまくいっていない」と土佐社長は質問をうちきった。

4チームの発表が終わったところで土佐社長が「これは課題を解いたということですか」と確認した。

さて、いよいよ明和電機賞の発表です、というとこで挙げられたのは、先程の「モテ声」だった。確かに「とりあえず電気回路作りました」という発表に甲乙つけて賞は挙げられんわな。

土佐氏は、懇親会まで残り、退出しなければならない時にこういった

「学生さんたちにアドバイス。プレゼンがくどい。3分で一端まとめて、そのあと細かい説明をしなさい。学会の発表だったらいいのかもしれないけど、学外の人もくるような場所ではそうしないと」

いや、この日で私は明和電機のファンになってしまいました。

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私がこれを受講する3年生だったらどうするかな、と思う。問題を与えられるチームに参加して、ちゃっちゃと本を読んで解決をまとめて、それについて発表しただろうなと思う。

しかし今や私は「ロボコンはくだらん」と考える「問題発見」指向のおじさんだ。

「こんな問題を発見し、それにこんな問題解決方法を提示した」

と胸をはれるような面白い発表がみたいな、、と野次馬としては思うわけだ。いや、学部3年にそこまで要求するのは無理、という意見もあろう。たしかに多くのチームが強調していた通り、知識も経験も0からのスタートだとは思う。しかし堂々と失敗できるチャンスというものはそう多くはない。知識も経験も0でもこんな解法もありますよ、というのを見せてもらえれば感動するんだけどなあ。

ということをふと思いついた。

iPhoneを提供する、ということはキャリアが「土管」になる、ということでもある。つまり通信回線を提供するだけでそれ以上のことは何もできなくなる。

しかしAndroidは違う。そもそもAndroidはOSであって、プラットフォームではない。素のAndroidは恐ろしくて使えたものではない。それ故キャリアが様々なサービスを提供する余地がある。

 同氏はユーザーがスマートフォンなどで自由に利用できるオープンインターネットを"大海原"とし、「『ユーザー任せ』では無責任ではないか」と課題を提示する。スマートフォンユーザーの65%がアプリのダウンロードをほとんど利用していないとする調査結果や、探しているアプリが見つからない、価格が高いといったユーザーの不満点を紹介した上で、「『オープンで制約のない世界』へのパスポート」というコピーで「auスマートパス」を紹介する。

via: KDDI田中社長、"新生au"のスマートパスポート構想を語る - ケータイ Watch

といさましく始まる構想だが、一番肝心な点はここにあるのではないかと思う。

「auスマートパス」向けの安心・安全な取り組みとしては、不正アプリ対策機能も搭載した「ウイルスバスター」が提供される。加えて、サービス品質やセキュリティチェックを行う「セキュア検証」、「auスマートパス」に関するあらゆる問い合わせに答えるサポートセンターも開設する。

via: KDDI田中社長、"新生au"のスマートパスポート構想を語る - ケータイ Watch

どこかAmazonくらい徹底的にAndroidをOSとしてだけ利用する会社はでてこないものだろうか?いずれにしてもAndoridのシェアは高まる一方。しかしそれだからといってiOS v.s. Androidがどうのこうの、というのは意味がない。

米Piper Jaffray社のジーン・マンスターの試算によると、Apple社のApp Storeはアプリ市場の全売上の85~90%を占めている。2011年だけを見ると、App Storeが34億ドルの売り上げを開発者にもたらしたのに対し、Android Marketは2億4000万ドルにとどまっている。

via: アプリ売り上げ「iOSはAndroidの6倍」、その理由 « WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム

Androidがでたとき「PCでも同じことが起こった。だから、Androidが勝つだろう」という短絡的な「専門家」の意見をたくさん目にした。世の中はもう少し複雑なようだ。

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さて、一方私が偏愛するiPhoneである。(もってはいないけどね)昨日ふと気がついたことだが、iPhoneは基本的に一種類しかいない。それで、女子高生から、主婦から私と同じ年の疲れた男性までみんなが使っている。これは驚くべきことではないだろうか。

ターゲットユーザを明確にして、それに合ったモノづくりを、とはよく聞く話だ。「F1層がどうの」とか得意げにしゃべる人間もよく目にする。

しかしiPhoneはたった一種類、2色でそれら全てのユーザに対応しているのだ。

もちろんカスタマイズの余地はある。大きな耳のついたラバーケースを複数見かけたときは驚愕した。各メーカーが血が出るほどの努力をして小型化をしているのはなんのためなのだ。しかし元は一種類。

親愛なるDocomoのサイトを覗いてみよう。

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via: docomo with series ARROWS Kiss F-03D : 特長 | 製品 | NTTドコモ

