進捗会議大好き

先日こんな記事を見つけた。

中規模以上のプロジェクトではプロジェクトはいくつかのチームに分かれていて、さらにチームごとに担当する会社が異なることもある。ありがちな事だが、チーム別にプロジェクト内の進捗会議を行うようになってくると、これが壮大なムダになっていく。

via: チーム内でやる進捗会議はムダ - 勘と経験と読経

これを読んで真っ先に頭に浮かんだのは、「高級人材派遣」(笑)としてNTTデータさまで働かせていただいた時だ。NTTデータの社員が一人。協力会社の社員が10人くらいずらりと取り囲む。ひとりずつ進捗を報告する。ものすごい時間の無駄である。実のところ他グループの進捗を全員がリアルタイムで聞かされる必要はない。しかしこれはNTT文化では間違った最適化なのだろう。

「多くの労働時間を費やすこと」

が良い仕事と直結している文化を持つ世界だったからだ。私は4人ぐらいのグループのリーダーを任されていた。途中までは我慢して全員出席していたが、そのうち

「個人ごとに時間割」

を作って交代で出席し、その結果をグループ内のミーティングで報告するようにした。出た人間は皆に報告しなければならないから真面目に聞くし、他の人間もうちわのミーティングで気軽に質疑応答できたほうが楽しい。「若者に通じないコンピュータ用語」のネタのいくつかはこのグループ内ミーティングで出たものである。

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話しを元に戻そう。冒頭の文を書いた人はどのような解決策をとったか?

以前あるプロジェクトで「歩き回って管理する」ということを試したことがある。PMとして普段からチームメンバーの席を歩き回り、今やっていることを観察する。また構成管理ツールのログを毎日チェックして誰が何の作業をやっているのか把握する。チーム内のドキュメントレビューは共通表紙の文章回覧形式にして、机の上に積み上げるようにすれば、ボトルネックがどこにあるかもすぐわかるようにする。それを観察する。一週間観察した内容をもとに、顧客向けの進捗報告を予想で作成してから、チームリーダーたちに「間違いがないか」「見落としがないか」をチェックしてもらっていた。

via: チーム内でやる進捗会議はムダ - 勘と経験と読経

これを読んでいて、ここで行われている方法が、その昔重厚長大産業の会社で聞いた進捗管理方法に少し似ているなと思っておかしくなった。

その管理方法を説いた人は、その後社長になった人で、「最近の進捗管理方法はなっておらん。俺の頃は」と昔話をしたものである。しかしそれはちゃんと理にかなっていた。チームのメンバーの間を歩きまわり、どんな図面を書いているか見る。図面の点検ルートははっきりしており、点検、認可のどこでボトルネックがあるか物理的に見ることができる。冒頭の記事の人はいわばそれのデジタル版をやっているわけだ。

両者に共通しているのは空疎な言葉、すわなち

「そばやの出前」(もうできます。今でます)

は無駄であると最初から無視し、実際何をやっているかを観察しそれを元に進捗を把握していることだと思う。実事求是ですな。

そしておそらく、開発している対象は違えど、その次期社長も、冒頭の記事を書いた人もそうした「事実の累積」から進捗を想像できるだけの能力を持った人だったのだろう。

世代を超えた「有能さ」みたいなものが垣間見えて面白い。そのうち「私が考える有能な人の特徴」などまとめてみようかな。

みんなで決めようよ!

とういうわけでいきなり引用。内容は昨日のエントリーにも繋がっている。

これは日本の現状そのものだなーとおもうのは、あたらしいことを進めるときに担保として「過剰な保証」を要求することで、
みえないことや答えのないことに取り組むのが下手なのは、個人レベルでもじぶんで答えをつくる作業に慣れてないからだ。
日本は正解をえらぶ教育から答えをつくる教育にシフトしないと、世界でおきているゲームに参加できない。

via: 橋下市長に「ついてゆけない」ひとたち。 - 所長サンの哲学的投資生活 ( フィリピン攻略篇 )


みんなで決める。いい言葉だよね。しかしつまるところ日本の家電メーカーが不振を極めている理由もこれではなかろうか。

TV事業が焼け野原になりました。ではどこに解があるのでしょう?それを自分で作り出し、それに向かって努力する、なんて芸当はまず無理だ。それで売上が上がる、という計画はあるのかね?