別にdocomoが悪いというつもりはない(本当は少しあるけれど)普通はこうだ、と言いたいのだ。Appleが異常なのだ。よく使われる図だけど再掲しておく。

誰でもAppleのほうが正しいことはわかる。量産効果もでるし、価格も下げられる。
しかしこれを可能にしている「デザイン」「仕様設計」の力には驚嘆させられる。

さて、誰にも理解してもらえなかったようだが、このような事を人前で主張した私としてはこの記事を黙って見過ごすわけにはいかない。

sweeping generalizations」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか? これは「一般的すぎてほとんど意味をなさない論理」という意味です。これと同じように、広すぎる対象範囲から一つの結論が出ているものは間違いだと言っていいでしょう。ステレオタイプはこういうところから生まれるのです。インターネットが私たちを愚かにするという主張は、ある特定の場面では正しいのかもしれませんが、一般論とすることは間違いです。今のところ、これを裏付けるようなリサーチは発表されていません。

この迷信を私たちが簡単に信じてしまう理由は、インターネットによって人が他力本願になりつつあるからです。どこへ行けばいいのかはGPSデバイスが教えてくれるし、なんでもググればいいので、あまり記憶もしなくなりました。しかし、これが「私たちは愚かになった」につながるとは言えません。心理学者のDaniel Wagner氏によると、私たちは「transactive memory(交換記憶)」に頼るようになったのだそうです。交換記憶は実は便利なもので、全体を記憶するのではなく、名前やキーワードだけを覚えるようにできているので、小さい容量にたくさんの情報を保存できます。あとで全貌を知りたかったら、そのキーワードで検索をかければいいわけです。

このように、私たちは全体を思い出せないことで、自分がインターネットのせいで愚かになったと思い込んでしまっています。インターネットのアクセスがない状況に陥ると、私たちはバラバラの情報のかけらをつなげることができず、途方に暮れてしまうわけです。しかし、科学的な根拠は現段階ではないのですから、「インターネットによって愚かになる」というのはカルチャーとして言われているだけだということになります。

via: 科学的に偽りであることが証明された脳に関する9つの迷信 : ライフハッカー[日本版]

まず「科学的な根拠が現段階ではない」ことと、「科学的に偽りであることが証明された」は等価ではない。例えば「ガニメデに生命が存在する」根拠は現時点では存在しない。しかしそれは「ガンメデに生命が存在することが科学的に誤りであることが証明された」とは言えない。

この記事で主張していることは「インターネットの利用で、一般的に言って人間が馬鹿になった、という主張を裏付ける根拠はない」ということだけである。そもそも「一般的に人間が馬鹿になる」などという主張は、何によってもただしくない。私がその昔DetroitのRadioで聞いたとおり

"Generalization is always wrong"

なのだ。

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さて、私はチンピラサラリーマンなので、科学的に証明されていない命題についてもう少し考えてみよう。

GoogleとEvernoteにたよりきった人間の頭はザルと化しているのではなかろうか、と私は主張した。頭の中にはGoogleとEvernoteへのポインタだけが存在しており、なんでも「検索すればわかる」

と考えている状態だ。

私の発表中、チャットでこのような指摘があったと聴く。

「ザルじゃだめですか」

私は自信を持ってそれに応える。(何の根拠もなしに)

「ダメです。あなたの頭がザルになろうが私には何の関係もないが、私の頭がザルになっている状態は許容できない」

なぜそう考えるか?

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問題は「検索すればわかる」というのは問題があり、それに対する答えが既にどこか(インターネットもしくはEvernoteの中に)存在している場合には機能するが、そうでない場合には機能しないからだ。

いや、もちろんこれはものすごく便利なのだよ。iPhoneアプリにGPS機能をつけたいと思う。例えば20年前だったらどうしただろう。まずiPhoneアプリ構築に関する本を何冊か購入し、そこからコードを探して「写経」する。しかしそれは古いバージョンに基づいたものだったらしくエラーが生じる。ええい、どうやればいいのだ、と途方にくれて一日が終わる。

しかし今やGoogle先生にお伺いを立てればものの数分でこれに対する「最新かつ正しい情報」を得ることができる。これは無茶苦茶便利だ。

しかしながら

問題はこうした「情報の検索方法」に依存している限り、問題に対する新し解法、あるいは問題そのものを見つけることはできない、ということにある。多くの人が経験していることと思うが、最良のアイディアは

「仕事に疲れ、もう今日は帰ろうと思い、電車に乗った(あるいは車に乗った)瞬間」に訪れる事が多い。つまりその時点では、頭に必要な情報が存在している必要があるのだ。

つまり

「新しい方法、問題」について考えようと思えば、材料は頭の中に存在していなければならない。それらが自分でも説明できないような結びつきを持つ瞬間に「新しい方法、問題」を思いつくと私は考えているのだけどどうですかね。

こうした点において、情報が脳の外部に存在し、それを検索している状態と、頭の中に情報が存在し、それが得体も知れぬ結びつきを持っている状態は大きく違う、と主張したい。そして私は

「ググればわかる問題」

だけを解いて一生を終えるつもりはない。再度引用するが

インターネットのアクセスがない状況に陥ると、私たちはバラバラの情報のかけらをつなげることができず、途方に暮れてしまうわけです。

via: 科学的に偽りであることが証明された脳に関する9つの迷信 : ライフハッカー[日本版]

バラバラの情報のカケラを前に呆然と佇んで、しかも

「私は愚かではない」

と主張するのは私が望む姿ではない。,,,というかこの文書書いた人(あるいは訳した人か?)ってこれ書いていて自分でも変だと思わなかったのだろうかね。

自尊心について

というわけで年をとるごとに「これが重要なことではないか」と思う自尊心について。

自尊心とは、人間が身にまとう最も尊い衣装であり、何物にもまして精神を奮い立たせる。「汝自身を敬え」とはピタゴラスが弟子に命じた言葉だが、自尊心という気高い理念に支えられた人間は確かに、決して官能に溺れて身を汚したり、非口な考えで心を汚したりはしない。日常生活のすみずみまで自尊心が行き渡れば、それは清潔や沈着冷静、貞操、道義心などあらゆる美徳の基礎となろう。

自助論 p195



古い本だから、今読むと「こう賛美ばかりではいかがなものか」と斜めに構えたくもなるのだが、この「自尊心」というのは人間世界においてかなり重要な位置を占めているのではないかと最近考えている。

でも、今はそうではない。人々は「あなたには無限の可能性がある」と持ち上げられる一方で、社会的にはさっぱり評価されない。現在のような劣悪な雇用環境の下で、自己評価が高い若者たちは必要以上に苦しんでいます。

 この高すぎる自己評価と低すぎる外部評価の落差を埋めるために、多くの人々が呪いの言葉に手を出すようになる。他人が傷つくさまや他人の評価が下がるのを見ることで、溜飲を下げる。でも、一度その方向に踏み出すと、もう止まることができなくなります。

'08年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大の場合がその典型です。加藤はある日何かを「呪った」のだろうと僕は思います。呪いの標的となったのは、具体的な誰かや何かではなく、彼が「本当なら自分が所有しているべきもの」を不当に奪っている「誰か」です。彼の嫉妬や羨望が身体を離脱して「呪い」となったとき、それは現実に人を殺せる力を持ちました。

 繰り返しますが、攻撃性は現実の身体に根拠を持つ限り、それほど暴力的にはなれません。攻撃性が破壊的暴力に転化するのは、それが現実の身体を離脱して幻想のレベルに達したときです。

 だから、呪いを制御するには、生身の、具体的な生活者としての「正味の自分」のうちに踏みとどまることが必要です。妄想的に亢進した自己評価に身を預けることを自制して、あくまで「あまりぱっとしない正味の自分」を主体の根拠として維持し続ける。それこそが、呪いの時代の生き延び方なのです。

 正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。

via: 内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]

加藤氏は、自尊心を取り戻す方法として、何かを呪った。そしてそれを「倒す」ことで自尊心を取り戻そうとしたのだと思う。

福島原発の事故以来、たくさんの「正義の味方」が現れた。私の意見ではその90%は「自尊心を満足させるため、"敵"である東電、そして誰かを処刑する」ことを欲した人たちだ。

G.M.ワインバーグの本にも「怒るとは、つまるところ低い自尊心の表れである」とかなんとか書いてあったような気がする。

じゃあどうすればいいのか。内田氏の意見では

正味の自分とは、弱さや愚かさ、邪悪さを含めて「このようなもの」でしかない自分のこと。その自分を受け容れ、承認し、愛する。つまり自分を「祝福」する。それしか呪いを解く方法はありません。

 先に述べたように、呪いは「記号化の過剰」です。それを解除するための祝福は、記号化の逆で、いわば「具体的なものの写生」です。世界を単純な記号に還元するのではなく、複雑なそのありようをただ延々と写生し、記述してゆく。「山が高く、谷が深く、森は緑で、せせらぎが流れ、鳥が鳴き・・・・・・」というふうにエンドレスで記述すること、それが祝福です。

 人間についても同じです。今自分の目の前にいる人について、言葉を尽くして写し取り、記述する。祝福とはそういうことです。

 そうやってすぐにわかるのは、百万語を費やしてもただ一人の人間さえ記述しきれないということです。記号で切り取るには、世界はあまりに広く、人間はあまりに深い。その厳粛な事実の前に黙って立ち尽くすこと、それが祝福の作法だと僕は思っています。

via: 内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]