結局のところ「みんなが納得できる(けど誰も信じていない)解」に落ち着く。やっぱり画質だよ!終戦間際には「誰も信じていないソ連を通じた和解案打診」になーんとなく望みを託すようなことをやっていた。日本の家電メーカーでもそうしたことが起こっているのではなかろうか。

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でもって「道なきところに道を切り開いた」Appleである。先日こんなグラフを見つけた。





時にわれわれは、何かの大きさに心から感服せざるを得ないことがある。


via: グラフで見るiPhoneとiPadの異常な売れ行き

特にiPhoneとiPadのグラフは「異常」である。しかもこの売上がほとんど一機種からなりたっていることを考えると畏敬の念を禁じえない。

もっと言えば、iPhoneの売上は去年の2倍になっているのだが、そこで売れているのは「iPhone4S」であり、去年の機種のマイナーチェンジ版であるということ。春モデルだ、夏モデルだと頻繁な機種開発を繰り返している日本の携帯電話メーカーには心底同情を禁じえない。

どうしてもAndroidを使いたい、というのであれば止めないが、Androidマーケットは捨て、Amazonのようにできないものか?つまりAndroidを本来の「OS」として利用するのだ。そしてiPhoneのように、2年に一度のメジャーバージョアップ、一度のマイナーチェンジでいいではないか。良いものであればそれでも売れる、ということをAppleが証明している。

これも「みんなで決めよう」だと「新モデルを出した直後の売上はこれだけ増加する。この増加分を捨てることはできない」でボツになるのだろうけど。

日本のTV製造の行く末

時々「ある種の製品」を持ち上げる必要性もしくは意思を強く感じる記事を見つけることがある。

しかし、実際に現場で取材をした感覚からすると、報道ほどに日本メーカーが沈んでいるという印象は持たなかった。日本のメーカーに米国のメディアや流通が興味を失っているという報道は、かなり偏ったものだと思う。

via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch

何度かこの記事を読み返してみたが、結局日本メーカーのどこが「良い」かがわからない。どうも

日本の電機メーカーがビジネスのスタイルを変えなければならない時期に来ていることは確かだが、優れた製品を生み出す力の関係が大きく変化しているとは思わなかった。むしろ画質に関しては以前よりも差が開いている。

via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch

要するに日本製TVの画質は韓国製のそれを引き離している。であるから生産量で負けても収益が真っ赤っかでも大丈夫だ、という論旨のようだ。

親愛なるソニーは

これから、さらなる液晶テレビの高画質化、4K2K、有機ELテレビ、それに未来のCrystal LED Display。高画質という切り口でいくつもの話題がある。事業環境は厳しいですが、高画質化持ちネタが今は豊富にありますから、我々は恵まれている。もう一度、テレビの原点である高画質に立ち返り、ハイエンドにユニークな製品を置き、それを徐々に低価格化していくという流れを作っていきます

via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch

ということでいくつものバズワード(自分たちに関係がある)を並べ「やっぱりTVは画質が一番!」と主張し

今後、テレビも4K2Kとなっていくでしょうし、何年か後には有機ELテレビもやってきます。ハードウェアだけを提供するだけでは、同じコンテンツを共有する他社との競争になり、利益を上げる前に安売りになる。それでは粗雑乱造にしかつながりません。かつてのテレビと同じ道を歩むのは、二度とやりたくない。

via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch

パナソニックは、「焼け野原」になった事は認めつつ別の方向を模索すると言ってはいる。

では再び浮上していくにはどうすればいいのか。そこにはまだ、明確な道筋は見えてないように思えるが、ひとつの方向としてインターネットを通じたコミュニケーションツールとして、もっとテレビを活用する流れに乗りたいという。

via: 【本田雅一のAVTrends】"日本のテレビメーカーはダメ"論は本当? -AV Watch

とはいえ、それが何かは多分分かっていないのだと思う。

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「画質が素晴らしい日本のTVは無敵!」という論に反駁するのは

「イノベーションのジレンマ」

の1フレーズだけで十分だ。専門家の目から見て画質がどうだろうと、今やTV売り場に並んだ画面だけをみてその画質を区別できる人間がたくさん存在するとは思えない。つまりTVの画質は既に消費者の要求をはるかに追い越してしまったのだ。

もちろん家電メーカーに勤務する人は優秀だからそんなことなど100も承知だと思う。問題は「組織」になるとその声が消えてしまうことだ。
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さて、ここで少し想像をたくましくしてみよう。この状況で「いや、日本のTV製造の未来は明るい!」という記事を書かざるをえない(あるいは書きたい)とする。どういった論旨の組み立て方があるだろうか?