この世の中というものは、複雑で捉えきることができない。そした事実を受け止めることが呪いを解く事だ、と彼は主張する。

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これを読んでいて思ったのだが、「宗教」というのは底の浅い「記号化」のバーゲーンセールのようなものではなかろうか。

「異教徒」

という単純な記号化を行うだけで、誰でも批判したり、危害を与えることができる。そしてそれは賞賛される行為となるのだ。

「宗教」の恐ろしさは、本来「複雑で簡単な記号化が不可能なものである」この世の中、その成り立ちについて「明確な答え」を与えてしまうことにある。

宗教的説明は人生の根本的な意味を明確にしてくれる。我々はなぜここにおり(どこかに行くとすれば)どこに行くのかを」つまり、「なぜ存在しているのか」という永遠の問に対する答えを与えてくれるのである。

経営の未来ーP217

困ったことに、神様というのは、仮に存在していても代理人を通じてしか話しをしてくれない。そしてその代理人はたくさんいるのだ。「なぜ存在しているのか」という永遠の問に対する答えは、代理人の数だけ存在する。

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ここで少し元の問に戻る。世の中は複雑で捉えどころのないものだ、という話を書いたが、世の中の進歩は、そうした認識を「持たない」人たちによって進められてきたという気もする。

「進歩」だの「革新」だの言葉は勇ましいが、それが80%意味するところは

「多くの人に迷惑を掛けること」

だ。Amazonで本を買うのはとても便利だから私はよく利用する。しかしそのため何件の個人経営の書店が倒産したのだろう。AppleがiPhoneを作ったことによって携帯電話というビジネスは全く違うものになった。そしてそれはどれだけ多くの会社に「迷惑をかけた」ことだろう。そうした変革をもたらした人たちが、「世の中の捉えようのない複雑さ」をどれだけ認識していたかわからないが、少なくとも彼らはその前で立ち尽くしたりはしなかった。

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話は宗教に戻る。宗教は記号の「バーゲンセール」と書いたが、実のところ人間はなんらかの記号を求めることで、心の安らぎをえるものなのかもしれん。

そうやってすぐにわかるのは、百万語を費やしてもただ一人の人間さえ記述しきれないということです。記号で切り取るには、世界はあまりに広く、人間はあまりに深い。その厳粛な事実の前に黙って立ち尽くすこと、それが祝福の作法だと僕は思っています。

via: 内田樹「呪いの時代に」 ネットで他人を誹謗中傷する人、憎悪と嫉妬を撒き散らす人・・・・・・異常なまでに攻撃的な人が増えていませんか  | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]

個人的には内田氏の意見に賛成だが、「厳粛な事実の前に立ち尽くす」ことに耐えられない人のほうが多いような気もする。

であれば、間違った記号にとりつかれるよりは、「穏当な記号」を広めたほうが世の中の役に立つのではないか。立派な宗教人というのはこうした認識をどこか持っているような気がする。少なくとも映画「天使と悪魔」の終わりのほうで、ローマ教皇はそのようなセリフを言っていたような記憶がある。

Gorotteを作って&使って起こった変化

Gorotteを作り、それを論文としてまとめ、プレゼンを考えているうちに、いくつかのことに気がついた。

「情報で成功してる人は本を読んでますよ。ネットはおやつ、主食は本。ダメな奴ほど、それが逆転していくんです。おやつで栄養価が取れるはずないのに、ビタミン剤(手軽な情報)を欲しがるんです。本の内容をうまくまとめたまとめサイトが欲しいってことに慣れてしまうと咀嚼力が下がって、結局同じ情報を見ても分からないんです。これがネット中毒になっている人の特徴で、全く同じ情報を得ていても、読みが恐ろしいほど浅い」

via: 現代のオトナが捨てるべきこと 『ネット、トレード、自分探し』 | 日刊SPA!

今務めている会社には、誰でも自由に借りられる図書がある。一つの挑戦として毎週(あるいは2週間ごとに)その本を借り、簡単な感想を書くことにした。

最初は「ビジョナリー・カンパニー」とか有名なビジネス書を読んでいるのだが、そのうち飽きてくる。サウスウェスト航空とか、パタゴニアのケースも面白いが自画自賛にはそのうち飽きが来る。結局気がついたのは

「古典はすばらしい」

ということだ。当たり前だが、長い年月読み継がれてきた本にはそれだけの価値がある。文字にすると実に当たり前のことだが、そのことにようやく気がついた。題名だけは聞いたことがあるが、読んだことがなかった本。それを手に取り

「もっと早く読めばよかった」

と何度も思った。ちょっと列挙しよう。




まだまだあるが、これくらいにしておく。

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逆に今年有意に減らしたものは、以下の情報である

・ライフハック的なWebページの閲覧
・Twitterのフォロー数(私のフォロー数/フォロワー数は 19/101である)
・Facebookの購読数(友人として登録はしていても、その人の投稿を読まなくなる、ということ)
・TV番組