1)TVの生命線は画質!日本メーカーの画質への取組みはこんなに先端的!
2)TVのハードだけ作ってもダメ。TVはプラットフォームでその上に載せるコンテンツで儲けるビジネスモデルの転換!日本メーカーはその分野で先駆けてる!

ぱっと思いつくのはこんなところか。

本田氏の不幸は、2社にインタビューしたはいいが、2社が両方共どちらかの選択肢をとってくれなかったことだ。本田氏自身は緩やかに1)を主張しているようだが、ソニーは1)といい、パナソニックは2)といった。結果としてわけがわからない記事となってしまった。嗚呼。
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Twitterを見ていると、どうもNHKのクローズアップ現代で同様の「問題」が取り上げられ、日本メーカーの将来に悲観的な報道があったようだ。しかしこの記事を引用し

"CESにおける日本メーカーのテレビと米国市場 // "何処かから指示が飛んできたかのように、国内マスコミが一斉に始めた日本製のテレビや自動車に対するネガティブ報道と韓国上げですが"

via: Twitter / @Fuwarin: "CESにおける日本メーカーのテレビと米国市場 ht ...

NHKが時々公共放送と思えない、「特定の立場に固執した報道」を行うことには同意するが、これがそれ故と断言できる神経にもうらやましさを感じる。

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でもって今日本のTVメーカーの内部では何が起こってるんだろうね。きっとみんな忙しく残業とか徹夜とかしてると思うのだけど。

ふーん。本当にヤル気なんだ。

日本テレビ放送網、テレビ朝日、TBSテレビ、テレビ東京、フジテレビジョンの民放キー局5社と電通は、共同で推進するテレビ向けVODサービスの名称が「もっとTV(テレビ)」に決定したと発表した。4月2日にスタートする予定だ。







  • もっとTVのロゴ






 もっとTVは、地上波放送でのリアルタイム視聴を促進し、番組視聴時間を拡大することを目的に開始されるもの。民放キー局5社に加え、NHKの参加も検討中だ。


via: 民放キー局5社がテレビ向けVODサービス「もっとTV」スタートへ--NHK参加も - CNET Japan

アクトビラVer2というわけだが、そもそもなぜアクトビラが全く普及しなかったか、、考えているのでしょうね。紙の上では。しかしあれだねえ。多分誰も使っていないデータ放送とか、アクトビラ×2とか次から次へとよくもまあ同じようなことを繰り返しますねえ。

悪い管理の第1法則、悪いコンサルティングの第1法則

 うまくいかないことがあったら、もっとやれ。

via: ワインバーグの本を読む(11) - 検索迷子

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多分これは前に書いたと思うのだが、欧米の映画を見ていると「TVをつけっぱなしにしている家庭」というのが時々でてくる。そして「つけっぱなしのTV」というのは、まああまりよろしくない家庭の記号でもある。

これも前に書いたと思うのだが、製品やらサービスを作るときのスタンスには2種類ある。「自分で使いたいものを作る」場合と、「自分では絶対使わないが、使う馬鹿がいるものを作る」場合だ。前者にはiPhoneやiPadが該当し、後者にはマルチ商法とかソーシャルゲーム(笑)とかTVが該当する。

TV関係の人もたまには「自分で絶対使うからこのサービス作りましょう!」ということを考えてみたらどうかな?

というわけで九州工業大学のPBLプロジェクト成果発表会に参加した。(なぜかページが消えているので、Googleのキャッシュにリンク)

最初は、普通の大学の発表会だと思っていた。会場に一歩足を踏み入れたところで「をを」と思う。司会はプロを二人雇い、機材も本格的だ。舞台には移動式のカメラも設置され、状況に応じて画面を切り替える。このものすごいリソースはどこからやってきたのだろう。

PBLとはPorject -based learningということで「課題解決型学習」なのだそうな。謳い文句には「問題発見、問題解決」という言葉もあったように思う。

3年生が一年かけて取り組んだ成果の発表会、ということでほぼ全員スーツである。一グループだけ普段着だったのだが、それはひとりだけスーツをもっていない人がいたためとのこと。

●●班と名前がついているので何かと思えば指導した教官の名前とのこと。教官によって「課題」の与え方が異なるようだ。あるグループのプレゼンによれば、ある教官は「音声認識を使うこと」とだけ言ってあとは何もしなかったとのこと。

手のだしかたのレベルは様々だが、大きく

「問題発見」を学生に行わせたグループ

「問題は与え、問題解決を学生に行わせたグループ」

にわかれていたように思う。

先ほど述べた「音声認識を使うこと」だけが制約条件だったグループは「モテ声」を判別するプログラムを作っていた。人間にはモテる声というのがあるのではないか?そうした仮説を元にあれこれ試行錯誤してモテ声判別プログラムを作成する。

基調講演を行った明和電機の土佐社長の言葉を引用しよう。

「モテる、という人間の感性に挑む、破綻するに決まっている研究なのだが、そこに果敢に挑んだことを評価したい」


もう一グループはプレゼン中何度も「我々のプレゼンの目的は、聞いた人が太陽電池へのイメージを変えてくれることです。屋根に載っているものばかりが太陽電池ではない。太陽電池はもっと身近なものになりうるのです」

と繰り返していた。彼らは色素増感太陽電池に文字を埋め込んだ上で作成していた。彼らは審査員の投票で一位に輝いた。

問題発見、という点ではこの2グループが傑出していた。他のグループは基本的に

「先生から与えられた課題をがんばって解きました」

というものだった。こうしたプレゼンを聞いていると、その努力に感心しながらも「結局それをやることで何がしたかったの?」と聞きたくなる。彼らの答えとしては「PBLの単位がもらえました」ということなのかもしれないし、学生としてはそれで十分かもしれない。しかしプレゼンを聞いている方としては

「単位がとれたの。よかったね」

という感想しか持ち得ない。

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今回いろいろな企業から来た人が審査員として参加し、コメントをしていた。学部の3年生相手、ということで実に気を使ったコメントをしていたように思う。

しかし言わんとしていることは(学生たちに伝わったかどうかは別として)実に的確だった。覚えているものを列挙する。

・そもそもなぜこの課題に取り組んだか、という説明がない
・それを解決することでどんなすばらしい未来が広がるのか
・課題を解決した方法に新規性はあるのか

ここらへんは教官がどう指導したかに大きく依存している気がする。
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特に感心したのは明和電機 土佐社長のコメントだった。土佐氏自身、自分の作品をどう世の中に問うていくか、常に試行錯誤していることが講演から伺えた。

実は3年生の発表以外にも、1年生、2年生が各チームずつ発表した。それらは「がんばって作りました」というものだった。本来この4チームから明和電機賞が選ばれるはずだった。一チームは「出題する側から数学の問題を作る」という面白そうな課題をやっていたのだが、正直意味がさっぱりわからなかった。土佐社長も質問したが、回答は全く要領を得ない。「コミュニケーションがうまくいっていない」と土佐社長は質問をうちきった。

4チームの発表が終わったところで土佐社長が「これは課題を解いたということですか」と確認した。

さて、いよいよ明和電機賞の発表です、というとこで挙げられたのは、先程の「モテ声」だった。確かに「とりあえず電気回路作りました」という発表に甲乙つけて賞は挙げられんわな。

土佐氏は、懇親会まで残り、退出しなければならない時にこういった

「学生さんたちにアドバイス。プレゼンがくどい。3分で一端まとめて、そのあと細かい説明をしなさい。学会の発表だったらいいのかもしれないけど、学外の人もくるような場所ではそうしないと」

いや、この日で私は明和電機のファンになってしまいました。

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私がこれを受講する3年生だったらどうするかな、と思う。問題を与えられるチームに参加して、ちゃっちゃと本を読んで解決をまとめて、それについて発表しただろうなと思う。

しかし今や私は「ロボコンはくだらん」と考える「問題発見」指向のおじさんだ。

「こんな問題を発見し、それにこんな問題解決方法を提示した」

と胸をはれるような面白い発表がみたいな、、と野次馬としては思うわけだ。いや、学部3年にそこまで要求するのは無理、という意見もあろう。たしかに多くのチームが強調していた通り、知識も経験も0からのスタートだとは思う。しかし堂々と失敗できるチャンスというものはそう多くはない。知識も経験も0でもこんな解法もありますよ、というのを見せてもらえれば感動するんだけどなあ。

というわけでシンポジウム「未来を探検する知のバトンリレー」(第1回)「人類の未来」に前半だけ参加したのだ。

なぜ参加しようかと思ったかといえば、ウメサオタダオ展の関連イベントだからだ。何かウメサオ氏について面白い話が聞けるかと思ったのだが、前半ではそうした話はでてこなかった。