結果として、筋力がついたかどうかは知らないが実に快適である。問題は、Gorotteの動作が安定しないことだ。件数に対してスケールしないので、もう全体構成を3度変更している。これをなんとか安定させないと「収集した情報を咀嚼して考える」ことができなくなる。連休の第一の課題はそれだな。

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次に考えなくてはならないのは、接触する人だ。人間は社会的動物なので、接触する人から多大な影響を受ける。端的に言うと

「バカは伝染る」

のだ。

これをどう改善するかはよく考えなくてはならない。

というわけで、いろんな記事が目につくわけだ。

うまくやる方法は、本を読むことでもなく、きれいにスライドを作ることでもなく、何度も練習を重ねることでした。

via: 良い話し手になるための6つのエッセンス | もっちブログ

これには同意する。というか、明らかに「一度も練習してないだろう」というプレゼンを見ると最近は腹がたつようになってきた。

もちろんビジネスでは、そうした「即興プレゼン」が必要な場合も多い。しかし例えば以前から予定されているプレゼンで制限時間(例えば5分)があるのに、どう考えても5分で終わりそうにない内容を話し始める人には石を投げたくなる。

もう一つ共感するところを。

「何を話そうか実は決まっていないのですが」とか「あまり話すのは苦手ですが」とか無意味な前置きをしたり、聴衆に対して遠慮をしてしまっては、せっかくの貴重な時間がどんどん消費されていきます。状況にもよるけど、プロフィールも会社案内も多くの場合、必要ないと思っています。

via: 良い話し手になるための6つのエッセンス | もっちブログ

最近「芸のないプロフィール紹介をするプレゼンはつまらん」という仮説を打ち立て、検証中である。プロフィール自体が芸になっている例もいくつかは存在するが、あまり多くはない。というか自分のプロフィール話したがる人が何を目指しているのかは私にはわからん。

同じく無意味な前置きも不要なのだが、時々「無意味と思えた前置きが芸になっている」例もあるので油断できない。WISS2011での五十嵐さんの「WISS2012の予告」とかね。

別の文章から最近考えていることを一点。

これから見るものについて説明する。もう1つの実践が難しいことと言えば、見せているスライドの前に話すことだ。

via: プレゼンを成功させる15の秘訣 | SEO Japan

プレゼンを行う人間が、Visual Aidを用いる場合には、それを目にした観客がどのように考えるかを常に意識しなければならない。

例えば箇条書きにされた単語がいくつも並んでいる画面をだしたとしよう。その瞬間、観客は好き勝手なペースでその文字を読みはじめ、おそらくプレゼンターがしゃべり始めるより前にそのスライドに退屈してしまう。そして話を聞かない。

Visual Aidなのだから、その画面はあなたのしゃべりを補強するものでなくてはならない。しかしここに書いた理由で、箇条書きが静的に並んだ画面はVisual Aidの役割を果たしていない。

ではどうするべきか。そのプレゼンを実現させるためにはどのようなシステムを用いるべきか、、と頭の中で展開はしているのだけど、まだ手が回ってないです。

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さて、かように冒頭引用した文章には共感する点が多いのだが、何かひっかかるものがある。それがなんだろう?と考えていてふと一つの仮説を立てた。

この文章を書いた人は「自分が大好き」なのだと。

いや、もちろん自分が大好きなのは大いに結構だ。ただ

仕事が好きのか、仕事をしている自分が好きなのか――社会人になりたての頃、当時勤めていた会社の社長にこう言われたことがあります。

これは、なかなか他人から指摘されることもないし、まして自覚するのも非常に難しい問題ではあると思うのですが、"その考え自体" ではなく、"そう考える自分" が好きなうちは、どんなにうまく説明できても、聞き手から共感は得られない気がします。

via: プレゼンを通すために絶対必要な"4つ"のこと - livedoor ディレクターブログ

それでは聞き手の共感は得られない。おそらく私がこの文章から感じる違和感はそこにあるのだと思う。そんなに背伸びして自慢話をしなくても、いいんだよ。「僕」「僕」「僕」の連続は若者らしくて微笑ましいけどね。

論文についての雑感(しつこい)

昨日こんな記事を見つけた(多分遠い昔に読んだことがあると思うが忘れていた)

wise ではない人というのはつまりバランス感覚のない人で、組織の力学を理解して清濁併せ呑むことができなかったり、場の空気が読めずその場にいる人たちのほぼ全員が暗黙のうちに反対しているのにそれに気付かず自分の意見を押し通そうとしてますます反感を買ってしまったりする人で、そういう人たちに対する、「そのままでは自分の理想を実現することはできないから、不毛な政治ゲームを少しでも減らすように心がけながらも、政治ゲームには政治ゲームで対抗していかなければならない」という分裂勘違い君の意見は、説得力もあるし、とても温かいメッセージだとも思う。