イベントでは3人が次々と語る。年代を分けて、第一走者、第二走者、第三走者なのだそうな。私は年寄りなので、「年代なんてものは馬鹿馬鹿しい」と思っているし、この分け方にも「?」と思った。しかし終わってみて気がついたことだが、確かにこの3人の視点には差異があった。(それが年齢による物だとは思わないけどね)それについては後で書く。

さて、まず第三走者、佐藤慧氏が語り始める。

話を聞いている間考えていたのは「何故この人の話はこんなに退屈なんだろう」ということだった。駅前でギターを抱えて歌っている人の歌を延々聞かされているような気がしてくる。

何故だろう?使われている写真は美しい。語られるエピソードも気持ちのこもったものだ。なのに何故退屈なのか?

そもそも佐藤氏がなぜ現在の職業(当日渡されたパンフレットではフォトジャーナリストとなっていたがサイトを見ると「フィールドエディター/ジャーナリスト」となっている)になったかといえば

「音楽を志していたが、ある日音楽に込める物が何もないことにきがついた」

からだそうな。それを聞いた瞬間ニコラウス・アーノンクールのこの言葉が頭をよぎる。

作曲家の体験が音楽に直接反映して、自伝のようになってはいけません。 それに全くあてはまらないのがモーツァルトです。 例えば彼が10歳の時に書いた作品には人間に与えられた全ての感情が表現されています。 10歳の少年が書いたとはとても信じられません。10歳という若さで感情の幅を感じ取り それを音楽で自由に表現できたのです。 確かにモーツァルトの音楽には絶対的な情熱や感受性が潜んでいます。 ただしそれらは彼の個人的な経験とは無関係なのです。

ニコラウス・アーノンクール NHK音楽祭 レクイエムでのインタビュー

さて、次は松沢哲郎先生(京都大学霊長類研究所所長)である。覚えている事を箇条書きしよう。

・チンパンジーの瞬間的な認識能力は凄い。1−10の数字がランダムに画面上に表示されるのだが、それを0.5秒みただけで順番にタッチする事ができる。

・その種族を知るためには、その種族と近いが異なるものを調べる。たとえば外国にいくと、日本のことがよくわかるように。そうした観点から、チンパンジーと近いボボという種族に注目している。チンパンジーとボボの距離は、人間とネアンデルタールの距離くらい。
チンパンジーは知能が発達しているが、凶暴。ボボは道具を使ったりはしないが、とても平和な種族。

・最後にでてきた東北の震災と、ブータン国王の話は興味深いのだがつながりがよくわからなかった。

というわけで話は第一走者の村上陽一郎氏へ。

記憶に残っていることを書いてみる。かつて比較文化論というのはいわば「文化の優劣」を論じるものだったが、そもそも文化に優劣なんぞない。異なる文化があるだけ、ということではないのか。
(技術は進歩ということが言えるのだが)

他の文化について調べようと思えば、今の自分を一旦脇においておいて、それで他の文化について学ぶ必要がある。こうしたプロセスを経ることにより結局「自分とは何か」がわかる。

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「走者」の番号が減るに従って明確に意識されているのは「メタな視点」だ。それをやることによって結局何が解るのか。そうして最後に村上氏がたどり着いたのが「自分を一旦捨てることによって自分の事が解る」という結論だった。

そしてそれは「駅前で自分の感情を載せた音楽をかき鳴らしている」佐藤氏の話が極端に退屈(私にとって)である理由にもつながっている。彼は自分の歌っているが、それが聞き取り手にからどう見えるか、という点にまで考えが及んでいないように思う。そう考えれば、このイベントが世代を区切ったことにも意味があったのだろう。

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しかしこの「世代」という言葉には注意が必要だ。じゃあここで第三走者とされている佐藤氏が歳を重ねると、メタな視点を得るようになるか?と言われればそれについては疑問符をつけたい。





僕はまだまだ経験も知識も浅く何かを語れるような人間ではないが、

偉大な先人と場を共有出来たことで、未来を創造する力を頂いた気がする。



分野も経験も違う3人が結局のところ「愛」というもの

(村上先生は「共感力」という言葉にしましたがw)

を考え続けているということに人間の可能性を感じる。



知のバトンリレー|佐藤慧 -世界に魅せられて- から引用

結局のところ「愛」ですか。そうですか。

ビバ アメリカ!

今日の話は全くの雑談。

私はアメリカ合衆国に2年10ヶ月滞在してたことがある。正確には2年と10ヶ月だ。
それで私が「アメリカに住んでいた」というつもりもない。私はStanfordとDetroitにいた。そしてStanfordとDetroitをもって「アメリカ」ということはできない。

なぜそんなことを言い出したかといえば、この記事を読んだから。

人口10万人あたりの殺人件数から割り出された世界で最も危険な都市トップ10が発表になった。結果は予想通り、麻薬抗争の耐えないメキシコが10のうち5つを占め、残りはすべて中南米となっている。トップ50で見てみると、メキシコは12都市、ブラジルが14都市、コロンビアが5都市、アメリカ合衆国が4都市となっており、トップ50のほとんどがアメリカ南北大陸にあるという恐ろしい結果となった。

via: 2012年版、世界の危険な都市トップ10:カラパイア

こうした情報をよむときには注意せねばならん。そもそもソマリアではだれが殺人件数をカウントするのだろう、とかね。

しかしトップ50のうちに、アメリカ合衆国4都市はいっている、というのには正直驚かされる。33位以下に南アフリカ、44位にイラクがはいっているが、他は殆ど南北アメリカ。欧州、東アジアは顔をだしていない。

ちなみにアメリカの4都市とは

ニューオリンズ、デトロイト、セントルイス、ボルティモア

これをどう解釈すればいいのだろうか。そもそもメキシコでなぜここまで麻薬戦争が激しくなっているのだろうか。それはアメリカと隣接していることと関係があるのだろうか。

いまぼんやりと思っているのは

「アメリカ合衆国は世界一陰影の差が激しい国ではないか」

ということ。iPhoneを作ったのもアメリカ。殺人が頻発する都市を抱えるのもアメリカ。

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というわけで雑談ついでにこの記事。

ところが、1982年、大きな転機がやってくる。

ベルギーアントワープ観光局で働いていたヤン・コルテールという男性が、運命を変えた。

日本人観光客からフランダースの犬』という物語存在を聞いたことが発端である

via: フランダースの犬にまつわる救われない話

フランダースの犬は実質的に「日本産だった!」というおはなし。私はアントワープに言ったとき、この「ヤン・コールテン」(私にしてくれたカタカナのサインはそう記憶しているのだが、間違いかもしれない)に会っている。日本語で

「フランダースの犬、しってますか?」

と言った。

男の浮気は「名前をつけて保存」だが、女の浮気は「上書きして保存」

via: フランダースの犬にまつわる救われない話

というわけでいきなり動画。

ソニーが「新しいエンターテインメント」こと DOT SWITCH のティーザー動画を公開しました。とりあえずは続きに掲載した動画 (30秒) からごらんください。内容は Xperia らしきスマートフォンの画面に表示された大きな円 (dot?) スイッチを押すと、レコードプレーヤーやテレビが点き、紙吹雪が舞い、ロボットアームが動き出してフタを開けるとそこには...... といったもの。口上は、

世の中は、マルチディスプレイになってゆく。インタラクティブになってゆく。その楽しさを体験できるプラットフォーム。
あなたがスイッチを押すだけで、PCが、テレビが、世の中が変わっていく。
あなたとマルチスクリーンをつなぐ、新しいエンターテインメントが誕生します。

via: 動画:ソニー、「新エンターテインメント」DOT Switchを予告 -- Engadget Japanese

ふーん。これほどワクワクしない動画も珍しい。ぱーん、と飛び散る紙吹雪が寒々しい。

じゃあどうすればいいのか。

案1)物を一切隠し、人を描写する。そういえばPS3が出たときにも、PS3のスライドショーで「ををを」とか言っている人を写したCMがありましたねえ。。

「それ」が登場することによって人の生活が変わらないければ、そもそも発表する意味がない。

案2)Teaserなんだから、もっと「マルチスクリーンをつなぐ」ところを誇張して作るというものありかもしれん。ただそれだけ安っぽいSF映画になりかねんので(映画の世界では全てのコンピュータは既に繋がっていることになっている)難しいか。

結果はどうであれ、まだRolly のTeaserのほうが「ワクワク感」があったぞ。

Sony launches Rolly teaser campaign -- makes girls chicken dance

via: Sony launches Rolly teaser campaign -- makes girls chicken dance -- Engadget