一方で考えなければならないのは、物事を大きく変えるような提案というのは、実は往々にして、intelligent だけれども wise ではない人たちから出て来ている、ということである。

小野和俊のブログ:バランス感覚を身に付けると、コミュニケーションの角と同時に能力の角も取れることがある から引用

いくつかのことを考える。通りやすい論文というのはつまるところWISEなものではなかろうか。基本的に減点法で採点されるから「減点ポイントを賢く回避する」ことが採択につながるわけだ。

昨日ある研究会にでていて

「科学とは普遍的な知を追求するものだから、少数の例を深く調査、考察した論文は評価されない傾向がある。これはおかしい」

という言葉を聞いた。逆に言えば、現状論文を通すためには

「この論文で主張している内容は、普遍性をもつものである」

ことを主張しなければならない。そのためには「多くの」被験者に対して評価実験を行うのが有効な方法だ。
何度も論じられていることだが、私も「くだらない評価実験」を軽んじる傾向がある。多くの被験者を集めて何が言えるのだろう?どこにも存在しない「平均的なユーザ」に対して何を言おうというのか。

しかし仮にそう考えていても、評価実験を行うことはWISEである。まず「自分の信条と異なることであっても、必要であれば行う」というのは知恵である。世の中を生きて行くためには、こうした態度が必要だ。

次に「論文査読者に"これを採択しても問題ない"と自分への言い訳を用意してあげる」という点においてもWISEである。必要なのは「失点を少なくする事」であり、そこがなければ価値はない。(と見なされる)

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先日のWISS2011で(しつこい)最後に参加者全員に「チャットにコメントを書き込んでください」という呼びかけがなされた。そこでこう発言した人が居た。

「むしろ論文って,必要なんですかね.一般人はほぼ読まないですのに」

WISSで使われていたチャットシステムでは発言に対して、賛成、反対の意を投票する事ができる。たいていの場合「賛成票」を投じるのに使われるのだが、この発言に対しては珍しく「反対票」が多く投じられた。この発言を投じた人は数分後に

「すみません・・・」

と発言していたから、多分誰かから直接「注意」を受けたのだろう。

チャットに参加している人間は、論文を核とした世界に生きている人が多いから、この発言は確かに「空気を読まない」WISEではない発言として受け取られたと思う。しかし私はこの発言を支持する。少なくとも、「論文超重要」という言葉だけで封じていいものではない。この発言には、現実を観察した上での「Intelligence」があること疑い様がない。

WISS2010では改革の一つとして「評価実験は査読の対象としない」という点が打ち出された。これに反発して参加を取りやめた研究室もあったやに聞く。また聞いてみると「既存の論文+査読」システムの問題点を直すため、様々な試みも行われているようだ。

そうした試みは結局のところ「やっぱり論文だよね」ということに戻ってしまうようなのだが、それで問題が消えたわけではない。先送りにしただけだ。

学会に参加していると「学会に企業からの参加者が少ない」という声をよく聞く。その原因は何だろう?先ほどの発言にある

「一般の人は論文なんか読まない」

という点に一つのヒントがないだろうか?デモビデオ+プレゼンが主、論文という名の補足説明が従ではいけないのだろうか?だいたいWISSの会場で誰も論文読んでないではないか。プレゼンを聞いているだけで。

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とまあチンピラサラリーマンはWISEでない発言をするわけだ。言いっぱなしにするのではなく、少しは考えなくちゃね。

車とはなんなのか

東京モーターショーに行ってきた。

自動車メーカーというのはひどく保守的で画一的なところである。いくら新しい製品を展示する東京モーターショーと言われても新しいものに出会えることはめったにない。会場を見てまわる。よくもまあみんな

・エコです!電気自動車です!
・車の中の配置を見直しました!一番効率がいいのかはこの箱型です!

と同じようなことを言えるものだ、と思っていた。最後にトヨタのブースを見るまでは。

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今回のモーターショーを前にして、トヨタは、ドラえもんを使ったCMを放映していた。久しぶりに観たジャンレノがこんなに太っていたこと、ドラえもんを演じて全く違和感がないことに驚いたわけだが、

「ドラえもんか。。」

と複雑な心境になったのも事実である。昔の国民的漫画だよりか、、と。

しかしこれはトヨタが発した明確なメッセージの一つの現われだ、と気がついたのはこのコンセプトカーを見てからだ。

車とは何か?地点Aから地点Bまで出来る限り効率的に人と物を移動させるものだ。他の自動車メーカーは所詮そこから抜け出ていない。あるいは「ドライブの楽しみ」として新しい地点を推薦するとか、走り自体に意味を持たせるとか。