今のソニーにワクワクする製品なんか期待していないから、せめてTeaserくらいは「おっ?」と思わせるようなものを作ってもらえないだろうか。

ということをふと思いついた。

iPhoneを提供する、ということはキャリアが「土管」になる、ということでもある。つまり通信回線を提供するだけでそれ以上のことは何もできなくなる。

しかしAndroidは違う。そもそもAndroidはOSであって、プラットフォームではない。素のAndroidは恐ろしくて使えたものではない。それ故キャリアが様々なサービスを提供する余地がある。

 同氏はユーザーがスマートフォンなどで自由に利用できるオープンインターネットを"大海原"とし、「『ユーザー任せ』では無責任ではないか」と課題を提示する。スマートフォンユーザーの65%がアプリのダウンロードをほとんど利用していないとする調査結果や、探しているアプリが見つからない、価格が高いといったユーザーの不満点を紹介した上で、「『オープンで制約のない世界』へのパスポート」というコピーで「auスマートパス」を紹介する。

via: KDDI田中社長、"新生au"のスマートパスポート構想を語る - ケータイ Watch

といさましく始まる構想だが、一番肝心な点はここにあるのではないかと思う。

「auスマートパス」向けの安心・安全な取り組みとしては、不正アプリ対策機能も搭載した「ウイルスバスター」が提供される。加えて、サービス品質やセキュリティチェックを行う「セキュア検証」、「auスマートパス」に関するあらゆる問い合わせに答えるサポートセンターも開設する。

via: KDDI田中社長、"新生au"のスマートパスポート構想を語る - ケータイ Watch

どこかAmazonくらい徹底的にAndroidをOSとしてだけ利用する会社はでてこないものだろうか?いずれにしてもAndoridのシェアは高まる一方。しかしそれだからといってiOS v.s. Androidがどうのこうの、というのは意味がない。

米Piper Jaffray社のジーン・マンスターの試算によると、Apple社のApp Storeはアプリ市場の全売上の85~90%を占めている。2011年だけを見ると、App Storeが34億ドルの売り上げを開発者にもたらしたのに対し、Android Marketは2億4000万ドルにとどまっている。

via: アプリ売り上げ「iOSはAndroidの6倍」、その理由 « WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム

Androidがでたとき「PCでも同じことが起こった。だから、Androidが勝つだろう」という短絡的な「専門家」の意見をたくさん目にした。世の中はもう少し複雑なようだ。

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さて、一方私が偏愛するiPhoneである。(もってはいないけどね)昨日ふと気がついたことだが、iPhoneは基本的に一種類しかいない。それで、女子高生から、主婦から私と同じ年の疲れた男性までみんなが使っている。これは驚くべきことではないだろうか。

ターゲットユーザを明確にして、それに合ったモノづくりを、とはよく聞く話だ。「F1層がどうの」とか得意げにしゃべる人間もよく目にする。

しかしiPhoneはたった一種類、2色でそれら全てのユーザに対応しているのだ。

もちろんカスタマイズの余地はある。大きな耳のついたラバーケースを複数見かけたときは驚愕した。各メーカーが血が出るほどの努力をして小型化をしているのはなんのためなのだ。しかし元は一種類。

親愛なるDocomoのサイトを覗いてみよう。

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via: docomo with series ARROWS Kiss F-03D : 特長 | 製品 | NTTドコモ

別にdocomoが悪いというつもりはない(本当は少しあるけれど)普通はこうだ、と言いたいのだ。Appleが異常なのだ。よく使われる図だけど再掲しておく。

誰でもAppleのほうが正しいことはわかる。量産効果もでるし、価格も下げられる。
しかしこれを可能にしている「デザイン」「仕様設計」の力には驚嘆させられる。

さて、誰にも理解してもらえなかったようだが、このような事を人前で主張した私としてはこの記事を黙って見過ごすわけにはいかない。

sweeping generalizations」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか? これは「一般的すぎてほとんど意味をなさない論理」という意味です。これと同じように、広すぎる対象範囲から一つの結論が出ているものは間違いだと言っていいでしょう。ステレオタイプはこういうところから生まれるのです。インターネットが私たちを愚かにするという主張は、ある特定の場面では正しいのかもしれませんが、一般論とすることは間違いです。今のところ、これを裏付けるようなリサーチは発表されていません。

この迷信を私たちが簡単に信じてしまう理由は、インターネットによって人が他力本願になりつつあるからです。どこへ行けばいいのかはGPSデバイスが教えてくれるし、なんでもググればいいので、あまり記憶もしなくなりました。しかし、これが「私たちは愚かになった」につながるとは言えません。心理学者のDaniel Wagner氏によると、私たちは「transactive memory(交換記憶)」に頼るようになったのだそうです。交換記憶は実は便利なもので、全体を記憶するのではなく、名前やキーワードだけを覚えるようにできているので、小さい容量にたくさんの情報を保存できます。あとで全貌を知りたかったら、そのキーワードで検索をかければいいわけです。

このように、私たちは全体を思い出せないことで、自分がインターネットのせいで愚かになったと思い込んでしまっています。インターネットのアクセスがない状況に陥ると、私たちはバラバラの情報のかけらをつなげることができず、途方に暮れてしまうわけです。しかし、科学的な根拠は現段階ではないのですから、「インターネットによって愚かになる」というのはカルチャーとして言われているだけだということになります。

via: 科学的に偽りであることが証明された脳に関する9つの迷信 : ライフハッカー[日本版]

まず「科学的な根拠が現段階ではない」ことと、「科学的に偽りであることが証明された」は等価ではない。例えば「ガニメデに生命が存在する」根拠は現時点では存在しない。しかしそれは「ガンメデに生命が存在することが科学的に誤りであることが証明された」とは言えない。

この記事で主張していることは「インターネットの利用で、一般的に言って人間が馬鹿になった、という主張を裏付ける根拠はない」ということだけである。そもそも「一般的に人間が馬鹿になる」などという主張は、何によってもただしくない。私がその昔DetroitのRadioで聞いたとおり

"Generalization is always wrong"

なのだ。

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さて、私はチンピラサラリーマンなので、科学的に証明されていない命題についてもう少し考えてみよう。

GoogleとEvernoteにたよりきった人間の頭はザルと化しているのではなかろうか、と私は主張した。頭の中にはGoogleとEvernoteへのポインタだけが存在しており、なんでも「検索すればわかる」

と考えている状態だ。

私の発表中、チャットでこのような指摘があったと聴く。

「ザルじゃだめですか」

私は自信を持ってそれに応える。(何の根拠もなしに)

「ダメです。あなたの頭がザルになろうが私には何の関係もないが、私の頭がザルになっている状態は許容できない」

なぜそう考えるか?

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問題は「検索すればわかる」というのは問題があり、それに対する答えが既にどこか(インターネットもしくはEvernoteの中に)存在している場合には機能するが、そうでない場合には機能しないからだ。

いや、もちろんこれはものすごく便利なのだよ。iPhoneアプリにGPS機能をつけたいと思う。例えば20年前だったらどうしただろう。まずiPhoneアプリ構築に関する本を何冊か購入し、そこからコードを探して「写経」する。しかしそれは古いバージョンに基づいたものだったらしくエラーが生じる。ええい、どうやればいいのだ、と途方にくれて一日が終わる。

しかし今やGoogle先生にお伺いを立てればものの数分でこれに対する「最新かつ正しい情報」を得ることができる。これは無茶苦茶便利だ。

しかしながら

問題はこうした「情報の検索方法」に依存している限り、問題に対する新し解法、あるいは問題そのものを見つけることはできない、ということにある。多くの人が経験していることと思うが、最良のアイディアは

「仕事に疲れ、もう今日は帰ろうと思い、電車に乗った(あるいは車に乗った)瞬間」に訪れる事が多い。つまりその時点では、頭に必要な情報が存在している必要があるのだ。

つまり

「新しい方法、問題」について考えようと思えば、材料は頭の中に存在していなければならない。それらが自分でも説明できないような結びつきを持つ瞬間に「新しい方法、問題」を思いつくと私は考えているのだけどどうですかね。

こうした点において、情報が脳の外部に存在し、それを検索している状態と、頭の中に情報が存在し、それが得体も知れぬ結びつきを持っている状態は大きく違う、と主張したい。そして私は

「ググればわかる問題」

だけを解いて一生を終えるつもりはない。再度引用するが

インターネットのアクセスがない状況に陥ると、私たちはバラバラの情報のかけらをつなげることができず、途方に暮れてしまうわけです。

via: 科学的に偽りであることが証明された脳に関する9つの迷信 : ライフハッカー[日本版]

バラバラの情報のカケラを前に呆然と佇んで、しかも

「私は愚かではない」

と主張するのは私が望む姿ではない。,,,というかこの文書書いた人(あるいは訳した人か?)ってこれ書いていて自分でも変だと思わなかったのだろうかね。

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