しかしこの提案は車から「走り」という要素を完全に落としている。

トヨタの豊田章男社長は、TOYOTA Fun-Viiを「スマートフォンにタイヤをつけたようなクルマ」と表現したが、これまでにはない一歩踏み込んだ「つながる」を提案したクルマだといえる。

via: 【大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」】 PCとデジタル家電に続いて自動車でも「つながる」がキーワードに ~東京モーターショー2011からITと自動車の融合を探る

評論家の無駄な文章は無視するが確かにこれは「スマートフォンにタイヤをつけたようなもの」である。なぜタイヤをつけたかといえば、そうすれば所有者と一緒に移動できるからだ。理由はそれだけ。

もっと端的に言おう。このコンセプトカーは「車」ではなく

「ネットに接続された、巨大な移動ディスプレイ」

なのである。これには心底驚いた。もちろん世界のトヨタに在籍しているデザイナーからこのような提案がでること自体は不思議でもなんでもない。驚くのはそれを全社的なメッセージとして世界に発信した点にある。

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前掲の記事には、こんな文章が続く。

これは自動車とITとが融合することで、未来の自動車はどんなものになるのかを示したものだといっていい。

 ストーリー仕立ての内容はこんな感じだ。

トヨタでは、コンソールにスマートフォンを置けば自動的にカーナビのディスプレイおよびハンドルと連動するプロトタイプを出展

 あるビジネスマンが自宅で目を覚ますと、枕元にあるスマートフォンから、電気自動車の充電状況を確認。すると、現在の渋滞情報やこれまでの傾向をもとにして、目的地までどれぐらいの時間がかかるのかといったことを逆算し、自宅を何時頃に出ればいいのか、渋滞を回避するにはどんなルートを通ればいいのかといったことを指示してくれる。

 出発予定時間を目標に、事前に車の中でプレ空調を行ない、寒い日や暑い日でも車内を快適な室温を設定してくれる。スマートフォンを通じて、音声で自分の好みの温度に設定することも可能だ。

 また、スマートフォンで開錠したのち、自動車に乗るとスマートフォンは車載デバイスとして利用。スマートフォンに蓄積した情報と自動車とが同期して、「マイエージェント」と呼ばれる音声案内を利用し、1日のスケジュールを確認したり、運転中に別の車両が自分の車に接近していることを知らせたり、走行ルートの先に豪雨地帯があるといった情報を知らせてくれる。

 豊田章男社長は、「車と自分が語り合うことができる、未来の車」と、これを表現する。

via: 【大河原克行の「パソコン業界、東奔西走」】 PCとデジタル家電に続いて自動車でも「つながる」がキーワードに ~東京モーターショー2011からITと自動車の融合を探る

こういう「あたりまえで、つまらなくて、想像力のカケラもない」未来を提示するのが、自動車メーカーの関の山と思っていたが。。何事も過小評価してはいけない。トヨタというのはそれ独自の文化をもつ国のような存在であり、「文化を理解しない未開人」には理解できない奇妙な行動も多いのだが、伊達に世界一になってはいない、ということか。

というわけで、こんな文章を見つけた。

昨日まで、新作画スタッフの面接と実技試験(?)を行なってたんですよ。どんなことをするかちょっとお見せしようかな?

via: 漫画家・佐藤秀峰氏のアシスタント試験 - Togetter

私も少し読んだことがある「ブラックジャックによろしく」の人である。12時間かけて、写真をトレースしてもらいそれを背景画として仕上げてもらったのだそうな。ここで取り上げられているのは4人の作品である。

私のような素人が見ても、4人の作品がとても異なっていることに気がつく。佐藤氏のようなプロが見るとそれだけではない、いろいろなことを読み取ることができるようだ。

倉庫のシャッターなど部分的に描き込まれていますが、とりあえず、気になった部分、できそうな部分に手を入れています。つまり、描き込み方が、常に部分的なので、絵をしてトータルなバランスが見れていません。

中略

つまり、Aさんは総合的な判断を保留し、部分的な描写に逃げてしまったため、絵を完成できませんでした。

via: 漫画家・佐藤秀峰氏のアシスタント試験 - Togetter

総合的な判断を保留し、部分的な細部に逃げる。これは仕事でも研究でもよくみかける態度だ。

「そもそも何が言いたいのか。肝心なところは何か」

についての判断を保留し、力いっぱいの実装に逃げる。学生の研究によるあるパターンだ。そうした研究を見ると私は力一杯の残念感を感じる。あともう少し考えればずっとよくなる、というところで「徹夜しての実装作業」に逃げてしまうわけだ。

もう一人例をあげよう。

線を入れるので精一杯になってしまっています。恐らく、じっくりと物を観察して絵を描いた経験のない方でしょうね。完成形がイメージできないまま手なりで描いています。

漫画的な記号や処理で、絵を構成しようとしているので、実物にはいくら手を加えても近づかない絵ですね。漫画を見て漫画を描いてきた人だと思います。絵を描こうという意識が弱い。

via: 漫画家・佐藤秀峰氏のアシスタント試験 - Togetter

私が興味を持っている「ヒューマンインタラクション」の研究に言えることだが、あくまでも主体は人間であり、それが生きている社会にある。そこに何が提供できるかに私は興味を持つ。

しかし

「漫画を見て漫画を描いてきた人」と同じように「研究をみて研究をしてきた人」というのも存在する。先行研究の調査ばっちりです。それと比較しての新規性、有効性の主張にもぬかりはありません。しかし「どれだけ手を加えても」現実の世界には何の関係も持ち得ない。

インタラクション2011でみた以下の研究はまさにその例だった。

幼児向け折り紙作品の創作支援システム

1枚の正方形の紙を折ることで形を作りだす「折り紙」は,日本に古くから伝わる遊びであり,我々の多くが幼少期に体験するものである.近年では,折り紙の数理に関する研究の成果により,複雑な折り紙作品を創作するための技術が発達してきている.しかし,まだ手指を正確に動かす能力が十分に発達していない幼児らを対象とした,少ない手順で簡単に折れる折り紙作品の創作については,これまでに十分な研究がされてこなかった.そこで本稿では,4回以下の折り操作で作ることができる単純な折り紙作品を,新しく創作するためのシステムを提案する.

via: インタラクション2011

この作者に質問したとき「いや、"幼児向け"というのは枕詞のようなものですから」と言い切っていた。彼こそは「研究をみて研究をする」人だと思う。もちろんそれで食べていくこともできる。いつまでも現実には近づかないが、そもそもインタラクションの研究で現実に近づく物などめったに無いのだ。

他にもいくつかこのカテゴリーに収まりそうなものもあるが、確信を持ち得ないので判断は保留する。

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絵を効率よく完成させるためには、完成形を具体的にイメージできるようになること。完成のイメージから逆算して、ムダを省くこと。腕立てして筋力をアップしても、絵は早く描けるようになりません。


via: 漫画家・佐藤秀峰氏のアシスタント試験 - Togetter

この言葉も多くの場面に当てはまることだと思う。しかし不幸にして我々は「完成形を具体的にイメージすることの重要性」より「徹夜をするガッツ」の方を評価しがちだ。

WISS2011に行ってきたよ(その4)

まだ続けるか。よっぽどネタに困っているのですね。。

さて、WISSでの発表後何人かからコメントをいただいた。

「訳がわからない」

というご指摘はほとんどの方からいただいた。すいません。顔を洗って出直します。「訳がわからない」と思ったのはみなさん共通意見でしたので、間違いなく私の責任です。

とはいえ最初

「えっ。どこがわからなかったの?」

と思ったのだが、同室の方と議論して自分が何を間違えたかはぼんやりわかった。再度発表する機会がもしあれば改善するとともに、別ネタでしゃべる機会があったとすればこの教訓を生かしたいと思います。

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さて、その他に共通して聞かれたことが2点ある。

その1:前を向いてついったっているだけだったが、後ろのスライドは進んでいく。あれはどうやったのか?まさか後ろは全てムービーでタイミングを合わせていただけたとか?

答えその1:手に持ったリモコンでスライドを送っていまいた。練習を繰り返しているうち内容についてはあらかた暗記したので、どこでボタンを押して進めれば何が表示されるかはわかっていました。(音楽の暗譜のイメージでしょうか)

とはいえ、手が震えて2度押しをすると画面と話がずれてしまうので、横目でPC画面を見てはいました。今回は幸いにしてずれなかったようですが。


その2:プレゼンと同時にTwitterに書きこんでいたようだが、あれは「ぴぴつい」を使ったのか?

答えその2:ちがいます。ぴぴついはすばらしいツールで、今回のWISSでは少なくとも二人使用されていました。

しかしながらこれはPowerPointのアドオンで、私が愛用しているKeynoteでは使用できません。

ぐぐってみると、KeynoteTweetというものが見つかります。しかしこのままでは動きません。Tweetの認証が、簡単なものからOAuthという複雑なものに変わった瞬間、このAppleScriptは動作を止めたのです。

というわけで、今回は二つほどApplescriptとツールを組み合わせてあれを実現しました。今ぐぐってみると、もう同じ結論に達した方がいたようで、スクリプトも公開されています。

The OAuthpocalypse and Keynote Tweet

しかしなんですね。プレゼンを取り巻く環境というのはどんどん変化している。ここは一発新しいプレゼンシステムを考えるべきではないでしょうかー!(後藤さん風に)

研究になるか、論文としてまとめられるか、とか懸念はあるが頑張ってつくろうと考えている。スライドなどというものは過去の遺物だ。じゃあどうする、というのは以下一年後。